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第3章

 キッチンのテーブルを部屋の端に寄せて、床に新聞紙を広げた。真ん中に椅子を一脚。私はそこに座った。諒介が新聞の真ん中を円く切り抜いたのをスポッと私にかぶせた。鏡を持って正面に胡座をかく澤田さんが「照る照る坊主みたいや」と笑った。

「子供の頃、こういうのやったね」

「理髪店『おかん』」

「下手なんだ、これが」

 照る照る坊主にされた私は、身構えてじっとしていた。私の後ろに膝で立つ諒介が「大丈夫?」と訊いた。触っても、という事だろう。頷くと、彼は簡単に櫛を入れた。

「大雑把やな」

「これが醍醐味だ」

 不安になるような事を言う。

 チョキチョキ、と鋏が小気味よい音を立て始めた。新聞の上を切った髪が滑り落ちる。諒介は時々首を傾げて長さを見る。ふと手を止めて、「前回と同じでよろしいですか?」と訊いた。澤田さんがアハハと笑い、鏡が天井を映した。

「こんな感じ?」

「前回って?」

「揃えていくと、春頃くらいの長さになる」

「うん」

 またチョキチョキと始まった。揃えるだけでなく、それらしく形を整えていく。鏡に映る諒介の顔は楽しそうだ。彼はこういう遊びめいた事が好きなのだ。私は以前の髪型に戻りながら、その頃出会ったばかりの諒介が、私をからかってペロリと舌を出した、その顔を思い出していた。

「何や勿体ないなあ」

と澤田さんが言った。

「別に、切りに行くの面倒だっただけ」

「こら、下を向くな」

 私は背筋を伸ばした。諒介はじりじりと横に移動し、鏡で左右の長さを見ながら切り揃えた。「こんな感じでいかがですか、お客様」

「はい」

「襟足も剃っておきましょう」

 それを聞いた澤田さんが電気シェーバーを持ち出したので諒介は大笑いした。

「澤田さん、それはあんまりだよ」と私。

「冗談やって。こんなんしかないけどええか?かぶれんとええけどな」

と言って澤田さんはシェービングフォームと剃刀を諒介に渡した。澤田さんは結構神経が細やかだ。首の後ろでしゅうっと音がして、次いで首がひやりとした。剃刀の刃が首筋を滑る感触。諒介の「細い首だな」の声に、私は思わずぴくりと動いてしまった。

「つ、」

「ごめん、やってしまった」

 チン、と電子レンジの音。澤田さんが即席蒸しタオルを投げて寄越し、諒介が私の首の泡を拭き取った。

「大丈夫、別に」私が言うと、「うん。唾つけとくか」と傷の辺りに指先が触れた。

「ほんまに大雑把やな」

「そんなもんだ」

 はい終わり、と諒介が照る照る坊主の新聞紙をびりりと破いて外した。

 首の後ろがスースーする。髪が短いのと、シェービングフォームと、諒介の唾と。

 くらくらした。

 両手で顔を覆って俯いた。

「お参りには行けそうもないか」

 何も答えられない。

 二人は黙って動き回る。見えないから何をしているのか判らない。離れた所でぼそぼそと話し声がした。私はようやく顔を上げた。奧の間で二人はこちらに背を向けて、立ったまま何事か話していた。声をかけると二人は顔だけ振り向いた。

「帰る」

 私は立ち上がって椅子を部屋の隅に寄せ、新聞紙の上を歩いて奧の間へ行き、コートを着込んでマフラーを巻いた。諒介も自分のダッフルコートに手を掛けたが、私が「一人で帰る」と言うと手を止めた。

