3 猫系男子とお誘いと
早苗はやんわりと手首を掴まれた。
パッと見は細身なのに、筋ばった大きな手はしっかり男性だ。
早苗が驚いて足を止めると、要は一声驚かせたことを謝って手を離す。そして続けて、「お礼というか、お詫びをさせてください」と言った。
「お詫びですか……?」
「迷惑かけたから。今週末って暇あります? 土曜日でも、日曜日でも」
「土曜日は月一の土曜出勤の日で、日曜なら……って、別にお詫びとかいらな」
「じゃあ日曜日で。あ、時間はいつでも。具体的には午前十時から午後六時の間で」
お詫びなんていらないと断ろうとしたのに、のんびりしたペースに巻き込まれて、着実に話が進められている。
早苗は気付けば「それなら……午後三時頃とか?」と時間も決めていた。
今更だが、目の前で猫を抱くこの人はいくつなのだろう。
見た目は早苗よりは上だと思うが、笑うと幼くなるため同い年くらいにも感じる。
ちなみに早苗は、タレ目の要に反してツリ目で大人びた顔立ちのせいか、昔から実年齢より歳上に見られる。
向こうも早苗の歳を測りかねているから、敬語とタメ語の混ざった話し方なのかもしれない。
「その日時に面倒でなければ、またここに来てください」
「はあ……わかりました」
「あ、名前」
「え?」
「君の名前。聞いてなかった」
そういえば名乗っていなかった。
「足立早苗です」と答えると、要は「足立さんね、OK」と頷いて、鼻の上辺りを中指で押さえる変な仕草をする。
どこかで見た仕草だなと、早苗はぼんやり思った。
「それと俺のことはハッカでいいよ。羽塚って発音しにくいし」
「しにくいですかね……? ハッカさん?」
「うん」
ハッカ=薄荷=ミント?
猫と一緒じゃんと、早苗はなんだかおかしくなった。この人といると、どうにも気が抜ける。
まあ正確には、薄荷とミントには細かな分類や違いがあるのだが。
その辺は早苗の与り知らぬところだ。
「なら私も早苗でいいです。『足立』って苗字で呼ばれると、仕事中みたいな気分になるというか……」
「あーそれはわかる。羽塚って呼ばれると上司からっぽい。ハッカって呼ばれると友達からっぽい」
「ですよね」
「です」
顔を見合わせて軽く笑う。
あまりイメージ出来なかったが、要は普通に会社勤めのようだ。まあ、着ているTシャツからもそうなのだろうが。
どこか浮世離れしていて、スーツなんて似合いそうもないなと、早苗はまたおかしくなる。
「日曜日、お待ちしています、早苗さん」
お店の店員のように要が頭を下げると、ミントもゆらりと見送るように尻尾を振った。
去り際、あのたくさんの植物の匂いが早苗の鼻を掠めたが、一つだけ、それがなんの匂いかわかった。
スッと体を通り抜けていくそれは、ミントの香りだった。
※
――――そんな束の間の夢のようなやり取りを経て、あっという間に訪れた日曜日。
早苗は朝から、ひどい頭痛と吐き気に殺されかけていた。
「ヤバイ死ぬ……これが噂に聞く『二日酔い』……」
自分はぜったいにならないと思っていたのに。
精神的なショックも加えて、起き上がろうとしたが怠さに抗えず、再びボフンッとベッドに沈む。
さすがに飲み過ぎたかと、早苗はズキズキと痛む頭で昨日の出来事を振り返った。
早苗の普段の仕事は、主に決まった企業相手への自社商品の提案営業だが、会社の方針で新規取引先の開拓にも力を入れている。
また時には、新商品の企画開発にも携わることもあり、求人誌にも謳い文句として出ているように『やりがいのある仕事』なことは間違いない。
ぶっちゃけると会社自体はブラックスレスレ、限りなく黒に近いダークグレーだが、まだギリ白いと早苗は信じている。
だが例によって例のごとく、昨日も大人げない上司にあることないこと散々嫌味を言われ、「これ意味あるの?」みたいな雑用を押し付けられた。
土曜出勤は、平日に比べれば企業からの緊急電話が少ないため、比較的平和なのが常だ。
だから後回しにして溜めていた仕事を片付けるのには、存外悪くない……はずだったのに!
