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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

○○○と五月とか恋愛とかもろもろ全部はすべて、まるっと無限ループという仮定

 恋愛というものが、誰かが相手に欠けているものを与えて、与えられる側が何かを与えてもらってという現象が恋愛かどうかは本当かどうかはわからない。とどのつまりすべてはわからないという前提の元で考えてみると、相手のわからないこと、自分のあいてのわからないことを理解しようとする場合、必ず終わりがあるように見える。大体がハッピーエンドを迎える物語は、みんなわかりあって終わる。で、続きがない。これはこの前いったことで、気にしてることだった。わかってしまったはい終わりでいいのかという話で。

 じゃあ恋愛というものがわからないものを見つけていくやり取り、コミュの濃厚なものだと仮定した場合、そこには当然個人個人の「わからないモノを探す」というのはいったことだと思うのだけど、だからこそ千差万別であるという意味では小説的な部分もあると思う。小説人間説をいったように、恋愛をする人々もまた人間なわけだから、そういうことになる。その人間と人間の物語をぶつけて、その間でできる人間、物語を生み出す。という作業をするのであれば、やはり人は精神的にも子作りが可能なのだということになる。それがどんな形をしているのかは当然わからない。つまり、人とはわからないからこそ求めるのだが、「往々にして自分ですらもわからない」場合があり、「助けようとしている側もなぜ助けようと思ったのか無自覚的である、あるいは自覚的に理解し救ってみようとする」場合がある。その結果、人は時々勝手にそれを決定づけて、「それが本当なのだ」とその人の信じているものを、自分の信じたその仮定と重ね合わせて、断定してしまう場合がある。それを断定していなかったなら問題ない。

「こう思うけど、どんな反応をするか試してみるか」

 といった時に、想定通りの反応と、そうでない反応の場合がある。

 どちらにしても慢心しなければ問題ない。「なるほど、お前はこうだったのか!!!」と判断してしまった瞬間に、その物語は終了することになる。それで本当に幸せかどうかは個人の自由だし、別にそれで十分な幸せを手に入れられる人はいっぱいいる。それでいいのだと思う。人が相なれない部分というのはまさしくそこで、人によって「求めている限界」がちがうから、「これだけわかったんだから満足したろ。人生終了や」という場合と、「こんなもんかな!」「最悪だった」「まだまだや」というのがある。確実に相なれない、手に入れていない人が手に入れている人をみるとき、手に入れている人が手に入れていない人を見るとき、確実にそこに軋轢が生じる。ただ、軋轢が実際に生じるかどうかは相手を「どう思った見ているか」によって決まる。

 相手を上に見ているなら、下から見上げているように感じる。相手を下に見ているようなら、上から見下ろしているような気がする。

 どちらにせよ、不満が発生する。軋轢がでる。

 人は人と自分の幸せ、手にしているものを手放したくなく思い、手にしていないものを欲しがる。他人に渡したくない。私だけのものにしておきたい。わかっておきたい。わかったつもりでもいい。それで幸せになる。物語は幸福になる。人生はそれでいいんだ、満足だ。その度合いが人によってちがうというのなら、それが自分の基準でしっかり理解できているなら、欲しがらずに、自分で手に入れるしかないわけなのだ。自分なりの終着点というのはまさしくそれだった。自分の幸せは本当にそれでいいのかと自問して、間違っていたならまた探せばいい。どこかに答えが見つかったら、それをもう一回自分の胸に手を当てればいい。あいての言葉を完全に信じ込み、わかったつもりになって、それでいいかと満足して、たとえばそれが自分の幸せだと本当になっとく出来たならいいと思う。でも、「あの言葉は本当だと思った。多分」くらいだったら絶対やめたほうがいいと思う。それが本当に正しいんだって自分の心で本当に信じられるものだとしたら、本当に本当に本当に本当にそいつが私の幸せ終着点だ、私はその物語を造るために、そいつと物語をぶつけあってみたいと思えるなら、それでいいんじゃないだろうか。

