2 野良猫と草だらけの洋館と
「やだうそ、大丈夫……!?」
早苗は急いで駆け寄り、しゃがんで猫を抱き上げた。
猫はぐったりしている……ように思えなくもない。
自分でも情けないことに、早苗はこんなときどうするのが適切かわからなかった。
猫など飼った経験はなく、ペットは小六の夏休み、縁日で掬った三匹の金魚を水槽で育てていたくらいだ。好物のチョコ関連でカカオ、ナッツ、ショコラと名をつけて可愛がっていたのに、すぐに三匹とも死んでしまって、それがトラウマで生き物は二度と飼わないと決めた。
つまり、動物関係の知識なんて無に等しい。
「動物病院……はとっくに閉まってるし。夜間診療に行こうにもまず遠いし足ないし……あ、首輪のタグ!」
ぶつぶつと呟きながら思案していたら、ようやくタグの存在を思い出した。
ご主人様がいるなら、なにより届けるのが一番だ。
早苗は微動だにしない猫に恐々としつつ、素早くタグを確認する。
有り難いことに白いプレートには、油性ペンできっちり猫の名前と住所、それに飼い主の名字らしきものが書かれていた。
「猫の名前はミント……飼い主は羽塚さん……よし、住所近い!」
ここから徒歩十分圏内だ。
早苗は出来る限り丁寧に猫を抱え直して立ち上がると、ヒールでタッと駆け出す。
営業という職業柄、ビジネススタイルで走り回るのには慣れている。「がんばんなさいよ!」と猫、もといミントに声をかけて、早苗は飼い主である羽塚さんの家を目指した。
「なにこの家……でかっ。というか日本よね、ここ」
たどり着いた家の前で、早苗は呆気に取られていた。
途中から片手でスマホの地図アプリも操作して、なんとか探し当てた羽塚さんのお住まい。
そこは住宅街の外れにあって、家というよりは西洋のお屋敷だった。
複雑な曲線を描く鉄柵が、ぐるりと広い敷地を囲んでいる。両開きの門もアイアン調で、柵とデザインを合わせており、まるで遠い異国のお城への入り口のようだ。
門を抜けた先には、赤、青、黄と、カラフルな色つきの石畳が敷かれており、それに沿うように、道の両脇にアンティークなガーデンライトがいくつも配置されている。ライトの光と月明かりに照らされた洋館も立派で、クリーム色の壁に、水色の三角屋根。大きな窓も雰囲気がある。
ご近所にこんな別世界が広がっているなんて、早苗は今の今まで知らなかった。
「羽塚さん宅よね、本当に……? 名前もちゃんとあるものね」
門の横にはオフホワイトのスタンドポストが立っており、投函口の上にはお洒落な筆記体で『Hatuka』と描かれている。
チャイムは周辺に見当たらず、試しに門を押したらあっさり開いた。
鍵をかけていないのは不用心な気もしたが、これ幸いと早苗は石畳を歩く。夜風に乗って運ばれてくるのは、庭の植物の様々な香りだ。
これはなんの匂いなのか。
複数の香りが二重、三重、四重にもなっている。
例えばこの洋館にふさわしいのは、色取り取りの豪華なローズガーデンなどだと早苗は思うのだが、ライトの光に浮かぶ庭は、ほぼ緑一色。見事に葉っぱだらけだった。
たまに小さい花も咲いているが、「オール雑草?」と首を傾げてしまう。
だが今は草より猫だ。
ミントを抱いたまま、玄関扉横のチャイムをどうにか押す。
すると程なくして、インターフォンの向こうから「はい」と若い男の声が聞こえてきた。
ロングワンピースの似合う上品な奥様が一人、猫をお供にひっそりと住んでいる……みたいな妄想をしていたので、早苗は少し意表を突かれる。
なんでしょうか? と尋ねる男の声は、機械越しのせいか感情が読み取れない。
「夜分遅くにすみません。道端で、お宅の住所の書かれたタグ付きの猫を拾ったんです。ミントという名前の三毛猫です。具合が悪いようで、急に倒れてしまって……」
