2 波乱と知らない彼と
千早さん?
この人が?
言われてみれば、写真の中で要の隣にいた女性と、雰囲気がぴったり一致する。
見つめ合う要と千早の間で、早苗は視線を小さく行き来させる。
「……久しぶりだね、要さん。まさか会えるなんて思わなくて、びっくりした」
「ああ……俺も驚いた」
「眼鏡やめたの? 似合っていたのに。それに今はこんな大きなお家に住んでいるなんて、すごいね。あれからもっと出世したんだ」
「眼鏡は仕事中はかけている。家は身内に借りているだけだ」
「そうなんだ」
二人の会話は互いを探り合うようで、それでいて旧知の仲を思わせる、ただならぬ空気が漂っていた。なにより早苗が地味に衝撃を受けたのは、要がスーツさんモードに切り替わったことだ。
髪を片手でかきあげて、背筋も伸ばし、目つきは鋭い。
完璧にスーツさんだ。
……だけど観察していると、早苗の知るスーツさんとは、ちょっと違う気がした。
どう表現したらいいかわからないが、より研ぎ澄まされたナイフのような、そんな感じ。
スーツさんモードの要だって見慣れてきたはずなのに、今の早苗には、要がハッカさんでもスーツさんでもない、なんだか知らない誰かに見えた。
「ねえ、要さん。今から時間はあるかしら。私、あなたに話したいことがあるの。……あのときのこと、謝りたくて」
「いや、今は……」
要の視線がチラッと早苗を向く。
早苗は反射的に、足を一歩後退させた。
「あの……私、お邪魔みたいなんで、今日は帰りますね」
気まずさも居たたまれなさも頂点に達し、早苗は作り笑いを浮かべて、「失礼します」と頭を下げて踵を返す。
瞬間、早苗の知るハッカさんに戻った要が、「待って、早苗さん!」と腕を伸ばしてきたが、今日ばかりは捕まらなかった。要の手から抜け出たミントが、トトッと地面を蹴ってどこかへ行ってしまう。
早苗は自分を引き留めようとする要も、物言いたげな千早の視線も無視をして、一目散にその場から逃げた。
その週末、要と出会ってからはじめて、早苗は『ねこみんと』でハーブティーを飲まなかった。
※
「あの……早苗先輩、なにかあったんスか」
「なに? 別になにもないし。業務に支障は出てないでしょ」
「出てないのはさすがだけど、なにかあったのは確実にあったわよね。久しぶりに荒れているじゃない。どうしたの?」
営業会議が終わってすぐ、お昼にもいかずパソコンに向き合い、高速タイピングを止めない早苗に、善治とたまたま営業課に来ていた透子は互いに顔を見合わせる。
『ねこみんと』から逃走をはかったあとの週明け。
また来てしまった月曜日。
早苗は風呂に入っても寝ても払えなかったもやもやを抱えたまま、普段通り出社して仕事に打ち込んでいた。
しかし、普段通りだと思っているのは本人だけで、早苗の鬼気迫る業務のこなしっぷりに、皆は「なにがあったんだ?」「また上司ともめたのか? 最近平和だったのに」「鬼神がいる……」とこそこそ噂している。
今の早苗の背後には、赤く揺らめく鬼のオーラが出ているよう、周囲の人間には見えるらしい。
ターンッと、早苗は勢いよくエンターキーを叩いた。
「なんにもないったらなんにもないの! はい、犬飼。このデータ、さっきの会議で議題に上がったとこ、私なりに解決案をまとめてみたから。暇なときに目を通しておいて」
「ええ!? 仕事はやっ! さっきのさっきじゃないッスか!」
「あとこれ、透子に。ちょうどいいからもろもろの書類、経理課に持っていって」
「あら助かるわ」
さばくべきものを異常なスピードでさばき終えたあと、早苗はビジネスバッグの中身をチェックし、肩に掛けると颯爽と立ち上がった。
「これから私、何件か打ち合わせ行ってくるから。遠方のとこにも寄るつもりだし、直帰になりそうならまた連絡する」
そのままカツカツとヒールの音を鳴らし、一つに括った長い髪を靡かせて、早苗はドアから出て行こうとする。
しかし、ふと思い出して立ち止まり、善治に「ねえ」と声をかけた。
