1 月曜日と嵐の予感と
ここから最終章です。
人生において嵐というものは、総じて突然、また一遍にやってくるものである。
「――――それではこの企画は、足立くんに一任する」
「私……ですか?」
毎週月曜日の昼に開かれる営業会議。
そこで前々から話が出ていた新商品の企画について、おもいがけず責任者に名前をあげられた早苗は、ツリ目を見開いて驚いた。
しかも指名してきたのは、あのウルトラムカつく……いや、最近ではプチムカつくくらいまではマシになった上司である。
「今回の主なターゲット層は若い女性だ。君が適任だろう。……期待している」
「! は、はい!」
会議室に早苗の勢い余った返事が響く。
以上、と締め括られ、本日の会議はお開きになった。
「早苗先輩、おめでとうございます! 前からこの企画、担当したいって言っていましたもんね! 早苗先輩ならぴったりッスよ!」
「ありがとう、犬飼。……まさかあの上司に、『期待している』なんて言われる日が来るとは、夢にも思わなかったけど」
「それは俺もビビったッス! いやあ、人ってわからないもんスねー」
会議室から出て廊下を並んで歩きながら、早苗と善治はしみじみと上司の変化を感じ入る。
先輩の男性営業陣たちは、通り過ぎ様に「足立、企画がんばれよ」やら「また足立ミラクル決めてくれよー」などと軽く声をかけていく。
『足立ミラクル』とは、早苗が以前に売り上げのイマイチだった新商品に、ねばって大口契約を取り付けた例のことを指している。その功績もあっての、今回の大抜擢だろう。
「なにかあったら俺も手伝うんで、遠慮せず任せてくださいッス!」
「うん、頼りにしてる」
「頼りに……! さ、早苗先輩のためなら、俺、なんでもがんばります!」
早苗から頼られて、ブンブンと尻尾を振っている善治に、周りはニヤニヤ顔だ。
よかったなわんこ……と、生暖かい視線も共に注がれている。
当の早苗はそんな周囲にはまったく気付いていないが。
「あ、ところで話は変わるんスけど、来月半ばの土日にある社員旅行はどうします? 参加します?」
「あー……あれかあ」
常務が旅行好きなこともあり、早苗の会社では、年に企画される社員旅行の回数が多い。
ただもちろん強制ではなく、回数が多いぶん毎回が固定メンバーになってきていて、早苗の参加率は半々くらいだ。
本音を言えば気を使うので面倒くさいが、営業課は参加率が基本的に高いため、まったく参加しないわけにはいかないのである。
「土日まるまる旅行ねえ……」
まっさきに思ったのは、『ねこみんと』に行けないじゃないか、ということ。
あそこで元気をチャージして、また厳しい平日を乗りきるのが、知らぬ間に早苗の『日常』になっていた。
しかしながら、「週末カフェに行きたいから」なんて理由で断るのは、さすがに社会人としてNGだ。前回の旅行は不参加だったため、今回は参加すべきターンでもある。
「参加しましょうよ、先輩。今回は俺も参加予定なんス! 近場ですけど景色のいい露天風呂に、お刺身がおいしいって評判の旅館ですよ!」
「露天風呂……お刺身……」
「しかもこちらの負担がいつもより軽い! 会社がだいぶ出してくれるみたいッス! 俺も先輩と温泉旅行いきたいですし……先輩の浴衣姿が見たいッス!」
「そんなもん見てどうすんの? うーん、ちょっと考えとくね」
企画のことに旅館のこと。
いろいろ考えることがあるなあと思いつつ、週末になったらハッカさんに報告しよう、企画を任されたことを褒めてくれるかな……と、無意識に考えるあたり、早苗もたいがいなことに本人は気付いていない。
「じゃあ私、外回り行ってくるから。昼は外で適当に済ますね」
「はいッス! 俺は残った書類片付けまーす!」
善治はニカッと八重歯を覗かせ、「旅行の件、いい返事待ってます!」と告げると、角を曲がって姿を消した。
