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【書籍発売中】猫と週末とハーブティー  作者: 編乃肌
風邪ひきさんのリンデンティー
18/33

1 風邪引きと休業日と

 鞠との衝撃的な出会いから一週間。

 平日の最後の仕事がはじまる、金曜日の朝。


 『ねこみんと』に通うようになってからも、基本的に早苗の日課は変わらず、出勤準備を整えてベランダで道行く人を眺めてから、気合いを入れて仕事に向かっている。


「あ、志保さんだ。朝にこっちの道を通るなんて珍しいな……急いでいるみたいだし、なにか緊急? あれってお弁当っぽいし……旦那さんに渡し忘れたのかな。おお、今日もマロウブルー少年のお母さんは綺麗だなあ。自慢のお母さんだもんね。金髪も青い目もキラキラしていて……あれ?」


 早苗は錆びたフェンスに肘をついたまま、パチパチと瞬きを繰り返す。


 たくさんの人が流れていったが、きっちり背を伸ばしたスーツ姿の彼がいない。見過ごすことなど有り得ないし、早苗は眉間に皺を寄せる。


「遅刻? まさかね」


 彼は早苗の知る限り、平日の出勤には必ず同じ時間にここを通る。『ねこみんと』の存在を知る前から、スーツさんは遅れたことなんて一度もないのだ。


 だけど今日は、早苗がもう出掛けなくてはいけない時間になっても、彼はついぞ現れなかった。


「なにかあったのかな……なにもないといいけど」


 スーツさんが、いや、ハッカさんが心配だ。


 もう少しベランダに留まっていたかったが、早苗はいい加減に諦めて、玄関を出て階段を駆け下りる。

 要に何事もないことを祈りつつ、そわそわ落ち着かない気持ちで、マンションを後にしたのだった。




 ※




「『本日休業。ごめんなさい、また来てね』……やっぱりなにかあったんだ」


 土曜日は朝から小雨が続いており、昼を過ぎても頭上はどんより曇り空。

 早苗はビニール傘をさして『ねこみんと』にやって来たのだが、門の取っ手にかかる猫型の木製の看板には、そんな文字の書かれたプレートが貼られていた。


 どう考えても、貸切りのときの文字をちょっと変えただけの使い回しだが、まだ営業はしている『貸切り』と、店自体を閉めている『休業』では根本的に違う。


「出張とか? でもそれなら、先週に教えてくれても……。ただの気まぐれの休業日?」 

「にゃあ」

「あ、ミント」


 ひとまず休みなら帰ろうか……と、早苗がUターンしかけたところで、毛をしっとり濡らした猫が、いつのまにか早苗の隣にちょこっとお座りしていた。


 神出鬼没というか、どこからでも気配なく登場するお猫様である。


「あんたまでどうしたの? こんな濡らして……早くご主人さまに拭いてもらいな」


 そう言いながら、早苗はやはりご主人さまの要は家にいないのだろうかと思案する。

 とりあえずミントを雨から守ろうと、小さな頭の上に傘を傾けたときだ。


 ミントはシュッと俊敏な動きで早苗の背後にまわり、「にゃー! にゃー!」と鳴きながら、小さな頭で早苗のふくらはぎの下あたりをぐいぐい押してきた。


「あ、ちょ、なにっ?」


 小さな力とはいえ、前方に押し出されて早苗はたたらを踏む。下手に抵抗してミントに怪我を負わせるわけにもいかず、徐々に門の方へと押し流された。


 傘が門にガシャンッとぶつかり、これ以上は進めないよ! と咎めても、押す力は増すばかり。

 ミントは「はやくいけ」と早苗を後押ししているようだ。


「は、入れってこと?」

「にゃ!」


 そうだと言わんばかりに頷かれたら、従わざるを得ない。


 仕方なく、早苗は『休業』の文字には目を瞑り、門を開けて中へと入った。休みの日なら門の鍵は閉めるよう、要には今度指導しておくべきかもしれない。


「にゃ、にゃあにゃあ」

「え、ええと、こっち?」


 カフェが休みというなら、庭のカフェスペースに行っても意味はない。ミントに誘導されるがまま、早苗は正面の玄関口の方へと足を進めた。


 こうしてちゃんと玄関から訪ねるのは、死んだふりをかましたミントを、慌てて連れてきたあの日以来だ。


 どうしようかと悩んだが、まあここまで来たし様子見だけでも……と、早苗は傘をたたんでチャイムを押す。

 何事もなければそれでいい。



「あの、ハッカさん。早苗ですけど」

