流れ、至る
第一部 真統の国
第一章 【真穿】
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昂国歴・深代の終わり。伝説の英雄コウ・ウが煌国を建国。島の北方山岳地帯、クス山系全域を領土とすると宣言した。
その後、北の皇氏、西の平原の妓氏、東の森の埴氏を最大勢力として、数々の国が乱立するこの時代を開代という。
十三国期、六国期を経た後、綜の南部・海岸地帯を拠点とする楠氏が独立を宣言。この河津国建国以降、全土統一までの長い争いの期間を、戦代という。
小国は勢力を失い、北の煌国、東の瑗環国、西の綜統国、南の河津国と、四強がにらみ合うようになっていた。
戦代165年(西暦1065年)の暮れ、クスル・青は綜真となった。それに先立って、同年夏、瑗にいたクスルの妻子の奪還が試みられ、クスルの子オウのみ、綜へと帰還した。
綜統国は統国軍攻団を編成し、瑗環国に大戦を仕掛けた。しかし、戦代169年(西暦1069年)、ターレイル河畔での大決戦の最中に、クスル・青は暗殺されてしまう。
主を失った綜は撤退して、統国軍を解散。諸国は再び睨みあいの状態に戻った。
亡き父クスルの後を継ぎ、オウ・青は十八歳にして綜真となる。綜の地で、国の行く末を左右する大きな流れが生まれたのは、それから六年経った後であった。
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先代綜真の暗殺は、実は、河津の指図によるものである。そういう説が再び囁かれるようになっていた。
この黒幕説は当時からあるもので、決め手に欠きつつも、細々と囁かれていた。ところが、ここに来て何故か、急に信憑性を持つものとされるようになった。それが河津の主、我真・モウ・牙の耳に入るまで、時間は掛からなかった。
楠氏の中でも牙家は好戦的な一族として知られている。真偽はどうあれ、その猛々しい血に従うようにして、モウ・牙は即座に動いた。
戦代175年(西暦1075年) ターレイル河畔の戦い後より続いた均衡状態を破って、河津は綜領土へと侵攻を開始した。綜は守団を形成し、迎え撃とうとしていた―――。