サソリはバスルームでピョンと跳ねた
体長が10cmくらいで、色が黒、動きが鈍重で、尻尾に付いた針が強い毒を持っている。
テレビとかペットショップで見て、僕が持っていたサソリのイメージ。
加えて、サソリのいる場所では、靴を履くときは靴を振ってサソリが中に入っていないことを確認しないといけないとか、木の割れ目のようなところに不用意に手を掛けてはいけないということくらいの知識はあった。
トイレに行くために僕は部屋を出て、バスルームのドアの前にある網戸を引いて開けようとした。
延ばした腕の20cmほど先に、バッタが網に張り付いていることに気付いた。
いや、バッタにしては色形がちょっと変じゃないか?
体長は4cmほど。体色はスケルトンっぽい白で薄らと青味がかっていると表現するのが適切だろう。
そいつはサソリの形をしていて、凶悪な尻尾を振り上げていた。
確か青いやつと赤いやつの2種類いて、青いやつに刺されたら、子供や老人は時々死ぬんだっけ......
奴は青かった。
子供や老人が時々死ぬということは、裏を返せば、成人男性はまず死なないということではある。
しかし、環境に合わせて淘汰と選別を繰り返してきた現地人の身体は、遺伝子的に極めて強靱なものとなっている。日本人であるだけで虚弱体質のハンデからは逃れられない。
玄関のドアを開けたら、日本人の女の子が立っていて「今晩、泊めて欲しいの」と目を潤ませて言い放ち、なんだこの展開は?と思ったら、現地人と同じ飯を食って自分だけサルモレラ中毒に陥り、症状の重さに必死になって山を越えてきて、ようやく辿り着いたのが僕の家だった、ということがあった。僕の純情を返せ。
現地人の話す被害程度に関しては、外国人の僕たちに当てはめるのは危険である。
僕は石膏で固められたかの如く硬直した。
息を止めて、ゆっくりと手を引き、サソリから視線を外さないようにしながら、サソリを叩いて潰せそうな何か手頃なものを探した。
バスルームの前は通路であり、都合良く手頃な何かなどなかった。
既にサソリの奴に、住居の奥深くまで侵入を許してしまっているわけで、目を離した隙に見失った、というのも恐ろしい。
何の行動も取ることできず、困りに困っていたら、玄関の鍵をガチャガチャと開ける音がして、ダビシンがサッカーから帰ってきた。
素晴らしいタイミングで、強力な援軍が現れた!
声を上げたらサソリが逃げるような気がして、ダビシンに左手でハンドサインを送る。
待て。
動くな。
ゆっくりと、こっちに来い。
見ろ。
サソリがいる。
何か叩くものを、渡してくれ。
ダビシンへのパスは通り、
ダビシンは居間のテーブルにあった雑誌を掴んで、
こっちにやってきた。
流石が現地人だけあって、サソリにも慣れているのだろうか。
表情を変えずにやってくるダビシンは実に頼もしい。
僕は安心した。
そしてダビシンは・・・・・・不用意にバシッとやった。
サソリはダビシンの振り下ろす雑誌を軽やかに躱し、ピョンとこっちに向かって跳ねた。
なにっ、跳ねたぞ、おいっ!!?
奴は僕が日本で得たサソリの知識に反して、圧倒的に素早かった。
「知っている」と思い込んでいたことは、実は全く知ってなどおらず、サソリの奴の予想外の動きに驚愕する。
僕は飛びついてくるサソリのジャンプを半身になってかわすと、弾かれたように5mほど転がり飛び退いて、自室のドアノブで頭をしこたま打った。無茶苦茶痛いが、今はそれどころじゃない。
ダビシンも飛び退いて、居間の方に逃げている。
「ば、ば、ば、ばか! ダビシン! 一撃で仕留めないとダメだろ!」
つか、ダビシンも逃げてるじゃん!ダメだろ。圧倒的にダメだろ。
さっきまでのダビシンへの信頼は砕け散った。
「ダビシン、モップだ!」
あんなピョンと飛び跳ねる奴を踏み潰すことなんてできない。
床の洗浄剤兼ワックスは、確か防虫剤入りだったはずだ。
ねっとりとした、いかにも身体に悪そうな青色をした洗浄剤なら殺せそうな気がする。
ダビシンにモップを用意させている間に、自室のドアを開けて段ボールでバリケードを築く。
僕の部屋に侵入されるわけにはいかん。
ダビシンは洗浄剤をたっぷり付けたモップを持ってきて、サソリに突撃した。
サソリは跳ねながらモップの攻撃を躱そうとしたが、段ボールのバリケードに挟まれて洗浄剤塗れになり、やがて息絶えた。
サソリの死骸は、子供が触れないように、穴を掘って埋めた。
後日談ではあるが、日本人男性にサソリに刺された人が出た。
不用意に木を掴んで手を刺されたらしいが、肩まで包帯にグルグル巻きになった腕は倍くらいに腫れ上がっていた。
日本のマムシに噛まれた程度の毒なのかと、僕は予想を付けた。
書籍で調べたら、サソリの平均体長は2.5cmとあって、僕の見た4cmのサソリはあれで大きかったらしい。2.5cmほどのサイズで、素早く動いて飛び跳ねるのであれば、実に厄介な虫だなぁ、とは感じた。
だが、他にも恐ろしいものが沢山あり過ぎて慣れてしまっており、良い意味でサソリのことは暫くすると忘れてしまった。