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第4章

 薬を探すのに奧の間へそろそろと行くと、諒介は鼻の詰まった時の寝息を小さく立てていた。薬箱を開けて風邪薬を探す。そんな気の利いた物はなかった。元旦で薬局も開いてない。ゴソゴソと他の薬を見る。鎮痛剤の箱の裏書きを読む。熱冷ましの代わりになるだろうか、私は生理痛の時に飲んでいるけど。そういえば澤田さんが生理痛になった事があったな、と声を立てずに思い出し笑いした。

 澤田さんにあとで電話すると言ったきりだ、という事も思い出した。私は電話機を手にして三和土の方まで移動した。手帳をめくっていると、どこからかピリリリリリ、と音がした。

 諒介の携帯電話?

 私が出てもいいものか考えた。諒介はぐっすりと眠っていて気づかない。澤田さんかもしれないと思い、口の中で「ちょっと失礼」と言いながらダッフルコートのポケットを探った。携帯を取り出して通話ボタンを押した。

「はい」

 澤田さんではなかった。相手は私が出たためか戸惑っている。「これは和泉さんの携帯ですけど」と言うと、ようやく話し始めた。

「私、和泉諒介の妹で村瀬と言いますが、兄は」

「お待ちください」

 大変だ。何が大変なんだかよく判らないけど。私は掛け布団の上から、電話機の背で諒介を叩いた。

「諒介、諒介、起きて」

「…はい」

 割と寝起きがいい。ぱちっと目を開けた。

「妹さんから電話」

 諒介は布団から手を出して携帯を受け取った。

「もしもし、香奈子?…うん」と苦笑した。

「うん。そう、香奈の言った通り。うん。うん。え?…え?いや、その、…どうだろう。判らない、今は」

 フッ、と笑って目をこすり、ごろりと仰向けになった。

「え?いや。うん。お袋には後で僕から言うから。うん。あ、めぐむに代わって」

 簡単な会話だ。少しの間が開いた。

「もしもし?諒介おじさんです。あけましておめでとう。偉いね、ちゃんと挨拶できて」

 口調が全然違う。何と幸せそうな顔。私は笑いを押し殺した。

「え?そうなの?弱ったな、おじさんは悪くないんだよ。だっておじさんのお嫁さんはめぐむだもんな。…え?何で?」

 諒介はまた寝返りを打ってこちらを向いた。半ば起き上がっている。

「そうか、確かにそれは魅力的な職業ですね」

 だいたい判った。私はぷっと吹き出した。

「じゃあ、頑張って修行してください。はい、それじゃあまたね」

 電話を切って、諒介はがっくりとうなだれた。

「ふられてしまった、大きくなったら魔法使いになるって」

「可愛いねえ」

「婚約してたのに」

「あはは」

 諒介は眼鏡を取ってかけた。はい、と携帯を渡される。

「…何で電話を二つも持ってるの」

「え?」

 私の右手に諒介の携帯、左手にうちのコードレス電話。諒介は「すごい、間抜けな姿」と笑って、ごほんと咳をした。「澤田さんに電話するところだったの」と睨んで、気を取り直した。

「熱ゥ?」

と澤田さんは言って「やっぱりアホや」と続けた。

「アホだって」諒介を振り向いて私は言った。

「返す言葉もない」

「しゃあないな、今からそっち行くわ」

 私は路線と道順を説明して電話を切った。窓の外は雪が止み、暗くなり始めていた。すっかり日が暮れた頃、澤田さんが到着した。スーパーの白い手提げから取り出した物をテーブルに並べた。薬もあった。「それどうしたの」と訊くと「薬局の入っとるスーパーへ行きゃええんや」と答えが返ってひたすら感心した。

