曇天模様
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色の濃い雲が多く、昼間なのに薄暗い。陰が物の輪郭をぼやかし、陰鬱に思える。
草原を黒く染めるように敵の姿が増えてきている。トオワ・迅は、ふと、蟻の行列を思い出した。
普段は気にも留めないが、もし蟻と人とが同じ体格であれば、と考えたことがある。硬質で頑強な体が犇めいて寄って来たら、その圧力は想像を絶するだろう。目の前の河津攻団は、おそらく、それに似た圧迫感を持っているのではないか。
河津の男達は綜に比べると背が低く、樽のようにどっしりした体をしている者が多い。さらに、押し並べて荒々しく獰猛だ。
その河津の進攻に対して、綜側も南部の領土にいる『統』分の者を召集して守団を形成した。
統分の士は、平時においては、各地の治安を維持しているのだが、本来、全土を統べるためにその命を捧げて戦う存在とされる。
召集された統士は、まずは百名前後から成る小隊に分けられた。それから、幾つかの小隊に加えて、従軍してきた支分の者達を合わせて、千名程度の大隊を形成する。それから、三~五隊程度から成る大隊を束ねた幹隊が三つ編成された。
総勢一万強の守団将は、テイスグ・傳。彼は、二人の副将に、其々三千から成る幹隊を率いての南下を命じた。そして、テマ高地の森林地帯で河津攻団と遭遇し、開戦となったのであるが―――。
そもそも河津は好戦的な国で、人口に占める『統』分、つまり職業戦士の割合は高い。東に接する瑗との幾度もの戦を経て、経験も十分に積んでいる。
瑗は総人口における『考』分の割合が高く、文化発展に力を入れている。統士の戦力はさほど高くなく、同規模で闘えば、河津が勝つ。けれども、人口で劣る河津では統士の数に限度があるので、結局は均衡が取れ、河津と瑗の戦いは一進一退の状況となることが多い。
河津と綜とでも、同じである。やはり人の数で綜には及ばず、長期間戦い続けられる地力はない。綜への北進も、毎回それほど奥深くまでは進めず終わってしまうことが多い。
ところが、今回、ガシン・モウ・牙は、攻団将ハイル・淑に命じて、相当の戦力を用意させた。『統』分だけでもすでに綜と同規模に至った上で、さらに相当数の『支』分の者を動員している。
歴代の中でも特に好戦的な部類に入るモウ・牙は、綜真暗殺説を濡れ衣と主張して、有無を言わせない大勝利を欲しているのは明らかだった。
*
ただでさえ憂鬱な気分になりがちなのに、トオワには別の気がかりがあった。
ただ茫然と敵を眺めていた統士たちが急に興奮しだした。狂ったように、あるいは、縋るように、ある名前を連呼している。綜真の叔父にあたるオスト・青が統士達を鼓舞しに来たためだ。
鮮やかな朱色に染められた衣は、金糸で華麗な刺繍がなされ、このような曇天の下であっても光り輝いて見える。こうした豪奢さとは縁のない者からすれば、見た目だけで頼りになる者がきたと認めてしまうかもしれない。
トオワは、仲間達のように単純に同調し、興奮できない。むしろ、不安な気持ちになってしまう。
戦の直前は、できるだけ着飾って、常時とは違う気分を盛り上げたい。その昂ぶった気持ちのまま、勇猛果敢に戦いたいという気持ちはよく分かる。トオワもまた、それなりにめかし込んで来ている。
だが、オストの格好はそもそも実戦向けではない。非実用的な装飾品が数多く付けられた防具は重く、さぞ動きにくいことだろう。
それでも彼は困らない。シントは国を動かす要となる者達であり、そんな高貴な存在を、実戦に参加させることはないからだ。
シントに付き従って来た者達を見ても、彼らに戦闘の意志がないことは明らかだ。オストには見劣るが、着飾られた格好をしている。闘争どころか、おそらくは剣を抜いたことがないであろう政司ばかりだ。