幹事でもあるまいし、なんであんたがそこまで熱心に誘うのよ……と呆れつつも、早苗も社員入り口の方へ向かって、ヒールを鳴らして歩いていった。
※
さて、待ちに待った週末である。
季節は紅葉も盛りを迎えた秋真っ只中。
早苗は新しく買った新品のベージュのトレンチコートを着て、ブーツを履いて『ねこみんと』に向かっていた。
企画担当を任されてからのこの一週間は、早苗のやることはじわじわと増えていき、さすがにまだ通常業務との平行進行に慣れていないので、少し疲れてしまった。
肩も凝っているし、なんとなく怠さが体に残る。
「今日はハッカさんに、疲労回復に効くハーブティーでも頼んで淹れてもらおうかな……」
いや、彼だったら、早苗の疲労をこちらがなにも言わずともまた察して、ぴったりのハーブティーを用意してくれるだろう。
そこにおいしいデザートと、彼のゆるい笑顔が添えられたら、いつもの早苗の癒し空間の完成だ。
早苗はふふっと微笑をこぼしながら、羽塚宅のフェンスが見えるところまでやってくる。
……あの、風邪をひいた要を看病した日。
寝ている要の傍についていたら、いつのまにか早苗までうとうとと寝入ってしまい、起きたらベッドはもぬけの殻。肩には猫マークのブランケットがかけられていた。
慌てて一階に下りると、完全回復した要がキッチンでハーブティーとデザートの準備をしていて、「看病のお礼に」と、結局そこでティータイムを過ごして終わった。
もちろんそれから、二人の関係に進展なんてものはないし、要の過去のことだって、早苗はなにひとつ触れてはいない。
今までも、これからも。
心地のよい場所を守るためにはこのままでいいのだと、早苗は自分に言い聞かせている。
「あれ? 誰かいる」
門の前には、うろうろと視線をさ迷わせる、早苗と同い年くらいの女性が一人いた。
丸襟ブラウスにホワイトカーデ、小花のロングスカートといった出で立ちで、ブラウンの長い髪はハーフアップにまとめられ、アンティークなバレッタでとめられている。
特段華のある顔立ちではないが、清楚で可憐な雰囲気をまとっていて、なんとなく異性にモテそうな、守ってあげたくなるタイプだ。
「あの、なにかお困りですか?」
「あっ……!」
早苗はどこかで、この女性を見た覚えがあったが思い出せず、ひとます困っている様子だったので声をかけた。
女性がパッと顔を上げる。
「実はその、落としたハンカチを猫に取られてしまって……」
「猫、ですか?」
「はい、おかしな話なんですけど、三毛猫に咥えられて逃げられたんです。ここまで追い掛けたんですけど、見失ってしまいまして」
鈴を転がすようなキレイな声でそう説明され、早苗はおいおいそれって……と、頭にあのすまし顔のお猫様を思い浮かべた。
確実にミントの仕業に違いない。
「すみません……それたぶん、知り合いの猫です」
「知り合いの猫?」
「はい、今探してきますね」
なんとなくミントを知っているぶん、早苗は責任を感じてしまい、自ら捜索を申し出た。とりあえずハッカさんにも報告しなきゃと考えていたら、「あ、早苗さん!」と、門の向こうから要が走ってくる。
その肩にはミントが顎を預けて悠々と尻尾を振っており、片手にはピンクのレースのハンカチが握られていた。
「またミントがイタズラしたみたいで……どこからか拾ってきたんですよ。コイツ、たまにこういう悪さをするんですよね。基本的に賢いやつなのに」
「ちょうどよかったです。それを探している方がこちらにいますから」
門を開けて出てきた要に相対しつつ、早苗はよかったですねと、女性の方を振り返った。これで問題は解決だと思ったのだ。
しかし女性はなぜか、ハンカチを、というよりは、要の顔を見て、驚いたように目を見開いている。
また要の方も、女性に目を留め、小さく息を呑んだ。
「要さん?」
「千早……」