2 浮気疑惑とすっきりゼリーと
「浮気って……あの旦那さんがですか?」
前に一度、志保は旦那の誠人をカフェに連れて来ていて、早苗はそのときに会ったことがある。
志保とは対照的にひょろっとした痩身で、素朴かついかにも誠実そうなご主人だった。時々志保から聞かされるエピソードも、いい人感あふれるもので、とても浮気なんて信じられない。
「そんなこと考えたこともなさそうなのに……」
「わからないわよ? ああいう大人しい男の方が危ないって、テレビのお昼番組で言っていたもの。それにどんな相手でも、浮気をする可能性なんて大いにあるわ!」
「! それは……ありますね」
言われて早苗はハッとした。
つい一ヶ月前、自分だって彼氏に浮気されて破局したばかりではないか。
早苗の元カレは少々頼りなく、女々しいとこはあるものの、誠人のように優しさと誠実さが売りのような男だった。
それなのに、だ。
「うーんと、浮気って具体的になにかあったんですか?」
背後の棚から、要が透明なティーカップを引っ張り出しながら聞くと、志保の丸い瞳がスッと据わる。
「二週間前くらいからね、旦那の仕事の帰りが遅い日が増えたの。夏だし体でも鍛えようと、同僚に誘われて遅くまでやってるジムに通い始めた……なんて私には説明したけど、絶対嘘よ。あのひょろガリが引き締まった感じはないし、むしろ心なしか太った気さえするわ」
『仕事の帰りが不自然に遅い』
浮気の典型的な兆候だ。
浮気度20%……と、早苗は心の中で判定していく。
「夕食もいらないって言ってきて、別の女のとこで食べているんじゃないかって睨んでるの。それに、甘ったるい匂いをつけて帰って来たこともあって……女物の香水じゃないかしら。ジム帰りなら汗臭いものじゃない?」
「あ、でもお風呂つきのジムとかなら、シャンプーの香りの可能性も……」
「それはすでに調査済みで、この近くのジムにお風呂つきはなかったわ。シャワーさえない安いとこくらいだったもの。そもそもジムに通っているってわりに、洗い物にジャージの類いは一切ないのよ?」
「……少なくとも、ジムは嘘っぽいですね」
早苗は腕を組み、難しい顔で唸る。
『甘ったるい匂いをさせて帰ってくる』
『あからさまな嘘』
浮気度が一気に50%まで跳ね上がった。
「まだあるわ。たまたま旦那の放置してあったスマホに、届いたメッセージを見ちゃったんだけど……『モモコさん』って女から、『今夜のメニューはどうする?』って」
「うわあ……」
「さらには決定的な証拠に……これを見てちょうだい」
サッと、志保がスマホを操作して画像を見せてくる。そこには薄ピンク色の可愛らしいエプロンが、無造作に床に広げられて写っていた。
柄なしだが腹部のど真ん中に大きなポケットがついており、その四角いポケットの隅には、なにやら小さく油性ペンで文字が書かれている。
「これね、旦那の仕事用バッグから発見したの。チラッと中身を覗いたらこれよ。ほらここ、ポケットにある名前、あのメッセージの女でしょ?」
「『MOMOKO'S』……なんで英語なのかはわかりませんけど、『モモコさん』ですね」
「念のために写メっておいたの。旦那が間違って、その女の家から持ってきたとしか思えないわ」
「そ、そうですね」
これはヤバイ。
浮気度80%。
すでにデッドゾーンである。
「これらを合わせると疑いようもなく……ってああもう! 話していたら悲しみを通り越してイライラしてきたわ! 今日もあの男、仕事が休みだからって、朝からジムに行くなんて出掛けて……もう黒よね!? 完全に黒よね!? 問い詰めてぶん殴っていいわよね、早苗ちゃん!?」
「落ち着いて志保さん! まだギリギリ80%だから! 黒判定にはまだもうちょっと早いんじゃ……!」
「80%ってなに!? 私の怒りはもう120%よ!」
志保は派手に椅子を鳴らして立ち上がり、その音に驚いたミントが「ふにゃ!?」と毛を逆立てている。
今から本気で殴りに行きそうな志保を、早苗は慌てて引き留めた。
心情的には、早苗も元カレの浮気がわかった瞬間、渾身のアッパーカットを決めて去ったクチなので、本当に浮気なら志保の後押しをしたいくらいなのだが。
まだ誠人が黒と決まったわけではない。
「とりあえず座って……! いったん座って落ち着いてください!」
「そうですよ。ほら、まずはこれでも食べてリラックスして」