「あの、澤田さん、ご馳走様でした。二人とも、いろいろ、ごめんなさい」

「由加」と澤田さんが何か言おうとしたのを「それじゃ」と遮って、リュックと、脱いだ私の服が入った紙袋を拾い上げると急いで靴を履いて部屋を出た。アパートの階段にも雪が積もっていた。私は手摺の雪の上に手を置いてそろそろと階段を降りながら、雪の下の手摺の感触が気持ち悪いと思った。階段を降りきった所で、右の掌から何か気色の悪い感じが広がっていくのが判った。逃げるように歩き出す。少し歩いただけで動けなくなった。私は路肩にうずくまった。塀が、電柱が、駐車した車が気持ち悪い。ショックだった。

 私は、諒介を、気持ち悪いと思ったのだ。




 駅の券売機のボタンが気持ち悪かった。地下鉄が気持ち悪かった。シートにも座らず、手摺にも吊革にも掴まらず、立って乗った。列車が今にもどろりと形を崩しそうで、車体が揺れた拍子にふらりとドアに触れた。そのドアが気持ち悪くて慌てて手を放した。ようやくマンションにたどり着いて、エレベーターが気持ち悪いと思って階段を上った。部屋に入って、自分の匂いにようやく落ち着いた。私は荷物を玄関に落とし、コートをキッチンの床に脱ぎ捨て、歩きながら外したマフラーを放り投げて、部屋の真ん中に呆然と立ち尽くした。

 澤田さんの服だ。

 グレーのセーターを脱ぐ時、多分澤田さんのものだろうと思われる、自分にはないものの匂いを嗅いだ。急いでシャツとジーンズを脱いで自分の服に着替え、澤田さんの服を全部丸めてバスルームの戸を開けた。浴槽の蓋の上にそれらを置いて戸を閉めた。

 判っている。二人の気遣いを気持ち悪いなんて思ってはいけない。

 どうしてこんな気持ちになるんだろう。

 私はベッドにもぐり込もうとして、自分のベッドが気持ち悪い事に愕然とした。

 ヒーターを点けて、押入から予備の毛布を引っぱり出し、半分に折ってワッフルのクリームのようにくるまった。知らずと背中が丸くなる。

 毛布の外のすべてがもう、どろどろと重く暗い世界に思われた。

 眠くなってきた私は腕を伸ばしてヒーターをパチンと切った。床が溶け出して落ちてしまうかもしれない、と震えながら目を閉じた。

 寒いな、と時々目を覚ましてヒーターを点けてはまた消して眠る、を繰り返し、数時間が過ぎた。電話のベルに恐る恐る受話器を取ると、静岡の母からだった。時計を見ると、もう昼を回っている。おめでとうございます、と簡単な挨拶。大掃除はしたのか、ちゃんと食べているのか、などと母親の心配を一通り並べた後で、

「一人でぼーっとしてるなら、帰ってくれば良かったのに。和宏が、」

 和宏は三つ上の私の兄だ。

「誰かと一緒だろう、って言うから気にしてなかったんだけど」

「ううん、一人…」

 振り返って部屋を見渡した。

 それじゃまた電話する、と受話器を置くと、富士山が恋しくなった。

 富士の恵みの冷たい水。富士へ向かって真っ直ぐ伸びる道。

 いつもいつもどこに行っても、私を見ていた富士。

 私は毛布の端を掴んでぼんやりと立ったまま、声もなく泣いた。私の手が掴んでいるのはライナスの安心毛布じゃない。

 電話線の向こうに現実があった。

 どうして私の周りにはないのだろう。

 また毛布を半分折りにして隙間にもぐる。髪が顔にかかった。私はその毛先を掴んで、眠ろうと目を閉じ、眠れずにぐるぐると考えた。

 東京は今、沈黙している。昨夜私がしみじみと愛しく掌に包んだ去年という時間を雪に隠して、何もなかったように白くなってゆく。私は毛布の端から目まで出して窓の外を見た。白い雪の向こうに景色が掠れている。