 見つからないって人だっているはずなんだよ。そもそも、この世界は三次元だし、理想の世界じゃなくて、理不尽で残酷だしおかしくて、人はわかりあった瞬間に、もう飽きたといって簡単に見捨てるよ。覚えありません?「あいつは私の想像していたものじゃなかった。ぶっころ。勝手にしろ。もう顔もみたくねえなあ」もちろん、これは私もいいましたよね。相手を、勝手に判断したわけです。「あいつは私の想像していた存在じゃなかった裏切られた。しかも私をぶっ殺そうとした」と。

 結局、それでぶつかり合いになったケースの上で、人はお互いに何かを築き上げることは可能だったと思う。全く無駄だなんて思わない、私は文章を書いている時に、本当に泣いてしまった。かなり泣いた。なぜなら、自分がその「タイミング」で判断し、一緒にいてくれてうれしいんだ、という判断基準でわからない感情があって、それが「わかったものだから」、すごい揺さぶられた。結局、僕はそういう意味では、ツールについて一つ判明したのは事実だった。それは間違いない。

 人の心を揺さぶるような真実めいた発言をして嘘の可能性もあるが、これは真実だといっておこう。その証拠に、私は絆という言葉の理解を深めた。絆という言葉の意味がでてきた。これは、絆という言葉が実感として、あるんだ、とわかった瞬間だった。自分の探していたものが見つかったってことだった。

 話を戻すけど、僕は五月という人物がどういう人物なのかって時に、はじめは「そ一緒に高め合っていけるんじゃないか。こいつは真面目そうだから、いろいろ真剣に考えて一緒にやっていけそう」とか思っていた。非常に、なんか、甘い気がする。それは浅はかすぎる。何もわかっていないような気がする。そもそも、ぼくは五等分に関して、そこまで詳しいと言える自身はない。好きな作品だけど、そう、そんなに魂からこよなく愛していないと思う。なぜなら、ぼくは「浅い時点」でそれを読んだから、深いところを理解できていなかったからだ。その点については、まず一つ反省している。

 そうやって反省してから物語を読んでみると、五月って人物がわからないってのはよくわかる気がする。地獄ってのはどういうことだろうな、ふーたろーはわかってるのかな、と思っていた時に考えていたのは、こいつは不幸なんだろうなってことだけだった。

 じゃあ、どう不幸なんだろう。不幸なのは、みんな同じじゃないのか。

 結局、ぼくはそれが理解できない。

 カレーを食べているとか、たくさん食べているのをみて、「こいつは自分の欲求に素直に従って我慢できないんだろうな」と当たり前のことは思った。じゃあ、それは結局どういうことなのだろうか。欲求に素直、とは、与えられたものを「無自覚」に平らげることなんじゃないかって思った。無思考、か。

 つまり、考えないから、わからない。正しいと思っていることを正しいと思ってしまっていて決めつけているけど、何かがおかしい。でもわからない。その理由は?わからない。考えても考えても、正しいことしかわからないような。

 という、ことのような気がする。教科書通りのことしかシラナイ、みたいな。そこにしか思考がまわっていない、と。

 それが圧倒的に不幸なことで、彼女の一番の深刻な部分、つまり「地獄」であり、「天国」であるということだと思う。

 天国にずっといるから、答えが出てしまっていてそれを拒む思考力もないし、拒んでいることすらもほとんど無自覚的で、たまにたとえば自分の理解できないものを見た時に「?????」と刺激されるんじゃないか。

 結局、それが彼女を刺激する不安であり、正体不明のわからないであると。

 つまりそれが彼女の物語の突破すべき困難な状況であり、ふーたろーはそれを見抜いているのだとしたらやばいんじゃないだろうか。「地獄」とはなんなのか、わかっていると。

 お前は天国にいるから、最悪に地獄住まいなのだと。

 これは、正直答えなのかわからない。ぼくははっきりいうけど、印象だけでものをいっているかもしれない。告白するよ。絶対に君たちより読んでいる回数は少ない。それが罪悪感なのではない。もっと多分根深い。理解できてますよ、とかいいたいわけじゃない。多分もっと冷酷だった。

 だけど一応、今回のことで五等分については「もっとあるんじゃないだろうか」と推測できた。人がそんなに惹きつけられる理由は、もっと探らなくちゃいけなくて、たとえばここに書いたことを間違いだとも正しいとも当然あるはずで、物語は途中だから結論なんてでなくて、結局ぼくはそこに逃げ込んでいる。