「お米まで」

「あったんか、米」

「あるわよ」

 そんな目で見られていたのか。別にいいけど。「どーせ由加はお粥も作れんやろ」と言われ、その通りだったので「返す言葉もない」と言うと向こうで諒介が笑った。

 澤田さんが料理をする間、私はまた三和土の前に座り込んでぼんやりとした。私をちらちらと見ていた澤田さんが包丁を持つ手を止めて訊ねた。

「由加、何でそんなとこにおるねん」

 動かない私に「冷えてまうで」と言ってまたトントンと軽やかな音を立てた。

「ここが落ち着くの」

「…そーか」

 鍋から昇る湯気がきれいだ。部屋中が暖かい。ヒーターの温風とは違う湿り気が部屋の空気をきらきらさせているみたいだ。

「自分の部屋じゃないみたい」

「全然料理せえへんのやろ」

「そうなんだけど、そうじゃなくて」

「出た、由加の必殺技」

「え?」

 澤田さんはほうれん草を茹でながら横目で私を見てニッと笑った。

「絡まった思考回路、言うたやろ。由加の矛盾は途中の経路が縺れとってよう見えへんねん。ちゃんと解ければ筋道通った話がでけるやろ。その絡まった所をちぎってまうから矛盾から破綻してまうねん。縺れた所を上手く解くテクニックが必要やねんな」