 『由加の中にはちゃんとその理由がある筈だ』

 雪に掻き消えそうな風景の中に、いつか諒介がそう言った、あの公園があった。

 周囲の現実が溶けだす理由が私の中にある。

 『理由が判れば由加はそれを止められる』

 そうだ、いつもそうだったじゃないか。

 私は勇気を奮い起こし、現実を手繰り寄せようとするように髪を引っ張った。よし、と勢いをつけて起き上がるとリュックから手帳を出してアドレスのページを開いた。

 電話に出た澤田さんは「もう気分はええんか」と訊いた。

「うん。さっきは、本当にごめんなさい」

「ええよ。そこに和泉おる?」

「え?」

「おらんのか、帰ったんか?」

「諒介、そこに居ないの?」

「はあ?」澤田さんの大声に驚いて受話器を見た。

「由加が傘持ってかへんかって、奴にあと追わせたぞ、一緒やないんか」

「知らない…」

「何やっとんのやあいつは!」

 またびっくりした。

「私に言われても」

「ああ、すまんな。ほんなら和泉の携帯にかけてみるわ」

「…諒介が携帯?」

 あの口下手のび太君が。同じ事を思ったのだろう、澤田さんは「生意気にも持っとるんやで」と言ってくっくっと笑った。

「いや、由加がかけるか、そうせえ」

「え?」

「ええか、番号言うで」

 私は急いでペンを取って番号を手帳に書き込んだ。澤田さんに、またあとで、と言って電話を切る。

 どうしよう、とその数字を見てがっくりした。出鼻をくじかれて、せっかく奮い起こした勇気が萎んでしまった。私は床に転がって「うーん、うーん」と言いながらしばらく気持ち悪さと戦った。どうしたら、私の中に、現実を繋ぎとめる術を見つけられるだろう。

 現実。

 私は、とりあえず目の前の現実をつかまえようと思った。ピ、ピ、ピ、と手帳の番号を見ながら電話をかけた。しばらくのコール音の後で「はい」と諒介の声がした。

 ぐらり、と目の前が揺れた。

 向こうにあるのは現実じゃないのか。

 何も言えなくなった。

「…もしもし、由加?」

「何で判ったの」

「判るんだな、これが」

 それは不意に現実になった。

 判る、とあっさり言う諒介は現実そのものだった。足元の確かさが諒介の方から広がってくる。私は新たな驚きをもって電話の向こうの彼を思い浮かべた。

「番号を教えていない。知ってるのはほんの数人」

「…すごく、諒介らしい」

「でしょう」

「そんなんで、何で携帯なんか」

「それは、その、…うん、まあ…いや、」

「…もういい」

 私はがっくりと床に転がった。おかしかったのだ。

「傘持って追っかけたんだって?澤田さんに聞いた」

「ああ、うん。追いついたんだけど、その、」

 沈黙。私も黙って待った。しばらくすると大型トラック並みの車の通り過ぎる音が向こうから聞こえた。

「今、どこ」

「うーん」

 何をそんなに困っているんだろう。

「うん、今から行く」

「え?」

「しばし待て」

 プツッ、と切れた。「何だ何だ」と私は言った。それから十分程で諒介が現れたのには更に驚いた。彼は玄関先でダッフルコートの雪を払った。

「どこに居たの」

「そこら辺」

「どこで追いついたの」

「澤田んちの近く」

 驚きを通り越して、呆れた。

 すると先刻の車の音は、そこの国道だろう。諒介は靴も脱がず壁に寄り掛かって、足元を見下ろした。私が投げ出したリュックと紙袋を見て、キッチンに脱ぎ捨てたコート、その先のマフラー、果ての毛布と、私の歩いた跡を目で辿った。

「何で声かけなかったの?」

「うん」

と言うが答えない。あがれば、と促すと「うん」と答えてまた足元を見る。つられて見ると、コンバースの色がすっかり変わっていた。

「…靴下も脱げば」

 そこでようやく諒介はフッと笑みを見せて靴下ごと靴を脱いで上がった。私はハンガーを手にして彼の脱いだコートを受け取り、その重さに驚いた。雪が染みて濡れる程の時間、外に居たという事だ。ヒーターの風の当たる方にコートを掛けて、毛布を片づけながら振り返ると、彼はキッチンの椅子に腰掛け、テーブルに両肘を突いた手で額を支えて俯いていた。