――――そこまで早苗が事情を伝えると、いきなりガチャリとドアが開いた。
「あ、の」
出てきた人物を前に、早苗は言葉に詰まる。
そこにいたのは、なんとも気だるげなイケメンだった。
バランスよく整った顔立ちに、弓なりに垂れ下がった目元。
就寝中のとこを起こしてしまったのか、艶やかな黒髪は無造作に跳ねまくっている。180センチはありそうな長身なのに、ものすごい猫背なのが勿体ない。
格好も『サービス残業断絶』と、社畜の叫びのようなものが書かれた変Tに、だるだるのジーパン。履き潰した健康サンダルを足に引っかけていて、驚きの気の抜きっぷりだった。
イケメンなことは確かだ。
しかし総じて拭えない残念臭がする。
「ミント」
「え……」
「ミント、拾ってくれたんですよね」
残念イケメンさんが口を開いた。淡々としているが、不思議と耳心地のいい声だ。
「そ、そうです。あなたが羽塚さんですか?」
「うん。俺が羽塚。羽塚要」
「この猫の飼い主の……」
「飼い主といえば飼い主? 基本的にソイツ、うちの家に住み着いていただけで、野良猫だから。ただなにかあったときのために、一応タグをつけてあったんです」
「はあ、そうなんですか……」
「そうなんです」
ふわぁと欠伸をこぼす要。
話し方のテンポが独特というか、むしろこの人こそ気ままな猫のごときマイペースさを発揮している。
どうも正式な飼い主ではないようだが、ミントを預けて大丈夫なのだろうか。
早苗が躊躇していると、要がぐいっと小綺麗な顔を近付けてくる。は!?と早苗は驚き仰け反りかけるが、彼はミントの様子を確認しようとしただけのようだ。
それにしてもなにか一声欲しい。
「渡してもらえますか」
「あ、はい……」
早苗は「肌キレイ! 睫毛ながっ!」と動転しつつ、ミントを要におずおずと受け渡す。
「あ、あの。その子、私の目の前で倒れてから、ほとんど反応しなくて……もしかして病気なんでしょうか。ま、まさか死……」
「うーん、たぶん大丈夫。寝たふりだから」
「え」
「起きて、ミント」
慣れた調子でミントを抱っこすると、要はポンポンとそのふわふわの背を撫でた。
するとパチリと、ペパーミントグリーンの瞳が開く。
ぐったりしていたのが嘘のように、ミントはいたって元気そうに「にゃあ」と鳴いた。
ゆらゆらと揺れる尻尾からも、体に異常など起こっていないことが見て取れる。
「寝たふり!? あんた寝たふりしてたの!?」
「すみません。コイツ、いきなり人の前でぶっ倒れて、寝たふりして驚かすのが好きなんです。慣れてくると、よく見れば耳は動いているし、足はダッシュの準備しているし、わかりやすいんだけど」
騙された……!
あからさまにガーンとショックを受ける早苗がおかしかったのか、もう一度「すみません」と繰り返しながらも、要は俯きがちに小さく笑っている。
笑うと瞳が細まり、ますます猫っぽい。
でも悪い気はあまりしなくて、親しみを感じる笑顔だった。
「でも珍しいですよ。ミントは見知らぬ人に寝たふり……死んだふり? かましても、近付いたら必ず飛び起きるから。それでびっくりさせて終わり。滅多に他人に抱っこまでさせないし」
気に入られたのかもと言われても、早苗は素直に喜べない。曖昧に笑みを返して、腕時計に視線を走らせる。下手をしたら、帰ったらもう日付を超えそうだ。
それこそ要のTシャツに書いてある『サービス残業』で、早苗は日付が変わっても会社から出られないことだってままある。
深夜三時までは普通に活動時間だとも思っている。
でも今日のように、早めに上がれて好きに飲んで、あとは帰れるだけならさっさと帰りたかった。
猫も無事だったならもういいだろう。
ペコリと頭を下げて、そそくさと去ろうとする。
「それでは、私はこれで失礼しま……」
「待って」