4 思い出と泣きたい日と
「お待たせしました」
白シャツとスラックスはそのままで、ペパーミントグリーンのエプロンだけサッと巻いた要は、普段より迅速な手際で準備を進め、ワゴンにティーセットを乗せて持ってきた。
カップもポットも二つ分。
いいと断ったのに、「姉さんが迷惑かけたお詫びに」と、早苗のぶんも結局ハーブティーを用意してくれたようだ。
「本日のデザートは、『一口サイズのシナモンラスク』。シナモンはお菓子によく使われるハーブで、体を温める力があるから、これからの寒い季節にはオススメです。気軽にサクッと摘まんでください。ハーブティーの方は、ローズマリーを中心にしたブレンドで、テーマは『若返り』かな」
ローズマリーは古くから様々な逸話のあるハーブで、学名の『Rosemarinusu』は『海のしずく』を意味する。地中海などに多く生息し、しずくを思わせる淡いブルーの花を咲かせることから、そんな名がついたそうだ。
じゃあ……ケンスケさんの写真に写り込んでいたあのハーブは、もしかしてローズマリー? と、早苗は要の説明を聞きながらふむと考える。
「でも、なんで『若返り』なんですか?」
「いやあ、ローズマリーって本当に伝説が多くてさ。ハンガリーの女王様が七十を過ぎた高齢になってから、ローズマリーを浸けた水を飲みはじめたところ、どんどん若返って昔の美しさを取り戻したんだって。奇跡のアンチエイジング。しかもそのおかげで、二十代の隣国の王子からプロポーズされたっていう……」
「王子が熟女趣味だった可能性はー?」
「姉さん黙って。そんなわけで、ローズマリーは『若返りのハーブ』なんだ。ローズマリーティーは香りがちょっと強めで、味はすっきり。仕事中の集中力アップや気分転換にもいいよ」
要はトントンと、早苗と鞠のそれぞれの前にポットとカップを並べ、真ん中に砂時計とラスクの乗った皿を置く。
今回はどちらのハーブティーも、ローズマリーを中心にしたもののようだが、わざわざポットを別にしたということは、ブレンドが違うのだろうか。
「より味わいがすっきりするよう、ペパーミントとブレンドしたんだけど、甘党な姉さんの方にはステビアもほんの少量加えてあります」
「ステビアって……?」
「ステビアは自然の甘味料だよ、サナエさん」
帰国する度にいつもこのハーブティーを頼むという鞠が、要に代わって説明してくれる。
「甘さは砂糖のなんと300倍! だけどカロリーはほぼゼロ! 使い勝手がとってもよくて、甘みを加えたいときにはお役立ちのハーブ……だったよね、カナメ?」
「だよ。ダイエットの強い味方で、ハーブティーの味調節では定番。それがステビア」
「へえ……」
鞠はにこにこと機嫌よさそうに、「ステビア入りのローズマリーティーが私専用なの」と、緑メッシュを秋風に靡かせる。笑っているとあどけなさが増すので、やはりアラサー感は微塵もない。
もしや彼女の見た目の年齢詐欺っぷりは、この若返りのハーブの力なのだろうかと、ふと早苗は思った。
そんな魔性のハーブティーを、砂時計が落ちきったので、おそるおそる透明なカップに注いで飲んでみる。
「……あ、確かに香りは薬草っぽさ? が強いですけど、すごく飲みやすくて、頭がハッキリする感じしますね。シナモンのラスクもこれ、食べる手が止まらないやつだ……あれ? 鞠さんはまだ飲まないんですか?」
飲むのを今か今かと楽しみにしていたようなのに、鞠はいっこうにポットからローズマリーティーを注がない。頬杖をついて、ただただ早苗が飲んでいるところを見守っている。
「んー、いいんだ。サナエさんが先にティータイムを楽しんじゃって」
「でも……」
「早苗さん、食事中にごめんね。その一杯を飲み干したら、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど。俺とカウンターの方に来てもらってもいいかな?」
唐突に、要がそんなことを早苗に耳打ちした。
跳ねまくりな要の黒髪が頬に触れて、ほんのりくすぐったい。
なんだろう……と意表を突かれつつも、早苗はカップを一度空にして立ち上がる。
「少し早苗さんを借りますね。姉さんはのんびりしていてください」
「なになに? こっそり逢い引きですか?」
「発言が親父くさいよ。じゃあこっち来て、早苗さん」
「あ、はい」
導かれるまま、ウッドデッキから室内に入り、カウンター奥まで進む。
早苗はカウンターの中にまで来たのははじめてだ。
いつもは離れたところにある棚の中を覗き、ラベルつきのドライハーブが詰まった瓶を見比べる。カップも透明なものだけじゃなく、いろいろな種類があって面白い。おおむね猫柄だが。
「それで、ハッカさん。私はなにを手伝えばいいんですか?」
「ん? あれは嘘だから、なにもしなくていいよ」
「はい!?」
「ただあそこに、姉さんを一人きりにするための嘘。ああでもしないと、姉さんはあのハーブティーが飲めないから」
それは、いったいどういうことだろう?
