「『塵』テロ」。
気紛れヒーロー VS テロリスト。
ようこそ、摩訶不思議な南沢寺へ。
「はぁっ……はぁっ……」
まずい! まずいまずい!
「糞ぉっ!」
どうすればいいんだ。
分かってる。明らかに俺が悪い。
「アッシュグレー君! アッシュグレー君!」
通行人の視線を感じる。が、そんなこと、気にしている暇などない。
「アッシュグレー君!」
「ペストマスクだ」「ほんとだ」と、俺を見て何か言っている人もいる。が、俺には彼等が殆ど見えない。俺の視界には膨れ上がった「塵」達しか映っていない。
目覚めたのは、朝の8時5分だった。昨夜謎の女に宣戦布告されたが、「まぁ、明日のことだし、明日頑張ろう」みたいな呑気な考えで、目覚ましもかけずに寝てしまった。その結果がこれだ。目覚めたら辺り一面を膨れ上がった地縛型「塵」が支配していた。家の中から街中まで床や地面を埋め尽くすようにして立っていた。幽霊と一緒で「塵」には実体がない。だから、人間は触れない。「塵」が人間を触れるかどうかは知らないけれど。
上を見て、建物の配置から現在の場所を把握し、南沢寺駅南口前にある広場まで来た。やはり、悪い気を溜め込み、爆発寸前の「塵」だらけだった。どうやってやったのかは知らないが、謎の声が言った通り、「『塵』テロ」が起こる寸前だった。気紛れヒーローにも程がある。さすがに今回ばかりはかなり焦っていた。
「アッシュグレー君!」
何とかしなければいけない。
こんな大量の「塵」が爆発したらひとたまりもない。一瞬にして南沢寺が終わる。悪い気を浴びた人々は暴れ出し、殺し合い、レイプだって、拷問だって、そこら中で……。
南沢寺が地獄と化す。
現在時刻、8時43分。
「アッシュグレー君!」
彼はどこにも見当たらない。というか、「塵」ばかりで前が見えない。アッシュグレー君はどこで何をしているのだろうか。まだ家で寝ているのだろうか? それともこの膨大な量の「塵」を相手に、「猫」と共に戦っているのだろうか?
「猫」を例外にして、「塵」とコミュニケーションを取れない俺には何も出来ない。付いてくる首子とガス子に協力も求められないのだ。「ペストマスクの2人組」の1人として、気紛れヒーローとして、俺に何が出来る? 俺には……。
そうだ。
スマホを取り出し、電話をかけた。
『もしもーし。どうしたのぉ? 南君』
相手は、水帆。俺の元カノであり、同居人。眠そうな声をしている。今日は土曜日。さっきまで寝ていたんだろう。
「水帆。今すぐ南沢寺から離れて!」
「食べたいなぁ」「100点なんて取れないよ」「君が好きだよ。好きなんだ」「飛び降りたらどうなるかな、って」「助けてください」「階段を上がれば君がいる」
「塵」達の声がうるさい。うるさ過ぎる。でも、それは俺にしか聞こえていない。水帆には俺の声しか。
『……え、何で? どうしたの?』
未だに呑気そうな、水帆の声。
「いいから!」
俺は焦りと「塵」の騒音から思わず、怒鳴ってしまった。
『……う、うん。分かった。今から家出るね』
いつもと違う俺の雰囲気を声だけで察したのか、何が起きているのか分からないながらも水帆は言うことを聞いてくれた。
「湊君を連れて出来るだけ遠くへ! 南沢寺から可能な限り離れるんだ! もうすぐ、南沢寺は終わる! 南沢寺は……うおっ!」
突然襲ってきた背後からの衝撃に耐えられず、俺は前のめりに倒れた。スマホが右手から離れ、地面に落ちる。
突然のことに混乱しながらも、倒れたままスマホに手を伸ばした。
バキッ。
ヴィィィィィィイィいいいいイィィィィンッ!
スマホが粉々に粉砕される音と耳障りな回転音。
俺は手を引っ込めて、両手を地面につき、顔を上げた。
「ふふふー、お久しぶりですねー……南先輩。あ、昨日も会いましたね」
俺は目を見開いて、その場で固まってしまった。
そうだ。どこかで聞いたことのある声だと思ってたんだ。昨夜、俺に宣戦布告をした声。甘くて、鋭くて、どこか消えてしまいそうな儚さがある……。
「……ま、繭ちゃん?」
高山繭。高校生の時、演劇部の後輩だった。彼女が演劇部に入ってくる前、俺は彼女にハマっていた。勿論、異性として。セミロングでキャラメル色の髪、垂れ目、やけに目立つ涙袋、大人びた顔付き、同じぐらいの身長、顎にある黒子、薄茶色のセーターの萌え袖が似合っていた。当時、俺は水帆と付き合っていたが関係なかった。こんな可愛い子が近くにいるんだ。追いかけないわけがない。が、あの日、立場が逆転した。繭ちゃんに付いて回っていた「塵」が男子高生を食べているところを目撃した日から。俺は彼女を避けたが、逆に彼女は俺を追いかけ始めた。演劇部にまで入ってきた。怖くて怖くて仕方がなかった。
そのストーカー女、繭ちゃんが、地面に倒れている俺を、弱々しい笑みで見下ろしていた。
「繭は俺のもの。俺のものだから」
右隣には、男子高生を食べた「塵」がいた。南沢寺高校の男子用の制服を着、ハイエナのマスクを被っている。マスクの額には「殺戮」と黒文字で横書きされている。変わっていない。当時と全く。
「ふふふー、『殺戮』ー。落ち着いてね、ふふふ」
ただ、あの日と違うのは、「殺戮」の持っている大型チェンソーの餌食が、男子高生から俺のスマホに変わったことだけだ。
俺は恐る恐る立ち上がり、両手を挙げた。
「な、何が……何が目的なんだ?」
もう本当にやばい。俺もそろそろここを離れないと。
「ペストマスクを外してください」
騒がしい「塵」達の中、何故か不思議と繭ちゃんの声は嫌になる程通った。
「ペスト……は?」
俺は首を傾げた。
「ふふふ、難しくない。簡単なことですよ。そのペストマスクを外すだけですよーふふふ」
簡単だからだ。簡単だから意味が分からない。何故、ペストマスクを外さなければならないのか。
繭ちゃんは微笑みながら続けた。
「始めは、ただの興味でした。あなたにも『殺戮』が見えていたから。私と同じ能力を持った人を初めて見たから。ふふふ……でも、南先輩を追いかけていくうちにそれだけじゃなくなっていました。南先輩……あなたの恐怖に歪む顔、苦痛に歪む顔に魅力を覚え始めたんです。ふふふ、あなたが絶望すればする程、私は興奮しました」
こいつ、頭がおかしい。俺の恐怖に歪む顔? どうかしてる。狂ってる。
「今回のこの、『「塵」テロ』も南先輩の絶望した顔が見たくて始めました。あなたなら……気紛れでも、その能力を活かして南沢寺を『塵』から救おうとするヒーローなら、逃げないと思いました」
この「『塵』テロ」は……俺の顔を歪ませる為に?