 茹で上がったほうれん草をお湯ごとザーッとざるに揚げ、水を張ったボウルにざるをぽんと入れた。

「泣くな」

 先に言われてしまうと逆に泣けそうになる。ぐっと堪えた。

「なんてな。結局俺が今東京におるんは逃げとんのやし、和泉もそうや。でも由加は、東京と一緒に、ここで縺れと戦っとるんやろ」

「…出た、澤田さんの必殺技」

 私は苦笑して、彼に目を見られないように俯いた。泣くなと言われてまだ二十秒。

「澤田さんが詩人になると誰も勝てない」

「詩人はやめえ、て」

 お粥の鍋の火加減を調節する澤田さんを、膝から覗き込むように見上げた。

「私も逃げてるの」

「そーか」

 自分の部屋だから辛うじてこうしていられる。自分以外のもの、と感じられるドアの外のすべてが怖い。そして澤田さんも諒介も、ドアの外の人だ。

「諒介から逃げてここに座ってる」

 出来上がったおかずからテーブルに置いて、澤田さんは言った。

「和泉が怖いか」

「うん」

「単純かと思うと、時々、何考えとるか判らんからな。俺も怖いわ」

 ふふんと笑う澤田さんに「澤田さんも、時々、怖いよ?」と言うと、「えっ」とお椀を持ったままこちらを見た。そのまま「うーん」と考え込む。

「…そら俺は無敵の詩人やから」

と言って「はずしたな」と困惑の顔。だけどこんな時にはずす澤田さんの方がいい。そう思ったので言うと「やっぱり源二郎や」と苦笑した。

 澤田さんは諒介に「起きろ」と声をかけつつ奧へ行き、戸を閉めるとしばらくして戻ってきた。

「由加、あいつ動かれへんわ。頼んでええか」

「え、澤田さん帰っちゃうの?」

 私は慌てて立ち上がった。澤田さんはもうコートの袖に腕を通している。

「それとも奴を置いて由加が俺んとこ来るか?」

「そんなのできないよ」

「せやろ?それに俺が留まるのもどうかと思うで?」

「何で」

「言わすんか」

 視界が揺れだした。

「由加は無防備過ぎるで。少しは考えろ。俺らは由加の信頼が嬉しいと思うから裏切らない、でも和泉が怖いなら、俺かて怖いやろ」

 澤田さんは私の顔を指さして真顔できっぱりと言った。私は首を振って壁に凭れ、ずるっとへたり込んだ。

「そんな事言わないで、人間不信になっちゃう」

「昨日、すっ飛んで来てくれて、嬉しかった」

 その声を頭上に聞きながら、私は顔も上げられずにまた首を振った。澤田さんは、その後はもう何も言わず出て行った。

 澤田さんの足音が聞こえなくなり、エレベーターの動く遠い音が止まって、私はようやく立ち上がった。動かれへん、というのが気になって、戸口から「諒介、」と呼びかけた。

「起きてる?」

「うん」

「食べられる?」

「要らない」

 掛け布団から出した左手の甲を目の上に載せていて、顔は見えない。先刻澤田さんが着替えさせたのが、その袖の色で判った。

「…眠るから」

と言ったきり、そのままだった。私はそれを見ていたが、また三和土の前の席に戻って、何をするでもなくぼんやりとした。

 もう、湯気は見えなくなっていた。




 背中を丸めて、立てた膝に額を付けて両手をだらりと下げた格好で、私はうとうとしては顔を上げるのを繰り返した。二度、タオルを替えた他は諒介に近づけなかった。キッチンのテーブルと椅子は折り畳みで、こちらに客用の布団を敷く事もできたが、それを取りに行く気にはなれなかった。

 うつらうつらと夢を見た。

 変な夢だった。

 目を閉じただけで引き戻される夢は、その内容が嘘くさい程、私を取り込もうとするかのようだった。シルクハットにタキシード、手品師じゃあるまいし、なぜあなたはそんな格好をしているのですか。その人は走る私と並んで余裕の笑みを見せ、すっと追い抜いて行こうとし、そのくせ私から離れようとしないのだ。

 嫌だ、あっちへ行って。

 でも、見えなくならないで。

 ぺたぺた、という足音で目を開けた。

 顔を上げると、諒介がすーっと目の前を通って流しの前に立ち、コップに水を汲んだ。彼は水を飲み干して、コップをトンと置くと顔だけ向いて私を見下ろした。

「ずっと、そこに居たの?」

 掠れた声だ。それから向き直ってテーブルの上の冷め切った料理を見て、ふう、と溜息を吐いた。私の前に膝を抱えて座る。

「…寝ないの?」と私が訊いた。

「寝るよ」と諒介は答えた。

「僕は、何か由加を脅かすような事をした?」

 澤田さんとの話を聞いていたのか。

「諒介は、いつも私をびっくりさせるよ」

 それは本当だった。だが、今答えるのには相応しくないだろうと思いながら、微笑んでみせた。彼は青白い顔と少し伸びた髭がいかにも疲れている感じで、いつもと変わらない眼鏡が浮いて見えた。こういう、見た事のなかった顔にだって私は驚いている。

「僕も由加には毎度驚かされる」

と言って、彼はふっと笑った。私は目の遣り場に困った。見た事のなかった顔と素足が怖いのだ。私は身を縮めた。彼は立ち上がり、またぺたぺたと歩いたかと思うと、とん、と壁に左手を突いて立ち止まった。

「うーん、面白い。たまには熱も出してみるもんだな」

 私は慌てて立った。諒介の前にまわって顔を覗き込むと、笑っている。

「床でサーフィンができる」

「バカ、何言ってるの」

 不意に諒介は右腕を私の背後にまわし、壁に手を突いた。驚いて後ずさると、そこはもう壁だ。

「つかまえた」

「…嘘つき」

「嘘じゃない。本当に波乗りしてる」

 楽しそうに笑って言った。本当なんだろう、と思ったのを見て取ったのか、諒介は真顔になった。

「逃げるな」

 そう言われて私は動けなくなった。見つめられると思考がぐるぐると回りだした。

 嫌だ、考えたくない。

 諒介の目はじっと動かない。

「何を見てるの」

「由加を見てる」


 知らない。こんな諒介は知らない。こんな人は知らない。


「違う」


 知らない人が私を見る筈がない。


「知らない、こんな人知らない」


 この人が見ているのは私ではない。


「誰を」

「え?」


 左右を見て探す。腕に阻まれて見えない。


「───誰って?そんなの知らない、こっちを見ないで」

「由加」

「知らない、由加なんて知らない」

「じゃあ誰なんだ」


 ───誰、


「ここに居るのは誰なんだ!」

 掠れた鋭い声で彼は言って右手で私の頬を掴んだ。


「いや───!」


「───触らないで。触らないで」

 首を振ってその手を払い除けた。呪縛が解けて足の力が抜けた。その場にぺたんと尻餅をつくと、諒介が肩で息をしているのに気がついた。彼はふらりと椅子につかまって静かに床に座ると、私の前に胡座をかいた。寄り掛かった椅子に頭を載せて、顔を向こうに向けた。