「一旦正しいと見えているけど、間違えだとあとで判明するかもしれないから、全然違っててもいいじゃんね」と、これは別に罪悪感ではない。

 で、結局僕が何を言いたいのかというと、五月というのは姉妹たちの感情さえも本当には理解できていない可能性もあるのではないかと思った。それは、かなり衝撃的なのではないだろうか。わからない、無自覚的であるというのなら、教科書通りしかしらないというなら、そういうことになると思う。

 だけど、本当にそうなのだろうか。五月は本当に何もわかっていないから不幸なのであり、それを解いてやれば正解で、フーたろーはもうわかっているからこいつらは解決する。爽やかに終わるんだ。

 と、確信してしまうのもいいだろうし、わくわくするだろうし、期待してもいいんだろうけど、「間違いねえよ。違ったら、もう見ない」とかはないと思う。

 マジでないと思う。

 あなたの「わかった」という判断で、本当にそのすべてが見えたのだろうか。作者自身でさえも無自覚な、慢心がどこかにあるんじゃないのか?それを気づいてあげて指摘してあげた方が、よっぽど健全だし、全力出してるんじゃないのか、と。

 ここでいってしまえば、「じゃあそれが答えか。もういいや」が本当に終わってると思う。どんな下手くそで、間違った解釈でもいいんじゃないだろうか。物語のなにかで間違っていると判断されたことは本当に間違っていますでしょうか。あなたの心の中で芽生えたその気づきが、全力だったとしても。全員に間違っていると指摘されて笑われようがほめられようがぶっ殺されそうになろうが手をつなぎ合わせることになろうが、この世界がすべて「仮定」ではという前提で考えれば、すべては仮定であるとするならば、真の正解とはどこにあるのだろう。今のところぼくは、それは見えないと思っている。○○○だといった。見えないから、もう見えているのではと思った。結論が出たとしたらそれはもう終わりだけど、もちろんそんなのはただの錯覚だった。納得できるまでは続くと思おう。納得したら終了だと思う。

 その判断基準が個人によって違うのだから、軋轢をうみたくないなら、見下すのも見上げるのもやめろって話だし、戦わせてみるのもいいんじゃないでしょうか。感情だってツールだとするなら、感情を戦わせないってのもまた一つのツールを捨てる選択しであるし、じゃあ戦えばいいってもんでもないんじゃないの、と。

 結局、僕の前にいったこともすべて「仮定」である。僕が正しいと思ったから正しいだけで、「物語の展開的にそれはちがうやろ。作者のいいたいことと全然ずれてる」ってのはあるんだけど、そりゃもう仕方ないんですよ。

 しっかり読んでるようでも、その物語のすべてを理解しきったつもりであることは結局怠慢だった。終わった、良かった。

 それがそれで本当に満足だったらいいんですよ重ね重ねいうと。

 じゃあ、満足は一回きりの方がいいのか、何回も満足したほうがいいのか。浮き沈みはおおきなものが一発でいいのか。何発でも浮き沈みしたほうがいいのか。

 人生という残酷な世界の中でいえば、「なんかいでも浮き沈み」したほうが、解決策とか判断力とか思考力とか感情の発見とか気づきとかとにかくまだまだいっぱいあるから何回でも揺さぶられるべきだと思う。ぶっ壊れてもいいと思う。

 その上で、人は自分の正解と不正解を見つけていく。

 これで「答えが出てしまった」というのは、構わないけど、個人的にはおすすめはしない

「それが裏切られた」

 ときに立ち直れなくなってなんのモチベーションもわかなくなってしまって、何も考えられなくて思考停止し諦めて、絶望して死んでしまう。

 ぼくはマンションからでなければ病気というもののせいで死んでいたわけだし、それはもう絶望のせいというよりはちがう原因だけど、「その病気によって訪れた不調を治ればどうにかなる」と信じず、諦めたことによって一時終わったわけです。

