旅立ちの朝
不慣れですがよろしくお願いします。
まだ日が昇る前、その二人は別れの前の最後の言葉を交わしていた。
「ほんとに旅に出ちゃうんだねえ、ブンちゃん」
「止めないでよ、おばちゃん」
「止めない止めない。あんたの父ちゃん母ちゃんもきっと笑って送り出したろうさ」
「本当、長い間ありがとうね、おばちゃん。俺、随分迷惑かけちゃったよな」
そう言うと、おばちゃんと呼ばれた老婆は少しだけきょとんとして、次いで大笑いしながら男の体をばしばし叩いた。
「あっはっは!相変わらず見た目に似合わず優しいんだからアンタは!こーんなでっかくて強面なのにさ!」
「ははは、ひでえなあ」
老婆の言う通り、ブンと呼ばれた男はとても体が大きかった。
老婆も小さい方ではないがそこから更に頭二つ分は背が高い。肌は赤褐色で、腕も脚も筋肉で丸太の様に太くなり、胸部や堅太りした腹回りはもはや巨木の幹の如くである。
みっしりと詰め込まれた肉の上にはやや多めの脂肪がのり、大きかった輪郭を更に大きくしているが、弛みは一切ない。
そのような威圧感溢れる体も目を引くが、それ以上に特徴的なのは頭部。
髪と眉は生えておらず、薄く生える顎髭も今はきれいに剃ってある。
眉の代わりに張り出した肉で目の周りは窪んだ様になっており、奥の瞳は茶色く活力に満ちている。
ごつごつと角張った顎は噛む力の強さを容易に想像させ、口の端からは太く鋭い犬歯が見え隠れする。
そしてそれら逞しさを印象付ける特徴達を上回る主張を見せるのが、鼻だ。
まるで顔面に小さな樽が付いたかのような輪郭。老婆の鼻腔が小さな鼻の下部に付いているのに対し、男の鼻腔は二つの裂け目の如く樽鼻の前面にある。
その頭部を端的に言い表すとするなら、間違いなく『豚面』であった。
会話をする二人は『豚人』だ。豚のような顔の特徴は男性だけで、女性は筋肉質で赤褐色の肌なのは同じで頭部はほとんど人間・・・この世界で言うところの、敷き詰めた石の上を歩く人々、『石歩人』と変わらない。
男性も本来は黒い髪と眉が女性同様に生えるのだが、ブンと呼ばれるこの男は頭部の肉が育ち過ぎたのか途中で抜け落ちてしまいそれっきりだ。本人はすっかり慣れたものである。
「それで?行先は前言った通り?」
「そう。じいさん達が言ってた『石歩人』が作ったって国を目指すよ」
「きっとすごく遠いんだろうねえ。おじいちゃん達もそんなに詳しく覚えてなかったんでしょ」
「まあ遠いんだろうけどさ、近場じゃ旅にならないでしょ」
「あっははははは!そりゃそうだ!まあ他でもないアンタの事だからね、大抵はなんとかなるでしょ。タロちゃんも一緒だしね」
老婆はそう言うと、男の背後の存在に目を向ける。
そこには、大柄な馬が座り込んでいた。
輪郭は普通の馬とあまり変わらないが体は一回り大きく、全体的に太い。全身美しい黒毛で、瞳は星を散らした夜空のように小さく幻想的な光が漂う。
名を呼ばれた馬は声の主を一瞥すると、やや大きな動作で頭を上下させた。その揺れで鞍の後ろに結んだ荷物ががちゃがちゃと鳴る。
「ふふ、相変わらずお利口さんだねえタロちゃんは」
「うん。さて、そろそろ行こうかな。皆起きてくると囲まれて時間取られそうだしさ」
「そっか。それじゃ元気でねブンちゃん。頑丈で色々出来るからって無茶なことは控えなさいよ?」
「わかってるよ。タロ、行くぞ」
男がそう言うと、馬はぶるっと一鳴きして立ち上がる。見上げるような馬体も、慣れた動きで背に飛び乗る男の体躯にはぴったりのものだった。
「皆にはよろしく伝えといて。今までありがとう、おばちゃんも元気で」
「楽しく生きなね、ブンちゃん!」
老婆の朗らかな声に笑顔で頷くと、鞍に跨った男は馬の首を軽く撫でる。すると馬は男の意思を理解しゆっくりと歩き始めた。
後方で老婆が手を振っているのをちらりと一瞥して、またすぐに前を向き直す。それきり、男は振り返らなかった。遠くの空から日の出の輝きが視界に入り、少しだけ目を細める。
その日、小さな豚人の集落から、広い世界を求めて一人の男が旅立った。
彼の名はブンザバンザ。これは後にとある大陸に名を響かせる、『豚鬼』の物語である。