最終話 要と早苗と
『ねこみんと』の猫の顔をかたどった看板は、週末カフェをはじめようと決めたとき、真っ先に日曜大工して作ったものだと、要は以前に早苗に教えてくれた。
まずそんな渾身の看板がかかる門をくぐり、カラフルな石畳を越えて、漂う植物の匂いを楽しみながら先を行く。
正面の玄関扉に着いたら、そこにもある看板の指示に従い、今度は左手にまわって中庭へ。
するとすぐに緑あふれるの空間の真ん中で、ドンと存在感を放つウッドデッキのカフェスペースが現れる。
もう慣れてしまった、カフェまでの短い道のり。
だけどひどく懐かしい気分でここまで来た早苗は、猫足テーブルの上を片付ける要の姿に、ホッとしてなんだか少し泣きたくなった。
「ハッカさん」
極々小さな呼びかけに、先に反応したのは、要の足元に丸まるミントだ。
三角の耳をピクッとさせて起き上がり、にゃあと鳴いて尻尾を振る。
「どうしたの? ミント。……あ」
遅れて気付いた要が、ペパーミントグリーンのエプロンを翻してこちらを振り向いた。
彼のタレ目が大きくなり、確と早苗の姿を映す。
「早苗さん……」
「お、お久しぶりです」
まだ気まずげな早苗に対し、ふにゃっと要は相好を崩した。
彼は片付けている途中だったティーポットを手にしたまま、中に残るハーブティーの水面を揺らめかせながら、早苗にゆるい笑顔で小さく礼をする。
「――いらっしゃいませ、早苗さん。『ねこみんと』へおかえりなさい」
『ようこそ』じゃなくて、『おかえりなさい』なんだと吹き出して、早苗は調子を合わせて「ただいま帰りました」と会釈した。
「本日のおまかせコースは、デザートは『リンゴとカモミールのパウンドケーキ』。ハーブティーはレモングラスとペパーミントのブレンドです」
「あ、懐かしい。このパウンドケーキにミントティー、初来店のときと同じですね」
「早苗さんが来てくれる気がして、このパウンドケーキを用意してたんだ。あと今日も二日酔いみたいだし」
「……バレてましたか」
やっぱり誤魔化せないなあと苦笑して、早苗はカップに口をつける。
柔らかな日差しが降り注ぐ、いつもと同じ外の席で飲むミントティーは、いつか振る舞ってもらったときと変わらず、スッとするけどやさしい飲み心地だ。
我慢していた二日酔いの症状も、徐々にやわらいでいく。
次にフォークでほぐすように切って、パウンドケーキの方も一口。
リンゴとカモミールの風味が上手く噛み合ったそれは、気のせいでなければ要の腕が上がったのか、以前より程よい甘みで味の深みが増している気がした。
「おいしいです。ハッカさんが進化している感じがします。……あと、食器類が変わりましたね。志保さんたちから割ったって聞いたんですが」
ガラス製のティーポットは守られたようだが、カップやお皿はデザインが変わって一新されていた。どちらにしろ猫モチーフなのは変わりないが。
態度はゆるだるでも、ハーブティー作りや給仕には卒のない要が、まさか割るなんて……という信じられない気持ちに反し、どうやら本当に割ったらしい。
「早苗さんが来なくなってから、どうも不調で。やっちゃいました」
「……私もハッカさんのハーブティーを飲まなくなってから、不調続きでしたよ」
「じゃあお互い様ですね」
「です」
それから、早苗は『ねこみんと』に来なくなってから、主にどんなことがあったのかを、思い付くままにダラダラと喋った。要は相づちを打ちつつ、うんうんと耳を傾けてくれる。
一番近況で、社員旅行の話題が出たとき。
早苗はストラップを渡し忘れていたことを思い出したが、それを差し出す前に「旅行中にですね、後輩に告白されたんですよ」と口を滑らせてしまった。
「へえ、さすが早苗さん。モテますね。あ、ミントティーのおかわりいります? 注ぎますよ」
「ハッカさんほどじゃないですよ。お願いします……って、ハッカさん、あふれる! カップからあふれます!」
「うわっ」
なんにも反応がなかったら若干寂しいな……と思ったのも束の間。あからさまに動揺した要は、ドボドボとティーを注ぎすぎてこぼしかけ、辛うじてカップのギリギリで止めた。
すみませんと肩を落とすを要を横目に、早苗はおそるおそるカップを持って、少しずつ少しずつ飲んでいく。
……告白は断ったことを付け足せば、心なしか安堵したように見える要に、ちょっぴり期待してしまうのは仕方ないことだろう。
喉を通る清涼感を堪能しながらも、早苗はチラチラと、要の端正な横顔を窺う。
「早苗さん? なにか俺の顔についてます?」
「いいえ! 今日もタレ目だなあって思っただけです! そうだ、ハッカさんに旅行のお土産もあるんですよ。よかったら受け取ってくれますか?」
「いいんですか? 嬉しいな」
誤魔化して早苗はバッグを漁り、取り出したお土産を要に渡した。
さっそく開封した要は、ストラップのチェーンを指に引っかけ、「すごい、ミントに似てかわいいですね」と、持ち上げて嬉々として眺めている。
「ほら、ミント。お前にそっくり」
「にゃあ」
ミントにも見せびらかして、要は大事そうにエプロンのポケットにしまう。
カフェタイムがはじまってから、人間たちと距離をあけたところで寝直していたミントは、あまり興味がなさそうにあくびをこぼした。