「……来月の社員旅行、私も参加するから。幹事の人に会ったら、悪いんだけど伝えておいてくれない?」
「! 早苗先輩、参加するんスか!? 了解ッス!」
「あら、早苗が行くなら、私もたまには参加しようかしら」
それぞれの反応をする善治たちに、短くよろしくねと告げて、早苗は今度こそオフィスを出る。
残された善治は「やった、早苗先輩と温泉旅行!」と諸手を挙げて喜び、透子は「ふむ」と腕を組んだ。
「ちょっと、犬飼。あんた浮かれている場合じゃないわよ。早苗になにかあったことは明白なんだから」
「はっ……! そ、そうッスね! 旅行に来てくれるのは嬉しいスけど、早苗先輩、どうも悩み事があるみたいだし……」
「おそらく前にも話題になっていた彼氏よ。新しい彼氏。ソイツとの間でトラブルがあったと見て間違いないわ。今日の朝、早苗と玄関で一緒になったんだけど、通りすがりの野良猫に向かって『はっかさんのバーカ』って呟いていたの。彼氏の名前、『はっかさん』って言うんじゃないかしら」
「薄荷!? 薄荷って名前なんスか! 俺もう、薄荷キャンディー好きだったけど食いません!」
「アホなこと言ってないで、これはチャンスでしょう!」
バシンッと、細い腕からは信じられない力で、透子は善治の背を勢いよく叩いた。善治は「いたい!」と涙目になる。
駄犬をしつけるような冷ややかな目で、透子は善治をスッと見据える。
「いい? 早苗が彼氏と上手くいっていない今こそが、あんたがつけ入る最大のチャンスでしょうが。旅行までに距離を縮めて、旅行当日に告白でもなんでもして決めちゃいなさい。旅行中なら、早苗の仕事スイッチだってゆるむだろうし、いくらでも恋愛脳にだって出来るわよ」
「ええ!? でもそんな、弱っている先輩に取り入るみたいなこと……」
「日和ったこと言ってんじゃねぇわよ」
エキゾチックな美貌を歪めて、透子はハッと鼻をならす。
「仕事も恋愛も、遠慮した方が負けなのよ。攻めたもん勝ち。そんな調子だからあんた、今まで彼女が出来ても、『善治くんとは、恋人より友達がいいかも』みたいなこと言われて、横から来たポッと出の男にかっさらわれてフラれるのよ」
「なんで俺の恋愛遍歴知ってるんスか! え、話したことないッスよね!?」
「だいたい察しがつくわ。男になりなさい、犬飼。今度こそ勝利を勝ち取るのよ!」
「は、はい! がんばります!」
透子の発破に犬飼はわんわんと頷き、そんなよくわからないことで盛り上がる透子たちを、まだオフィスに残っていた中年社員は、「若いもんは元気だなあ」とぼんやり眺めていた。
……一方、犬飼の決意なんて知る由もない早苗は、ビルが立ち並ぶ雑踏の中、横断歩道で信号待ちをしていた。自分と同じスーツ姿の人が後ろを歩いていき、目の前を車が通り過ぎる。
仕事に集中していないと、つい考えてしまうのは、千早と遭遇したあの日のことだ。
要はまるで知らない人みたいだったし、千早は想像よりもふんわり可愛らしい女性だった。さすがにあの二人が、ただの友人関係だったかもしれないよね……なんて、頭がお花畑な解釈はできない。
あのあと、二人はカフェで話をしたのだろうか?
どんな話をしたのだろう?
そんなことを考えて、いちいちもやもやする自分が嫌だった。
ハーブティーが飲みたい。
あのラベンダーのとか、綺麗な色に変わるマロウブルーとか、ハイビスカスも別のブレンドをしたらどうなるのか気になる。もう一度、はじめてハーブを知ったミントティーでもいいな。
……だけど、それを淹れてくれる要とは、会おうにも今は会う気にならないのが現状だ。
早苗の足元を、一匹の野良猫が走り抜けた。もちろんミントではないし、人混みの中でもスルスルと行く大きな肢体は、だいぶ人と上手く付き合ってそうな猫だった。
遠ざかる丸々とした尻尾を見送って、早苗はポツリと呟きを落とす。
「ハッカさんのばーか……」
子供染みた呟きは、誰に届くこともなく、喧噪の中に溶けて消えていった。