「ふふふ、早くぅー早く見せてくださいよぉーふふふー」
逃げればよかった。こんな頭のおかしい奴に構わなきゃよかった。側から見たら、美女とペストマスク男が南沢寺駅南口前の広場で見つめ合っているだけだ。しかし、実際は違う。南沢寺にいる全ての人の命が狙われている。
「……は、外したら……ペストマスクを外したら、このテロは止める?」
そうだ。そんなことで済むなら……。
「これは取引だ、繭ちゃん。君がテロを止めるなら俺はペストマスクを外す。思う存分、俺の顔を楽しんでもらっていい」
繭ちゃんは目をキラキラ輝かさせた。
「ふふふ、分かりましよ。止めますよ」
よかった。案外、こんなに単純なことだったのか。
俺はペストマスクを外した。
「……って言うわけないじゃないですかぁー、南先輩」
繭ちゃんの顔から笑みが消えた。
……え?
「南先輩の普通の顔を見たって何も感じないです。歪んでいる顔だからこそ、美しさがあるのです」
もう駄目だ……こいつは、駄目だ……。
「というか、立場、分かってます? 南先輩。私には『塵』を誘惑する能力があるらしいんです。だから、こんなに大量の『塵』を南沢寺に集められました」
「塵」を誘惑する、能力?
「南先輩なんか一発で『塵』の餌食に出来ますよ?」
「今日の夕飯は何ー?」「あなたも死にたいんですか?」「ねぇ、口を開けて」「謝ってます。私は謝ってます」「ぐちゃぐちゃだぁ。ねぇ、ぐちゃぐちゃだよぉ」
悪い気を溜めて、ぶくぶくに膨れ上がっていく「塵」達。奴等の餌食に? 俺が?
「……い、嫌だ」
というか、今何時だ? 繭ちゃんが昨日言っていた、「『塵』テロ」を起こす時刻は午前9時。スマホを壊されたから時間は分からない。でも、もう、まずいんじゃないか? 悪い気を浴びた人間は理性を失い、暴れ出す。数年前に起きた「南沢寺駅前暴徒化事件」のように。いや、それ以上の。そして、その中には俺も……。
「嫌だ……そんなの、嫌だよぉ……」
泣いていた。俺は子供みたいに泣き噦っていた。情けないぐらいに。イケメンが。恥ずかしいぐらいに。
「ふふふーふふふーふふふー」
狂ったような笑い声。繭ちゃんだった。繭ちゃんが楽しそうに、愛おしそうに、頰を真っ赤にして笑っていた。
「ふふふー、それぇ、それですよぉー。その顔ですよ、南せんぱぁい。本当に好きですその顔ぉー。綺麗な顔がぐちゃぐちゃになる美しさぁー。ふふふー、官能的ですぅー、ふふふー」
もう何も考えられなくなっていた。爆発寸前の大量の「塵」、殺気立った目でこちらを睨む「殺戮」、繭ちゃんの甘い笑い声、迫るタイムリミット……。
「あ、あああぁぁああぁ……」
俺は両手を下ろし、両膝を地面についた。
もう駄目だ。全てが終わる。それだけは確実に分かった。奇跡なんて起こらない。現実を見るんだ。これは、演劇ではない。
「大丈夫ですか?」
「何してるんですか?」
「あの、聞いてますか?」
その、心配そうな声が「塵」のものなのか、人間のものなのか、判別など付かなくなっていた。
どうすればいいのか。どうなっていくのか。
理性を失うとは、一体どういうことなのか。
「5」
目の前に立つ繭ちゃんが、俺を見下ろしながら言った。
すぐに分かった。カウントダウンだ。
「4」
「『塵』テロ」が始まる。
「3」
南沢寺が、終わる。
「2」
そうだ。水帆は……湊君は逃げることが出来ただろうか。
「1」
アッシュグレー君。君は今、何をしている?
もう、何も分からない。
終わるんだ、全てが。
この街と共に。
繭ちゃんは少し強く、息を吸い込んだ。
「どっかーん」
正しい方向に行くだけが、街じゃない。