 重ね重ねいうけど、僕は病気のことに関しては絶対的にはっきりいうと、嘘はないです。

 神様の声は、悪意は、あると思っています。

 また、僕の内部にもいますよ、まだ声が。

 聞こえる時はあります。それは、僕でした。僕であり、私なのです。それは完全に同一化している存在だと主張しますが、本当にそうでしょうか。いろいろ考えました。僕にとって都合の良い理想の判断、もっとも悪意ある存在ではないかという判断。

 すべてが、わからないわけです。

 我々は、わかられたらおしまいで、わからないこともあり、わかろうと試みて、分かられたいとも思い、結果としてなにかを産み落とそうとする。

「もうこれでいい。結論が出た」

 それだけはやめてもいいけど、多分死ぬと思う。

 これは戒めとして、絶対に僕は死んでしまう時というのは、「結論が出た」時だと思う。たくさんの自由を手にする代わりに、人は責任を負わなければならない。誰かを自分の理想で結局押しつぶしてしまって、その人に冷酷にも「わたしはおしつけていません」などと主張して、力押しでぶち殺したと一旦決着がついて、決着がついてしまったあなたの価値ですやったー、と叫んだ瞬間に、ぼくはその人からナイフで刺されてしまっても文句はいえませんよね。

 つまり、「結論が出た」人は、自由ではないのです。責任もありません。

 世の中でいう、何をいっても許されない場合があります。

 お前は完全なる悪とレッテルを貼られて、裁かれます。

 自由にやった奴が責任も追わず「わたしは完全勝利したのだ」と主張して鼻高したから処刑されたのではないですか。

 こいつにはレッテルを貼っていいんじゃねえかと判断されたから、殺されたんじゃないのだろうか。だったら、人は、レッテルを貼られないようにしなければならないのではないだろうか。「わたしはちがう。そういう存在ではない」と何とかしてどうにかして自分の信じる本当のものと照らし合わせて、って何年でも億年でもかけても、探し続ければいいいんじゃないでしょうか。世界は残酷ですから、頑張れば報われるものだと断定した瞬間に、あなたは終わるんです。

 とてもおかしいせかいです。気が狂いそうになると思いませんか。ぼくは、世界がレッテルを貼り、ツールであると判断した時、絶望しました。正直、あれはごまかしてみせましたがひどく絶望しました。なんて、この世界は閉鎖的なのだと。

 今は、そう悪くはないものだと思っています。ツールという言葉に「悪」を感じて、それが悪いものだと断定しなかったからだと思います。自分の中で、そのツールを正しくしてみよう、大切にしてみよう、どんなことになるのか?と試してみたわけです。

 結果としては、素直に自分の思った通りに試してみてよかったと思います。

 で、じゃあそれで慢心したら、と繋がり、結果として僕は死にたくはねえなと。別に不慮とか、自分の慢心で仕方なくぶっ殺される場合は仕方ないですけど、納得いかねえのは嫌だな、とも思っています。それもいつかは変わるかもしれないです。瞬間敵な死もいいかもしれないとは思いました。

 で、結局思うのは、五月というのはじゃあ、どのラインで満足する人間なのだろうと考えて見たときに、まったくそれがわかりづらくされていて、彼女自身でさえもわからないからまじで誰にもわからない。だけど、ふーたろーはわかっているのかも「しれない」という仮定が結局、人になにかを感じさせて思わせるわけです。

 これらの言葉を自分のなにかに利用するのはいいと思いますが、「あいつのいったことだから信用してみっか」はとりあえずいいかもしんないけど、完全に信じてしまったら負けだと思いますよ。それはお互いにそうなんですよ。なめてんな、と思ったら、実査に反発してみればいいのではないでしょうか。気づかれなかったら別の方法でいいんじゃないですか。人と人が誤解なく通じ合うなんて無理ですよ。大体は。わかんないですけど。

 というわけで、この世はわからないしかない。

 この世は美少女であり、主人公であり、そしておそらくすべての人間が物語であり誰かと物語を通じて、あらたな物語を発生させる可能性を秘めている。かもしれない。

 ないかもしれない

 ほんとうにないかもしれない

 あるかもしれない

 それが結論がでないのが人生というものの仮定であり可能性でありすべてではないのだろうか。それについてどう考えるのかが、結局各々の向かうべき道であり、結局孤独であり、孤独の先に○○○があったら、と考えてみて、孤独って本当、○○○ってほんとうかなと考えなければ、ぶっ殺されても文句はいえないんだろうなと。

 結局、とてもむずかしい。せかいはおかしい。狂っているし、狂っていると断定することすらも、断定しないことも正しくないのでは、そのレッテルは、世界は本当に正しい?仮定とは、正しい?

