私を酔わす。
南沢寺には、裏がある。
ようこそ、南沢寺へ。
南沢寺は、私を酔わす。
まるで、低めのアルコール度数のお酒を飲んでいるように。程よく気持ちいい酔い具合。
私だけではない筈だ。だから、様々な人が他の街からやってくる。きっとこの街に漂う、アルコールに酔いたいから。
情緒があるのだ。この街には。特有の。懐かしさ。儚さ。切なさ。美しさ。現代の人々はその感動を「エモい」と表現する。このどうしようもなく溢れる気持ちをその3文字で表せるのは本当に素晴らしいと思う。エモい。そう口にするだけで、ツイートするだけで、全部、この気持ちを、相手に伝えられた気分になれる。
文字を扱う仕事をしている身としては、あまり肯定してはいけないのかもしれないが。
煙草の箱を片手にベランダに出た。
手摺に両肘をつき、街を眺める。住宅街にある2階建のアパート。私は2階の角部屋に住んでいる。ここから南沢寺や行き交う人々を、風景として楽しむことが出来る。
アップル味の、1mgの煙草をベランダで蒸す。
現在時刻、16時20分。
淡い水色とオレンジ色の空に、ゆらゆらと白い煙が昇っていく。
南沢寺在住、フリーライター。
この文章。とてもいい響きだ。ツイッターやブログのアカウントの自己紹介文に必ず書く。南沢寺、フリーライター。普通の社会から離れた……そう、そうだ。所謂、エモさ。分からないだろうか。この、気怠げな雰囲気。まるで映画の中の登場人物になったかのような気分になる。
1mgの煙草でもいいのだ。
南沢寺、フリーライター、煙草、白い煙、ベランダ、肌寒い空気、暗くなる前の空……この状況で私は酔える。
「……次のネタ、どーすっかなぁ」
ネタ、文章、ワード、ノートパソコン。あぁ、いい。いいな。
「情報屋君にネタでも貰うか」
情報屋。その言葉を口にしたいだけ。口にして、今の私に酔いしれる。まるで物語の中にいるみたい。
「……『メリケンサックの悪魔』、『南沢寺X』、『ペストマスクの2人組』……うーん……」
書きたいネタは沢山ある。裏モノ系ライターとして、南沢寺はネタの宝庫なのだ。表面上は下北沢や高円寺のようにサブカルで溢れているが、歌舞伎町のように危険な顔も持つ、南沢寺。いつの間にか、この街にどっぷり浸かり、南沢寺に強い、裏モノ系ライターになっていた。
「……『南沢寺X』は止めてくださいよぉ、真里佳さん」
突然、後ろから声をかけられた。
私は一人暮らしだ。だから、私以外にこの部屋に誰かがいるわけがない。でも、もう驚かない。こんな状況、今までに何度も経験してきた。
振り向かず、私は街を眺めながら、
「……大丈夫よ、分かってるわよ」
「よかったですぅ」
そう、背後からの声が聞こえると、気配が消えた。
あぁ、いい。いいわね。南沢寺の裏まで知ったからこそ、こんな経験を味わえる。この街にサブカル目的でやって来る、あの人達とは大違いだ。彼等は表の南沢寺しか知らない。私は裏の裏までこの街を理解している。私が南沢寺に特別だと認められたから。
「ふぅー……」
煙草の煙を吐き出す。濃紺色の空に白い煙が混ざり、消えていく。
南沢寺。この街は私を酔わす。
今回の話で、承哉達の短編は一旦、終わりです。
「メリケンサックの悪魔」とは?
「南沢寺X」とは?
「ペストマスクの2人組」とは?
様々な謎を残し、次回から衝撃の第2章です。
エモいだけが、南沢寺ではない。
お楽しみに。
【19話〜22話までの登場人物】
綿矢承哉
主人公。南沢寺高校。1年1組。出席番号38番(最後)。千代からは「ショウ君」と呼ばれている。少し目付きが悪く無愛想な表情。コミュ症。南沢寺にある実家のマンションに住んでいる。隣の号室に千代が住んでいる。千代とは幼稚園生からの幼馴染。千代のことが好き。だが、素直になれず、ついつい千代を突き離してしまう。小学4年生の時に母親を亡くしている。北沢を敵視している。雑貨屋「マッシュ」で千代と一緒にバイトをしている。話しかけてきたマユ先輩が決め手で演劇部に入部。
相沢千代
南沢寺高校。1年1組。出席番号1番。童顔で低身長とは反比例して巨乳。左目の下に黒子。南沢寺にある実家のマンションに住んでいる。隣の号室に承哉が住んでいる。承哉とは幼稚園生からの幼馴染。いつも承哉の面倒を見るお姉さんタイプ。承哉のことをどう思っているかは不明。雑貨屋「マッシュ」で承哉と一緒にバイトをしている。普段使わない台詞を言いたくて、演劇部に入部。
北沢祥哉
南沢寺高校。1年1組。出席番号7番。高身長で爽やかな雰囲気。千代の隣の席。名前が承哉と同じ読み方なのと千代を取られるんじゃないかという思いから、承哉に敵視されている。演劇部。千代に執着している。
アサダ部長
南沢寺高校。2年生。演劇部の部長。体格がいい。日焼けした肌に真っ白な歯。見た目が体育会系な雰囲気。
タカヤママユ
南沢寺高校。2年生。演劇部。セミロングでキャラメル色の髪、垂れ目、やけに目立つ涙袋、大人びた顔付き、顎にある黒子、ジャージの萌え袖、綺麗な指、ふわふわした雰囲気。
真里佳
南沢寺在住。南沢寺に強い、フリーの裏モノ系ライター。