「…………早苗さん?」



 数分ほど間をあけて、インターフォンから要の声が聞こえてくる。くぐもって聞きづらいが、ひとまず無事に家にはいることに、早苗はホッとした。


「急にごめんなさい。お店に来たら休みだったし、帰ろうとしたんですが……なんかミントに押されて。でもすぐ帰りますね。お休みなのに失礼しました」


 下手に詮索するのもうっとうしいかもと思い、早苗は休業の理由などは特に尋ねず、ささっと立ち去ろうとする。

 安否確認さえできたらこちらはもう満足だし、ミントもこれで納得するだろう。


「あ、待って! せっかく来てくれたのに悪い……ゴホッ、ゴホゴホッ」

「ハッカさん!?」


 言葉の最後に酷い咳。

 まさか休業の理由って風邪か!? と、早苗がようやくその理由を察すると同時に、ガチャっとドアが開いた。


 出てきた要は、髪はカフェ時より二割増しでボッサボサ。出会ったときと同じ、『やめよう、強引な接待飲み会』と書かれた『社畜の叫びシリーズ』の変Tを着て、くたびれたジャージのズボンを履穿ている。下はお馴染みの健康サンダルだ。


 だがそんな残念な格好より、なにより特筆すべきは要の色気。


 汗ばむ肌はほんのりと朱色に染まり、はぁと吐く呼気は荒い。普段のゆるだるさは、今はすべて艶っぽさへと変換されていた。濡れた長い睫毛に、タレ目は静かな熱を孕み、とろんと蠱惑的に早苗を見つめている。



 ――――なにがとはあえて言わないが、負けた。

 女として敗北だと、早苗は完全なる負けを悟った。



「ごめんね……一昨日から調子が悪くて。昨日も会社を休んでしまって……まあそもそも、風邪の原因はほとんど会社のせいなんだけど……ゴホッ」

「声だいぶガラガラですよ! な、なにかあったんですか……?」


 要が掠れた声で語った内容は、社会の理不尽を凝縮したような有り様だった。


 上司が契約内容を勘違いしていたせいで、複数の取引先との間で問題が同時発生。しかし当の要の上司は出張中で会社にはいない。その日は傘なんてあっても意味のない、風の強い大雨だったのだが、追い立てられるように降りしきる雨の中、要はスーツで謝罪行脚に行かされたそうだ。


「スーツに泥が跳ねる度、上司への呪詛が止まらなかったよね……」

「言葉もない……心の底からお疲れ様です。寝ているところだったなら本当にすみません」

「いいよ、気にしないで。ちょうど起きて、風邪のときに効くハーブティーの準備をしていたところ……ゴホゴホッ!」

「ね、熱もあるんじゃないですか!? 早く中に戻ってください! 私は速攻で帰りますので!」


 早苗は慌てて、咳を苦しそうに繰り返す要に戻るよう促すが、そこでスマホが高らかに鳴った。早苗のスマホだ。

 取り出してみれば、まさかの鞠からの電話だった。


「鞠さん……?」

「あ、サナエさん? ごめんねー、急に! 今日さ、『ねこみんと』に行く予定ある? 朝に用事があってカナメに電話したら、アイツ風邪をひいたみたいでさー」 

「えっと……ちょうど今、『ねこみんと』に……というか、ハッカさんのお家の方に来ていて、目の前に本人がいますが」

「お、マジ?」


 こそこそと電話する早苗の声を聞きながら、要は「姉さん……?」と赤い顔で首を傾げている。意識がおぼろげになりつつあるようで、体はフラフラと揺れていた。


「それならさ、悪いんだけどカナメの看病してやってくれない?」

「え、私がですか!?」

「アイツさ、自分でわりとなんでもできる分、体調悪くても一人でいろいろこなして大人しく寝ないのよ、昔から。困ったやつなの。早苗さんなら寝かしつけてくれそうだし、お任せする!」

「寝かしつけるって、お子様対応じゃないですか……」

「じゃあ、不肖の弟をよろしくねー!」 

「あっ……!」


 返答する間もなく、電話はブチぎられた。

 相変わらずの自由っぷりに、早苗はどうしたものかと悩みつつ、ひとまず要と向き直ろうとして――――。



「ハ、ハッカさん……!?」



 突然のしかかる重みに、鼻孔をくすぐるミントのような甘く涼やかな香り。

 耳元で「ごめんね、早苗さん」と弱々しく囁く声。



 気付けば早苗は、要に真正面から抱き締められていた。




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