「ありがとうございます、早苗さん。あとでスマホにつけますね」
「スマホにですか……?」
早苗は気に入ってもらえたことに胸を撫で下ろしながらも、それは果たしてアリなのかと疑問を抱く。
だってスマホにつけるということは、『スーツさんのスマホ』にも、このゆるいキャラストラップがぶら下がるということだ。
ハッカさんならまだしもスーツさんがこんなものをつけていたら、部下の人がびっくりしないだろうか。
早苗としてもつけてくれるのは嬉しいので、特に自分から進言しないが、会社での反応はちょっと気になった。
「ところで、早苗さん。ちょっとお伺いしたいことがあるのですが」
「なんですか、急に改まって。……ちなみに私も、ハッカさんにお伺いしたいことがありますよ」
たぷんたぷんに淹れられたミントティーが、ようやく半分にまで減った頃。
要はまるでスーツさんモードのような、とても真剣な顔つきで、早苗をじっと見つめてきた。
いったい、なにをお伺いしたいのだろう。
なお早苗がお伺いしたいこととはもちろん、千早から聞いた『あの言葉』の真意だ。
もし早苗が捉えたままの意味なら、勇気を出して……自分の気持ちを打ち明けてみてもいいかも、なんて考えている。
だけどここはあえて先手を譲ろう。
「ハッカさんからどうぞ、私はあとでいいので」
「わかりました……ええと、ですね」
コホンとわざとらしく咳払いをして、心なしか要は猫背を正す。彼の尋常ではない緊張感が伝わってきて、早苗まで緊張してきた。
「早苗さんは……来週末ってお暇ですか」
「来週末、ですか?」
しかし、要の口から出たのは、わりと平和な問いかけだった。
早苗は「んん?」と首を傾げつつ、特になにも考えないで素直に答える。
「これといって用事はないですね。土曜日は部屋の大掃除でもしようかなって思ってたんですけど、日曜日は『ねこみんと』に行くことしか予定はないです」
「それなら俺と、日曜日に出掛けませんか」
「え……」
意味を理解するのに、早苗は数秒ほど時間を要した。
「隣の県に、顔馴染みのハーブ園があるんです。山の中にあって敷地が広いから、ゆっくり見て回れますよ。ハーブを使ったレストランも併設していて、俺もレシピの相談とかたまにするんです。俺が車を出しますし、よかったら二人で……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
要と二人で出掛ける?
車でハーブ園?
来週末の日曜日に?
それってどう考えても。
「デ、デートのお誘いだったりします? ……なんて」
「……そんなとこです」
ふいっと逸らした要の耳は、ほんのり赤く染まっていた。つられて早苗も、カップを両手で包んだまま頬を染めてうつむく。
まだ残るミントティーの水面には、しまりのない自分の顔が映っていた。
鮮明によみがえるのは、千早の鈴を転がすような声だ。
「そのあとにね――――『俺が個人的にハーブティーを淹れたい特別な人は、早苗さんだけだから』って」
……自惚れて、いいのだろうか。
言葉の通り、要にとって自分は、『特別なお客様』からただ一人の『特別な人』になれたのだと、そう。
「いいですよ……二人でハーブ園に行きましょう。私も行きたいです。でもそれだと、『ねこみんと』がお休みになっちゃいません?」
「土曜は営業しますし、一日くらい休業にしても大丈夫ですよ。……ただひとつ心配するとしたら、会社からまた電話がかかってくるんじゃないかってことくらいか。かけてきたら、月曜日は容赦しない」
「スーツさんの顔になっていますよ、ハッカさん。ハーブ園に来ても、お仕事モードは止めてくださいね。せっかくの休日なんですから」
「そうですね。早苗さんと、二人きりの休日です」
顔を見合わせて、「予定は決まりですね」と笑い合う。早苗は脳内のスケジュール帳に、要と出掛ける日をしっかりと書き込んだ。
「それで、早苗さんが俺に伺いたいことってなんですか?」
「んー……まだもう少し、先でよさそうです」
ハーブ園に思いを馳せていたら、わざわざ要の『特別な人発言』について、言及するのは無粋な気がした。
これ以上こちらから聞かなくても、きっと来週の日曜日になれば、またなにかが動くだろう。
――――少なくとも、この一杯のミントティーを飲み終える頃には、二人の関係はちょっと変わっているかもしれない。
「これからも、いろんなお客様のために、ここでハーブティーを淹れてくださいね。……もちろん、私にも」
「約束します。ここはあなたのための癒しを提供する、ハーブティー専門の『週末カフェ』ですから」
ゆるい微笑みを前に、早苗は満足げに頷いて、残ったミントティーを飲み干した。
秋の風が吹いて、さまざまな緑の香りを周囲に満たす。ミントが人間たちを見守るように、にゃあと軽やかに鳴いた。
週末カフェ『ねこみんと』は、本日も営業中である。
これにてこのお話は終了になります。
(ただおまけの一杯として、要視点の話とミント視点の話を間をあけて投稿予定です)
また本日付けの活動報告に、参考文献を記載しておきます。
ひとまず最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました!