南沢寺の夜がよく似合う。
南沢寺の夜は、あいつを包み込む。
まるで、あいつの闇を求めているかのように。
ようこそ、血生臭い南沢寺へ。
あの日以来も俺は普段と変わらぬ高校生活を送っていた。
幼馴染である千代のストーカー被害はなくなり、俺も命を狙われることはなくなった。
机に左肘をついて、左掌に顎を乗せ、南沢寺に広がる淡く青い空を眺める。
「これは本当に基礎の基礎。SVO。Sが主語、Vが動詞、Oが目的語」
うざいぐらいに舌を使った喋り方の英語教師の授業を右から左に受け流す。
「バット! 何故か、この通りに文を書けない人がいるのよねぇ。分かる? エブリワン」
変わらぬ高校生活と言ったが、変わったこともある。俺達のクラス、1年1組から碧夜と北沢が消えた。消えた、というか、退学、か。でも、ほぼ消えた、と同じような退学の仕方だった。
「Cは分かる? Cは」
俺が母親の形見であるメリケンサックを碧夜に渡した次の日。碧夜は学校に来なかった。そして、その翌日。碧夜と北沢は突如、退学した。「一身上の都合」という、実に曖昧なものだった。
「承哉」
北沢はどうなったのか。碧夜は何故学校を辞めなければならなかったのか。
「承哉さーん」
分からない。ニュースでさえそれらしき事件は報道されていない。一体何があったんだろう。
不意に、北沢の声を思い出した。
───南沢寺の裏社会、舐めんなよ?
南沢寺の、裏社会。警察にもメディアにも勝てない権力があるとでも言うのか。南沢寺の闇に潜む謎の権力が。いや、もしかしたら賄賂とかそういう……。
「ミスター承哉!!!」
気が付くと、クラスメイトの視線が全部、俺に向いていた。遠くの席で千代が
「何してるのぉ」
と声を出さずに口だけ動かして言った。
英語教師、藤山先生が目の前に立っていた。
癖っ毛なのか傘のように広がった髪。ごわごわしていてかなり固そうだ。金縁の眼鏡越しに俺を見下ろしていた。
「……何すか」
「ミスター承哉。クエッションのアンサーは?」
面倒臭いことになった。
「あいつウケるよー澄人」
「かすみ、静かに」
この中年ババア教師は、しつこくて怠いことで有名なのだ。
「もう、何でボッーとしてるかなぁ。あの授業でさぁ」
千代は完全に以前の元気を取り戻していた。俺が椅子に座りながら帰り支度をしている横で、千代はぷくっと頬を膨らませた。思わず、可愛いなと思ってしまう。
「……うるせぇな」
今日の千代の髪型は前髪をピンで止めたデコ出しヘアー。ポンパドールだっけか。口には絶対に出せないが、この髪型が1番千代に似合っていると思う。とても可愛い。俺の隣にいるのが勿体ないぐらいに。
「感謝してよぉ。もぉー。私が答えてあげたんだからねぇ」
「はいはい……感謝感謝」
「はい、は1回でしょ、ショウ君。後、感情込めてよぉ」
あれから何度も碧夜にLINEでメッセージを送った。電話だってした。だが、返信は来なかった。
「はい。圧倒的感謝」
「何それぇ。馬鹿にしてるでしょー」
いや、1度。1度だけ。彼からLINEでメッセージが来た。それは碧夜が退学してからちょうど1週間が経った日の夜だった。
「してねぇよ、別に」
「はいはい。もぉいいですよーだ。知らないからもう」
「……はい、は1回だろ?」
碧夜から来たメッセージはこうだった。
『お前が何かしら罪悪感を覚えているなら見当違いだ。俺は今の俺でいい。今の俺がいい。大切なメリケンサックをくれたお前に、感謝をしている。俺は夜に紛れて生きている。お前は、お前の人生に集中しろ。お前はもう、大丈夫だ。この街で堂々と生きろ。』
返信をしても、もう2度と返事は来なかった。
「いいから早く準備をしてください」
「……面倒臭いな。何で急に敬語になったんだよ」
碧夜からのメッセージで、少しだけ気持ちが楽になったのは事実だった。俺と千代の問題に巻き込んで、結局、退学する羽目になったのは、碧夜だ。だから、碧夜には感謝よりも謝罪したい気持ちの方が大きかった。
「早くしないと、承哉さんを置いて先に部活、行きますから」
「……何なんだよそれ」
でも、碧夜の「大丈夫だ」が俺を安心させた。碧夜に許された気持ちになり、今尚どこかで北沢から俺達を守ってくれているのではないかと思えた。
「行きますよ? 先に」
「……悪かったよ、千代」
「聞こえません。何ですか?」
「悪かったって」
碧夜が今どこで何をしているのかは、さっぱり分からない。でも、そう遠くないところにいるような気がしている。影を探し、闇に身を隠して。
「言いたいことがあるなら大きな声で」
「……ち、千代! さん……と、とても、ごめん……ごめんなさい!」
碧夜は濃紺色のメリケンサックと共にいる。きっと彼はこの街を見捨てない。南沢寺も碧夜を求めている。だから……。
「はい。よく言えましたぁ。行こう。部活」
千代の可愛い笑顔が目の前にあった。
俺は立ち上がり、リュックサックを背負った。
「何なんだ本当に……」
「何か言いましたか? 承哉さん」
「いえ……何も」
碧夜にはどうか、この街にいて欲しい。
彼には、南沢寺の夜がよく似合うから。
「ほら、ショウ君。行くよぉ」
千代の後を追いながら、教室を出る。
ふと、廊下から教室の窓を見た。
オレンジ色の空が、深い深い濃紺色に染まろうとしていた。
もうすぐだ。もうすぐ、夜が始まる。
後2話で、第2章、完結です。