場違いなほどのほほんとした調子で、要がカウンター越しに、丁寧になにかを早苗と志保の前に置いた。
肉球マークの入ったガラスの器には、ぷるっと透き通るゼリーが盛られている。ゼリーには鮮やかなオレンジ色のソースがかけられ、上にはちょんとミントの葉も飾られていた。
一目見ただけで『涼』を感じさせる、夏らしいデザートだ。
「ソースは色のままオレンジソース。ゼリー自体はレモンバーベナっていうハーブを使っていて、味わいはすっきり爽やかです。騙されたと思って、とりあえず一口どうぞ」
デザート用のスプーンを渡され、しぶしぶ座り直した志保は、ゼリーを掬って口に運んだ。早苗も同じようにして食べ、「あっ!」と小さく歓声をもらす。
「いいですね、これ。喉をスーッと通り抜けていく感じ」
「まあ……! 次々いけちゃうわね、このゼリー!」
早苗も志保も、スプーンを動かす手が止まらない。
癖なく流れるように食べてしまう。
「レモンバーベナは夏にかわいい花を咲かせて、名前のまま葉からはレモンみたいな香りがします。ハーブティーで飲むのもいいよ。フランスでは『ヴェルヴェーヌ』って名前で、ヴェルヴェーヌティーは『貴婦人のお茶』としてあっちでは定番です」
「へえ、おしゃれな響きですね。一度は行ってみたいですよね、フランス。海外はハワイと韓国くらいしか経験なくて」
「あら、私は行ったことあるわよ。もう二十年近く前だけど、旦那との新婚旅行で……」
夫婦の思い出を語りかけて、志保はバツが悪そうに口をつぐむ。要はゆるりとタレ目を細めた。
「ついでにレモンバーベナには、ラベンダーとかと同じ鎮静効果があって、神経の不安やイライラを抑えて、気持ちを穏やかにしてくれます。ちょっと落ち着けた? 志保さん」
「ええ……」
ふうと、志保は息をつく。
要に毒気を抜かれたのと、爽やかなゼリーの相乗効果か、怒りは一度鎮火したようだ。
半分までゼリーを食べたところで、志保は器に視線を落としながら、「冷静になってみると……浮気の原因、私にもあるのかもしれないわね」と、ぽそっと呟いた。
「私……結婚する前から料理が苦手で、簡単なものでもよく失敗していたわ。本当に酷かったのよ。それでも本とか読んで勉強して、随分マシになったんだけど……ここ最近、夏バテ気味でね。台所に立つと疲れるから、手抜き料理が続いていたの」
「夏バテですか……」
こう連日暑いと、そういうこともあるだろう。
早苗だって、家事のやる気がそのせいで大幅に削られている。
「あの人はやさしいから、昔から私が料理に失敗しても、文句ひとつ言わずに全部食べてくれていたわ。『志保が頑張って作ったんだろう』って。なのに私……頑張ることすらも止めちゃって、ついに愛想を尽かされたんじゃないかしら」
「いやでも、毎日作るのって大変ですし。夏バテなら仕方ないというか、そんなことくらいで……」
「食事が原因で起こる夫婦の不和って、わりと多いって聞くもの。だからきっと料理上手な女のところに行ったのよ。……あの愛らしいピンクエプロンが似合う、童顔で胸が大きくて新妻っぽいモモコのところに」
志保の脳内では、すでにモモコの具体的な容姿まで想像されているらしい。
怒ったり落ち込んだりと忙しい志保は、今度は落ち着いたはいいものの、肩を落としてしょぼくれだしている。早苗はミントの葉をスプーンでつつきながら、果たしてどうなんだろうと考えた。
やはりそんな妻想いで懐の深い旦那さんが、簡単に浮気するとは思いにくい。
……早苗はなんだかんだ、旦那さんの潔白を信じたい派であった。
結婚まで考えていたお相手と、自分はダメになってしまった分、仲のいい夫婦な二人には、早苗は羨ましさと憧れの目を向けていたところがある。己の理想を、心のどこかで裏切って欲しくないのだ。
だけど浮気判定の結果を考慮すると、そんな気持ちとは裏腹に、状況はなかなかに厳しかった。
「ゼリー食べた? そろそろハーブティーの方も出せそうなんだけど……その前にひとつ。そこまで落ち込まないでいいよ、志保さん」
暗い空気をほわほわと浄化するように、ポットを手にした要がへにょりと笑う。
ポットの中では、早苗が見たことのない、ルビーのように真っ赤なお茶が揺れている。
あれはなんのハーブティーだろうと、早苗が気を取られているうちに、要は事も無げに言ってのけた。
「だって旦那さん、100%浮気してないし」