「居酒屋で飲んだあとに、まだイライラが収まらなくて家でもアホほど飲んだしなあ……それのせいよね、確実に」
一人暮らしを始めてから急激に増えた独り言は、1LDKのマンションの一室に虚しく落ちた。
学生時代にもやらなかった無茶な飲み方をして、潰れている自分が情けない。
動く気には到底なれず、早苗は転がっていたスマホを適当に弄る。
開いたのはSNSだ。
友人たちの呟きが写真付きでポンポンと転がっている。
『夏に向けてヨガ教室はじめました! 新しいことって楽しい♪』
『今日は仕事が休みだから、趣味のアクセ作り中。もうすぐ完成?』
『彼氏と水族館にデート! イルカショーはじまるの今からドキドキ』
『子供の発表会だよ~! がんばれ、まーくん!』
「なんていうか……眩しい」
画面の光ではなく、向こう側が。
早苗の友人たちの休日は、新しいことや趣味を楽しんでいる者、彼氏と充実したデートを満喫している者、すでに結婚して子持ちの場合は子育てイベントを頑張っている者……と、なにやらキラキラしている。
前までは早苗だって、彼氏がいたし仕事に気持ち的余裕もあったし、休日はそれなりに出掛けていた。
部屋でまったり読書をするのも嫌いではなかった。
だけど今はどちらも気力がわかず、今日のように二日酔いでダウンしていなくとも、寝てお手軽なごはんを食べてひたすらだらだらとする休日を送っている。
「私もなにか新しい趣味とか……いっそ婚カツとか、はじめた方がいいのかな。それか武道でも習って、本格的に上司の後頭部を狙っていくか……」
頭が痛すぎて危険思想まで飛び出す。
そうでなくともせめて、同期の彼女が言うようになにか『癒し』でも見つけられたら、こんな無味乾燥な休日を過ごすこともなくなるだろうか。
「週末じゃスーツさんにも会えないしなあ……そうだ、ハッカさん」
緩く笑った彼の笑顔と、ツンと澄ました猫のミントの姿が浮かんだ。
スマホで時間を見れば、現在は午前十時。
約束の午後三時までには、体も少しは復活しているかもしれない。
それにしても、わざわざ家まで行ってお詫びとは、一体なにをしてくれるのか。
よく考えたら男性の家に、女性が一人で行くとか危ない? いや、あの人なら平気か。
というかそもそも、彼はあんなでかい家で一人暮らしなの?
普段の仕事はなにをしているのか。
歳は結局いくつなのか。
あの生え放題の草はなんなのか。
気になることばかりだ。
「……ぜんぶ会って聞けばいいか」
うだうだ悩むことは性に合わない。
早苗はとりあえず頭痛と吐き気、あと頼んでない追加オーダーでやってきた胸やけに苦しみながらも、ようやくスマホを手放して起き上がった。
午後二時半過ぎ。
お昼はまともに食べる気は起きず、それでも冷蔵庫にあったゼリー飲料を喉にちゅるんと流して、早苗はマンションを出た。
格好は前回のようなスーツ姿では当然なく、七分袖の水色トップスに黒のスウェットパンツ、髪は下ろして大人カジュアルに。
一応乙女心として、軽くファンデを塗るくらいの化粧もした。
財布とスマホの入ったショルダーバッグも肩にかけて、ハッカさんの草だらけの洋館を目指す。
一度行けば道を完璧に覚えられるのが、早苗の特技の一つだ。夏を前にした太陽の日差しを浴びながら、迷うことなくまっすぐに歩いていたら、あっという間に目的地に到着した。
「ん?」
しかし、数日前にくぐり抜けたアイアン調の門の取っ手には、前まではなかった看板が紐で下げられていた。
猫の顔をかたどった木製の看板。
そこには緑色のペンキで、なにやらデザインされた文字が描かれている。
「『週末カフェ・ねこみんと』……?」
『みんと』の横には、ちょんと肉球マークも。
さらに店名の下を見ると、白文字で小さくメッセージもあった。
『土日のみ営業しております。
門を進んでお入りください。
あなたのための癒しのハーブティー、お作りします』