白い息。
ようこそ、南沢寺へ。
お人好し。
よく言われる言葉。
別にそれに対して何も思っていない。ずっと言われ続けてるから、それが自分の性格だって認識している。
「はぁー……寒っ」
真っ白な息が濃紺色の空へゆらゆら揺らめきながら消えていく。
───ほんと、お人好しだね、君は。
あぁ、こんな風にあいつの笑みも消えてしまえばいいのにと思う。
あの意地悪な笑みはどうしていつまでも私の脳内にこびり付いて離れないのだろう。いくら、時間が経っても彼の笑みが忘れられない。タチの悪い粘液のように私の中でずっと纏わり付いている。
現在時刻は、20時15分。
早く家に帰らないと。弟が夕食待ってる。
両手に下げた買い物袋が少し重い。
「南沢寺ストリート」と書かれた、看板が上部に付けられたアーチ状の門を潜る。この商店街を抜けたら、もうすぐ家だ。
「南沢寺ストリート」は、多くの人で今日も賑わっている。その大半が多分、観光客だ。この街には、小劇場、ライブハウス、古着屋、雑貨等、様々なサブカルチャーが存在している。「サブカルの街」として下北沢や高円寺と同じように、若者に人気な街となっている。
───ほんと、お人好しだね、君は。
この人混みに私は何を期待しているのだろう。何故、あの甘えた声を見付けようとしているのだろう。
いや、そんなことはない。
冬は、冬だから、あいつのことを、少し……少しだけ、思い出してしまうだけだ。
───僕だけの、お人好しにはなれない?
冬は、あいつと出会わせ、あいつを連れ去った季節だから。
商店街を歩く速度が少し遅くなっていた。
あいつはまだ、南沢寺の小劇場で演劇をしているのだろうか。
───小劇場の舞台俳優と趣味が執筆のWEB小説家。この組み合わせ、何だか、エモくない?
まだ、あんな可愛い笑みを浮かべてよく分からないことを言っているのだろうか。
ほんと、何考えてるんだろう、私。
私は歩みを速めようとした。
「……お人好しさん?」
私の耳は囁くように小さな声でも逃さなかった。
身体に悪い程に甘い甘い、その吐息を。
私は、立ち止まった。
賑やかな音など、私の耳には届いていなかった。まるで、周りがスローモーションになったかのような感覚に陥った。
「あ! やっぱりそうだ。久し振りだね、水帆」
そこには、やはり小悪魔的な笑みを浮かべた、あいつがいた。
「……南君」
「よ、元気? お人好しさん」
黒髪マッシュが相変わらず似合う、南君。
少しやつれているように見えた。
「もう……その呼び方、止めてよ」
「その拗ねた顔、相変わらず好きだなー」
そうやって、簡単に好きとか言えちゃうところが嫌い。
「……元気?」
「元気だよー。元気なんだけどぉー……まぁ、元気ちゃあ、元気かなぁー」
出た、南君の悪い癖。わざと聞いて欲しそうな言い回し。全然変わってない。何にも。
「どうしたの?」
そうやって彼を気にかけてしまう私も。
南君は、待ってましたと言わんばかりに微笑んだ。
何で、こんな明らかに地雷だと分かる笑みに安心している自分がいるんだろう。
「実はさぁー、友達ん家にずっと泊まらしてもらってたんだけど。友達に彼女出来ちゃってさ。一緒に住むらしいから邪魔者の俺は出て行くことに……残念、どーしよ、これからの人生って感じだよ」
南君の喋り方には、どこか芝居めいた感じがある。
「……まだ、演劇続けてるの?」
「やってるよーだからもう、こんな感じ。バイトとかやってないし」
そっか、そうなんだ……。
「じゃあ、うちに来る?」
自分でも自分の発言に驚いた。「え?」と言って目を真ん丸くする南君よりも、多分、私に1番驚いているのは、私自身だ。
「えぇ? いいの? ほんとに?」
目をキラキラ輝かさせる南君。
「う、うん……え、いいのかな……いいんだと思うよ」
自分で言っておいて物凄い自信のない返事をしていた。
「やったぁー!!! ありがとう!!!」
そんなのお構いなしに、子供みたいに何度も飛び跳ねる南君。
「それってさ、それってさ、今日だけじゃなくて、俺が出て行こうと思うまで?」
南君がそんなこと思う日、来るのかな?
「うん、南君がそうしたいなら……」
何を言ってるんだろう。弟もいるのに。養わなくちゃいけない人を増やしてどうする。面倒ごとを増やしてどうする。
「……なら?」
南君が首を傾ける。
こんなにも舞い上がっている私がいるのは、何故?
「そうしたいなら……いいよ」
「やっぱり、水帆はお人……優しいねぇ!」
「今、お人好しって言おうとしたでしょ?」
お人好し。
幼い頃、両親が出て行った。血の繋がっていない弟の面倒を私1人で見ることになった。そして、今、元カレに仕事の帰り道で出会った。元カレはお金を持っていなかった。だから、一時的ってなってるけど、ほぼ永続的に一緒に暮らすことになった。
もう、お人好しの域を超えている。自分で自分を苦しめている。弟のことはしょうがないにしても、元カレなんて放っておけばいいのに。
……本当に、これはお人好しって性格だけでやってるのかな。
「ねぇ、行こう? 帰ろう、水帆」
南君の危険で甘い笑みが目の前にあった。言葉と共にゆらゆら揺れる白い息でさえ、愛おしい。
……愛おしい?
「う、うん……行こっか」
私は南君と肩を並べて「南沢寺ストリート」を歩く。
「それ、1個持つよ」
南君は私の右手から買い物袋を取った。
軽い。軽くなった。
歩く速度も自然に上がる。スキップをしたいぐらいに気持ちも軽かった。軽く、弾んでいた。
「ちょ、ちょっと、水帆! 早いよぉ」
私はお人好しだ。お人好しでもいい。
それでもいいけど、これは違う。違う気がする。
お人好しという言葉で自分を作り上げて、本当の自分を縛っていたのかもしれない。
何だか、悔しさすらも超えていた。元カレへの気持ちを認めたくないという気持ちより、一緒に南君と帰れる気持ちの方が優っていた。
軽い。軽い。
「早いよ! 待ってよ! お人好しさんじゃないの!? 困ってる人がいたら助けるんでしょ!?」
私は足を止めた。
お人好し?
私はくるっと振り返り、とびっきりの笑顔を南君へ。
「違うよ、私は」
君が気付かせてくれたんだ。
「私は」
今の私はお人好しじゃない。
「私は、今でも君を……」
その後に続いたのは、ただの、白い息。