戦闘に巻き込まれる危険も顧みず、こんな所まで顔を出したのは、自分こそが綜の要であると主張したいがためか、とトオワは苦々しく思う。
オウ・青は帰国後、父親の遺志により、綜の真となった。ただ、すぐに全面的に受け入れられた訳ではない。ろくに政治を知らない若造であり、任せられないという声も多かった。
現在のところ、真であることは良いが、せめて実績を積むまでは、独断を行えないように制限が付いている。シントであるオストは、事在るごとに発言し、己こそがその後見人だと主張している。
こういう気持ちの昂りやすい場所での呼びかけは効果的で、後々の支持獲得に使えるのだろうが、そんな内輪の話は真宮内で収めて欲しい。
「足手まといめ、さっさと帰れ」と、辛辣な言葉が放たれた。
トオワの口から出た言葉ではない。だが、内心の声が漏れたかと思い、ぎくりとした。
振り返り、すぐに合点が行く。トオワの反応を見て、満面の笑みを浮かべている若者がいる。
「サーカ、お前……。本当に肝が据わっているな」 と、呆れたような、感心したような顔で、トオワは言う。
サーカ・狸は、トオワの少し上の年であるが、諸国を巡り歩き、その都度問題を起こしてきたといわれる。声真似を始め変わった特技を持つ、癖の強い男である。
トオワの言葉に、サーカはわざとらしく驚いてみせて、おどけるように答える。
「ワタシなどは、度胸一つしか取り柄がありませんからねぇ」
「本当かよ。単に度胸だけで、小隊長に抜擢されたと言うのか?」
流れ者というだけでも気に食わないのに、物腰が軽いとあって、同輩の中にはサーカの力量を疑う者も多い。トオワも、軽んじたりはしないものの、全面的に信頼しているわけではない。
「そのぐらいしか取り柄がなく、隊長格なんて、望んでなかったんですがね」とサーカは言う。「もっとも、度胸だけ比べてみても、あのお方には到底適いません」
サーカ・狸は恭しくある方向を指差した。その先には、まだ帰ろうとしないオスト達がいる。
トオワがため息を付き、あのなぁ、とシント批判を嗜める口を開こうとした時だった。
突如として、全軍前進の合図が聞こえてきた。しかも、その銅鑼の音が聞こえてくるのは、綜側からだった。
まだ予定の時刻に達していない。配置も中途半端だ。なによりも、まだオスト達が撤収していない。彼らを庇っていれば、動きが悪くなる。開戦となれば、いてもらっては困るのだ。それなのに―――。
「我が僕たる統士たちよ、今こそ真価を発揮する時だ!」 と、煽る声が聞こえる。あろうことか、当のオスト本人の激であった。
耳を疑い、思わずサーカを返り見る。彼も軽く眼を見開いて、驚いたような顔をしていた。
「真の代理たる我が余すことなく見届ける。その働きに見合った報酬が、必ず与えられるであろう! 存分に実力を発揮せよ!」
進め勇士よ、とやけに堂に行った声で命じるオストに呼応して、歓声が沸いた。
「おやおや」 と、サーカは肩をすくめた。 「少し、見誤っていたようですねぇ。ここまで、とは思いませんでした」
「……ああ。厳しくなりそうだ。投げ出したくなったか?」
サーカは、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。始まってしまった以上は、やるしかない。そうでしょう?」
サーカの言うとおりだった。シントの命に逆らって留まっている訳にもいかない。もっとも、今更待てと行った所で、止まらないだろう。下手に勢いを止めるより、一気呵成に押し出す方がましだ。
ただ、また皮肉の一つでも返してくるかと思っていたので、このサーカの腹の括り方は意外だった。
自分の指揮する隊へと戻っていくサーカは、顔つきも違って見えた。彼の指示一つで、部隊は整然と動きだしている。この事態も想定され、準備していた、ということか。
「やっぱりお前、食えない男だよ」
トオワは無理やり気持ちを切り替えて、自らの小隊に号令を出し、戦場へと駆け出した。