草上を往く
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「いやあ、だぁれにも会わねえなあ・・・」
豚人の男、ブンザバンザが故郷の集落を旅立って、はや何週間か。感慨深げに呟くこの台詞も、幾度目になるか分からない。
何しろ生まれてこのかた、故郷のある森をまともに出たことすらないブンザバンザにとって、一日以上他人と言葉を交わさない時点で新鮮過ぎる体験だった。
故郷の老人達に聞いた、人間――石歩人の作ったという国があると言う方角。ブンザバンザは愛馬タロに跨ってその方角にひたすら進んだ。
タロは故郷にいた馬の中でもとびきりに丈夫で賢い馬だった。ブンザバンザは進みたい方角を伝え、進行をほとんどタロに任せた。タロは障害があれば鳴いてブンザバンザに警告しつつ、自分でその障害を回避する。ブンザバンザが進みたいと言った方向も覚えていてくれるので、乗る側としては大助かりだ。もちろんブンザバンザも周囲に気を配りはするが、タロと協力しているという意識が強いので初めての旅にしてはずいぶんと心に余裕が持てていると思う。
行く先々に生える野草や果実のうち食べられると分かっているものだけを集めて食料にし、丁度良さそうな獣が見つかればブンザバンザが故郷から持ってきた槍で狩りもする。飲み水は川や湖を見つけるたびに革袋一杯に補給した。夜は進むのを止めて火をおこし、食事が済んだら枯草に寝転がって星空を見ながら眠りに落ちた。
一人と一頭で一日の全てをこなす日々は幸い飢えることも大きな怪我を負うこともなく順調で、進むほどに変わる景色は狭い世界で生きてきたブンザバンザには刺激的で感動の連続だった。
今、ブンザバンザは喜びを噛み締めている。
これだ。自分の知らない物事に触れる驚きと楽しみ。
これを求めて旅に出たのだ。この感動が欲しくて、自分は今、行ったこともない他種族の国を目指しているのだ。
故郷の老人達が言うには、その国と自分達の祖先に関わりがあったのはもう何百年も前のことらしい。
その頃の交流で、豚人は外部の文化を取り入れて大きく発展したということだった。
乗馬、服飾、保存食。今では故郷で日常的に用いられている技術の中にも、他種族発祥のものが沢山あるのだそうだ。
友人達は難しい話だとあまり興味を持っていなかったようだが、これらの話にブンザバンザは大いに惹きつけられた。
ブンザバンザも豚人以外の種族を知らないということはない。人数は少ないが故郷にも『鉤鼻人』や『鬼角人』はいたし、ブンザバンザ自身も家系を遡れば豚人以外の種族との混血である。しかしブンザバンザが生まれるよりずっと前から共存が続いている彼らに対して、身体的特徴の違いに興味が湧くことはあっても目新しいものを見る新鮮さは感じなかった。
老人達の語る昔話や物語には、ブンザバンザの見たことも聞いたこともない特徴を持つ種族も多く登場した。彼らの中には、森の中ではない全く異なった環境で生活する者も沢山いるのだとも聞かされた。
自分が知らない文化が溢れる世界というのがどのようなものなのか。好奇心旺盛だったブンザバンザ少年にとって、未知なる世界への想像は夢物語のように煌びやかなものとなった。その想像を維持したまま成長し、今ようやくその夢の世界への一歩を踏み出しているのである。
とは言え、他人の築いた文化を堪能するのは今しばらく先になるだろうとブンザバンザは考えていた。
現在一人と一頭が進んでいるのは、前後左右見渡す限りの大草原である。地面いっぱいに細く背の低い草が茂り、まるで薄緑色の絨毯の上にいるようだ。所々にひょろりとした木々が固まった場所があり、そのような場所には大きな猫のようなのや、故郷にいた鹿を細くしたような奇妙な獣の群れの姿があった。
猫のような獣の方はこの地の捕食者だと見当がついたが、見慣れないこちらの姿に警戒してか襲い掛かかっては来ない。攻撃してくる存在も見当たらず、見晴らしも良いため夜もそれほど気を張らずに休むことが出来た。
何日か前にこの草だらけの土地に入ってから、細い木の群生とここに住んでいるらしい獣以外のものを全く見ていない。人の気配は、故郷を出てから現在まで皆無である。
故郷で聞いた国のある方角が間違っていたのかとも考えたが、それでも良いかと、ブンザバンザは楽観的であった。
なにしろ人と会わなくてもこんなに楽しい旅なのである。見る景色見る景色、どれも自分の今までの人生に無かったものばかり。食料となる獣は狩りで手に入り、飲み水は定期的に降る雨を革袋に貯めこんでいるので一度も切らしていない。何か不満を上げるとすればこの草原地帯では野菜や果物の類が食べられそうにないことくらいだ。
ここまで大した問題にも出くわしていないし、この調子なら人に会わないままでも後数週間は旅を続けられそうだとブンザバンザは思った。もしこの先に目指していた国が無かったとしても、ずっと進めば別の文化の一つや二つは見つかるはず。
人によっては少々能天気で無謀な展望のようだが、種族的にも個人的にも体力に恵まれるブンザバンザはこういった思考の持ち主であった。
それからさらに数日後。太陽はてっぺんを少し下り始めたあたり。ブンザバンザは、タロに跨って上機嫌で進んでいた。先日狩って固焼きにした鹿の脚肉を昼食にたっぷり食べたばかりなのもあるが、景色に変化が出始めたのだ。
まだまだ足元は短い草ばかりだが、ひたすら直進するブンザバンザ達から見て右側の景色に、前日から少しずつだが低木が増えてきていた。低木のさらに奥、はるか遠くに目を凝らすと、黒緑色が地平線上に揺れている。どうやら森林があるようだが、視線を横に動かしても端らしきものが見えないあたり、かなり広大な様子だ。景色がぼんやり霞んでいるので、そちらにまっすぐ進んでも到着に何日もかかりそうである。
この草原の旅も穏やかで楽しいし、タロもここの草をそこそこ気に入っているようだが、新しく見えて来た森にも興味がある。
森があるということは、豊かな土壌や水もあるはずだ。美味しい果物が食べられるかもしれないし、きれいな泉か川でもあれば思いきり水浴びも出来るかもしれない。
それに森の恵みには生き物が集まるものだ。獣は当然いるだろうが、ひょっとしたら周囲に人の文化が根付いている可能性もある。
そこまで考え、ではいざそちらに進路をとろうと言うところで、ブンザバンザは空気の変化に気づいた。今までと違い鋭く張り詰めたような気配を感じ、タロの背を軽く叩く。タロは乗り手の意思をすぐに理解して足を止め、両耳を忙しなく動かし始めた。その背中に跨ったまま、ブンザバンザはその大きな鼻から繰り返し小さく息を吸い周囲の匂いを嗅ぐ。
豚人は嗅覚に優れた種族だ。その中でも男性の豚鼻はこの世界の人間の何倍も優れた感覚を備え、距離の離れた薄い匂いも察知できる。
その鼻をひくひく動かしていると、やがて風に乗って血の臭いがブンザバンザのもとに届く。
「獣か?・・・小さいな。嗅いだことがない感じだ。他にも何かいるか」
そう小さく呟くと、ブンザバンザは右手を後ろに回し、鞍の後部に括り付けた荷物に触れる。
顔は周囲を探ったまま、指の感覚で槍筒から短槍を一本抜き出した。