「判った。もう触らないから」

「諒介」

「…誰だか判った?僕は諒介、君は由加」

「私…?私、」

と言いながら周りを見た。私は由加。そう言われてもピンと来ない。

「誰なの」

 抱えた膝に閉じた目をくっつけた。ジーンズの膝に涙がしみ込むのが判った。

「昨日、君は誰かの髪を切ったでしょう。指をさして『この人』と言った。その人が由加。そう言えば判る?僕は、どうして由加が居なくなっちゃったのか考えていたんだ」

 顔を上げると彼はこちらに目を向けて微笑んだ。

「それで、今、君を試してしまった。ごめん」

「試す?」

 呆然と彼を見つめる私を、彼も穏やかに見つめ返していたが、やがて「まいったな」と呟いた。

「殴られる覚悟してたのに。由加ならここで一発ガツンと喰らわすところだ」

 そう言って何がおかしいのかくっくっと笑った。

「澤田が気弱な声を出すと飛んできて、僕がふらつくと慌てて、からかわれたと知るとすぐ怒って殴る。それが由加。だけど彼女は自分で橋を架けてふらつきながら渡って行こうとしてる。だからあんまり彼女をいじめないでよ。…ああ、何の話をしているのかな」

 よいしょ、と彼は身を起こして私と向き合った。

「そう、さっきも言ったけど、いつもぼーっとしていて怖がりですぐ泣く君も由加。いや、」

 あの頼りない笑顔で私の目を覗き込む。

「僕は君が本物の由加だと思ってる。だから自分を切り離してしまわないでよ」

 以上、と言って諒介は立ち上がった。また目を回しているのか「おお、」と楽しげな声で呟き、のってけのってけとか歌いながら奧の部屋へ戻っていった。

 何の話だったのかよく判らなかった。

 私は由加。

 名前を探せば、確かに、私は由加だ。私、由加、私、由加、と交互に呼びながら閉じた目の網膜に像を結ぼうとする。顔が見えない。

 私はのそのそと這って、諒介の居る部屋の隅を進んで鏡台の前に膝で立った。

 変な顔だった。

 泣いて腫れた目、不安げな表情を差し引いてもおかしな顔だった。

 それを見ていたのか、後ろのベッドで諒介がぷっと笑って「変わったゴキブリだ」と言った。

「何て事言うのよ」

 鏡台の上のブラシを掴んで諒介に投げつけた。ブラシは逸れて壁にゴツンとぶつかって落ちた。諒介はクスクスと笑って、眼鏡をかけたまま目を閉じる。私はまたのそのそと這って近づいた。「折れるよ、眼鏡」と外してやった。

「すまないねえ、寝床を奪ってしまって」

「しょうがないでしょう」

 それは言わない約束よ、と私が伝統的な答えを返すと、諒介は掛け布団の端を軽く持ち上げて言った。

「一緒に寝る?」

「バカ野郎」

 咄嗟に出たのが左手だったので威力は小さかったようだが、諒介は「イテェ」とこめかみをさすって笑った。

「ああ、やっぱり由加だ」

 やっぱり熱で変になっているんだ。

「ビデオ観ててもいい?」

「いいけど、由加は寝ないの?」

「タキシード仮面の夢を見たくないの」

「はあ?」

 それ以上は答えずに、私はテレビを点けた。先刻、諒介が口ずさんだ「のってけのってけ」で思い出したバンド少年達の映画を選んで、明かりを消す。眠る諒介の邪魔にならないよう音をミュートにした。三十分程観て気がついた。

 この映画、音がないと意味がない。

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