 つまり、わからないのです。

 なにもかもが、不明なのです。

 だから探る必要があり、人とは永遠に探れる可能性を秘めていて、無限に成長できるのです。進化よりも、成長のほうが多分すぐれているのではないだろうか。進化もいいだろうけど、成長もいいのでは。いや、成長以外にもなにかあるのでは。なにもないのでは。

 その可能性だけでも、日本人何億人とかでも足りないわけですよ。

 しかも、物語的なものを造る人の数だけと考えてみれば、可能性を模索する人自体が現象するかもしれない。全員人類が探す人間んだとしても、物語の分野だけでの競争となったら、そういうことになります。すべての人類が競争し、可能性を模索し、可能性すらもないのではないかとか妄想する。

 それが、いまのところの、わからないことにたいするわかったつもりであるということなのです。もうこれで本当に「もういいや」といった人のことはシラナイ。

 可能性がこれだけあるのに「無理」といった時点で、程度がしれます。

 ここに悪意が隠されているといって、見つけ出す場合と、ない場合があります。それが本当に悪意なのか、善意なのか、それも判断していいんじゃないでしょうか。

「俺は悪意を持っている」

 といったそいつが、本当に悪意を隠しているでしょうか。ブラフでしょうか。真実でしょうか。真実がそもそもない、仮定でしかないこの世界で、本物の真実なんてどこにあるんでしょう。僕には、本当にわからないです。

 だから、物語を書く必要があるわけです。

 これで決まっちゃったね、とか思った人は、もう顔も見たくありません。

 ツイッターがなければこのかんがえには百歩も及びませんでした。

 ツイッター最高!(??????)おい

 こうやって見ると一ついっておきますが、ぼくは五月とは真逆の位置にいます。多分。だから、気になったのかもしれないし、もしかしたら似ているのかもしれない。

 正体が不明ってのは怖くて、探せるし、結果として興味がわいたりはします。

 五月がわからない状態がもっとも物語的で、彼女がそれを「わかってしまった」瞬間、物語は生まれるけど、もう彼女はわかってしまって二度と物語は発生することはない。次に向かう必要がある、とした場合。

 次を見てみたくなるかもしれませんが、最初の「わからない」の状態が一番魅力的な可能性もあります。対抗策がなくて真剣に悩んでより苦しんでもがき苦しんで解答を出したその瞬間にだけ、彼女たちの最大の輝きがあるんじゃないか。

 もう、つまり、「わかればいい」ってことでもない。「わからないままでもいい」というわけでもない。最大の世界の闇がそれだと断定することもできない。

 ああ、名前をつけられねえな、と気がつくわけです。あとはっきりいって、僕は多分五月のことをわかってしまったとも、他のすべての可愛いと思ったキャラに関してもかっこいいと思ったやつに関しても、わかったつもりになってしまってはいけないのではないかと今思いました。

 ぶっころ。幸せ。不幸。

 ○○○はまだ遠いんだろうな、って思って戒めなのか慢心かわからなかった。

 ぼくは天国住まいです!(殺してくれ)

 やはり言葉に意味などなかった。すべては反対であり、嘘であり真実であった。

 真逆であることの逆とは??????

 わかった気がしたし、わからないようでもあった。同じことをいった。

 これね、ぼくはずっといってました。

 途中で気づいてきたこともありました。でもずっとこれを求めてました。

 結果として、これをぶちまけようはっきりさせとこうと思ったのは、感謝すべきことでもあるかもしれないですが、これも(ry

りょ。多分気づいてた人、いたと思ってる。気づいていないと思ってるフリをしてるだけのやつがいる可能性もある。

 それを勝手にきめつけちゃうことだけは、やっぱり避けなければならないと思った。

 でもこれも(無限ループ)

 あーあ。おもろ。世界が貧弱化してほろんぢまえばいいのになっ!

 これ、きもいんだよなー。

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