首を傾げる早苗に、「静かにね」と要は人差し指を唇に当て、カウンターのはしっこに移動する。室内と外を隔てるガラス戸越しだが、ここからは一人で座る鞠がよく見えた。
ただ向こうからは、早苗たちが見えにくい位置のようだ。
ぼんやり虚空に視線を馳せていた鞠は、しばらくして、ようやくポットを持ってティーを注ぐ。
なんとなく、早苗は息を潜めて、そんな鞠の様子を要と窺っている。
「ふぅー……」
耳を澄ませば、辛うじて鞠の声も聞き取れた。
彼女はローズマリーティーを一口飲み、なにかを噛み締めるように息をつく。
二口、三口、異変が起きたのは四口目だ。
「えっ……!」
早苗は思わず、小さく驚愕の声をあげてしまった。
――――急にボロボロと、鞠が大粒の涙を流して泣き出したのである。
「うっ、ううう、うううう!」
「ま、鞠さん……!?」
つい反射的に、早苗はカウンターを飛び出して鞠のもとへ行こうとするが、要に手首をつかまれ引き留められる。
このままで大丈夫だから、と。
「うっ、ひっく……なんで……なんで先に死んじゃったのよお、ケンスケェ! ずっと一緒にいようって言ったくせに……事故なんかで、あっさり私をおいていって……ううう!」
鞠の瞳から溢れた涙が、テーブルの上に点々と染みを作る。すでに顔は人目に晒せないくらいぐしゃぐしゃだ。
決して綺麗な泣き方などではなく、泣くことでしか感情を表せない幼子のように、わんわんと声を張り上げて、鞠はひたすら泣いている。
「ばかぁ、あほ! ……ケンスケの、裏切り者ぉ!」
嗚咽とともに吐き出されるのは、亡くなった旦那であるケンスケを悼む言葉だ。
今の彼女の様子は、あっけらかんと彼の死を笑い飛ばしていたときとは、180度かけ離れている。
「……ローズマリーはね、花言葉が『記憶』や『思い出』でさ。ローズマリーティーは、姉さんにとっても、旦那さんとの思い出のハーブティーなんだ」
「思い出の……?」
「旦那さんが姉さんによく淹れていたんだよ。旦那さんはハーブの中で一番、ローズマリーが好きなんだって。『マリ』って、姉さんの名前が入っているからなんて、案外ロマンチックな人だよね」
要もケンスケとは仲がよかったのか、寂しげにタレ目を伏せて小さく微笑む。
鞠はローズマリーティーを飲みながらも、ずっとずっと泣いている。
「姉さんは意地っ張りだから。旦那さんがいなくなって、悲しいとか寂しいとか、人に素直に言えないんだ。でもときどき限界がきて、急に帰ってきては、ローズマリーティーを俺に注文する。そういうときはね、姉さんが『泣きたい日』なんです。大人にもあるよね。それこそ若いときに戻って、とにかく泣きたい日」
「そう、ですね。私もたまにだけどあります。鞠さんも……泣きたいんですね」
強い女性な鞠は、旦那さんが亡くなっても平気なんて、そんなことはなかったようだ。
……さすがは姉弟。
互いのことをわかっているし、またどちらも、素を隠すのが上手い。
どこかに逃げていたミントが、草をかき分け戻ってきて、ひっくひっくとしゃくりをあげる鞠の足を、慰めるように尻尾で叩く。
鞠が存分に泣き終わるまで、早苗は要と並んで佇んでいた。
※
「今日は貸切りのところ、お邪魔してすみませんでした」
「いいの、いいの。またいつでも来てね、サナエさん!」
門のところで、早苗は鞠からお見送りを受ける。要は食器の片付けをしているところでこの場にはいない。
鞠の目が赤くなっていることには最後まで触れず、早苗はペコリと頭を下げて去ろうとする。
「あっ、これ! 一応渡しとくね!」
「名刺ですか……?」
だが去り際に呼び止められて、ポケットから出した名刺を鞠から渡された。
デザインはいたってシンプルだが、メールアドレスや電話番号の他、名前の上に『写真家』とついているのがカッコいい。
「私、明日から仕事の依頼で、神社仏閣撮影めぐりの旅に出るんだけど。しばらくは日本にいるから、なんかあったら気軽に連絡して。例えば主に要関係で」
「は、はあ」
連絡する機会があるかは微妙なラインだったが、鞠になにやら早苗は気に入られたようなので、名刺はありがたく受け取っておく。
代わりに早苗も自分の名刺を渡しておいた。休日なのにまるで仕事の取引のようだが、そこはご愛嬌だ。
そして鞠に「弟をよろしくね」と笑って手を振られ、今度こそ早苗は『ねこみんと』を後にしたのだった。
……あの写真の、要の隣にいた女性のことは、あえて考えないようにして。
【ねこみんと(貸切り中) 本日のおまかせコース】
・奇跡の若返りブレンド
(ローズマリー+ペパーミント+甘味がほしいときはお好みでステビアを)
・一口サイズのシナモンラスク