「こっちの方が暖かいよ」

「ここでいい」

 怒って当然だ、「ごめん」と言うと彼はそのままの姿勢で「うん」とだけ答えた。私は彼から隠れるように、キッチンに背を向けて壁に寄り掛かり座り込んだ。

 私達はそのままじっと動かずにいた。

 私は背中に触れる壁や切ったばかりの毛先で諒介の様子を窺おうと気配を探った。重い沈黙、と言うが、それはむしろ軽く、ただ動かない、水滴のような静けさだった。

「訊いてもいいかな」

「なあに」

と振り返って目だけでキッチンを覗く。諒介は相変わらず動かない。

「髪を切った理由」

「…自分でもよく判らない」

 ただ周りの全部が気持ち悪かった、とは言えなかった。それは彼をも含むからだ。

「そうか」

 諒介はようやく顔を上げた。

「すみません、灰皿ください」

 喫茶店に居るみたいな口調で彼は言ってこちらを向いた。私は棚から灰皿を取って戻った。諒介は頬杖を突き、いつもの頼りない笑みを浮かべて目を伏せている。

「弱ったな」

「何が」

 コト、と灰皿を置いた。手にした煙草をくるくる回して弄んでいた諒介はそれをくわえて「うん」と言い、火を点けるのをきっかけにまた黙り込んだ。私は元の場所に引き返し、膝を抱えて座った。

「時間がない」

「え?」

 前にもこんな事があった、と目の前の風景がずれた。

 記憶を手繰る。そう、秋に諒介が東京へ来た時に、帰るまでの時間を差して言った。

「いつ、帰るの?」

「明後日。…いや、そうじゃなくて」

 フッと笑いを洩らしたので、私は今度は体を伸ばして振り返った。諒介は顔だけこちらに向けて、真顔で私を見つめた。

「時間が欲しいんだ。由加、時間をくれないか」

 何の事だかまるで判らない。答えられずに見つめ返した。

「ちゃんと話ができるような、時が来るまで、待って欲しい」

「…待つって?」

「うん。何か、おかしいな」

「何が」

「力が入らない」

 煙草の火も消さずに灰皿に転がして、諒介はぺたっと頬をテーブルにくっつけた。また話をそらす、と私は立ち上がって歩み寄った。彼は暖まったのか、赤い顔をしてふにゃふにゃと笑っている。

「今、僕は力を蓄えているところなんだ。由加もそうしてくれないか」

「何の事?」

「うーん。まいったな」

 あ、と思って恐る恐る諒介の額に触った。やっぱり、雪の中を何時間もうろついたせいで熱がある。「バカ者」と私が言うと、「すみません」と頼りなく返事をした。

「寝てなさい」

「はい」

 立ち上がった諒介はふらふらと歩き、「ああ、自分が面白い事になっている」と笑った。何が面白いものか、と背中を押すと彼はベッドに倒れ込んだ。

「由加ってこんなに粗暴だったっけ。…だったな」

「一言多い」

「申し訳ない」

 熱のせいで言語中枢が捻れてしまったんじゃないかと思う程、諒介は珍しくよく喋った。布団にくるまって、「新年早々まいったな」「いや、でも向こうに絵になる学校を見つけて」「ビデオ持ってくれば良かったな」「そこの坂が何とも」「鼻歌歌ってたら振り返られちゃって」「大判焼食いたい」などと安らかな顔で並べ立てていた。

「諒介、眼鏡」

「あ、」

 目を開けて、水枕と濡れタオルを持った私を見て「それは困る」と言った。

「何で?」

「外すと見えない」

「当たり前でしょう」

「当たり前だな」と言って彼は眼鏡を外して枕元に置いた。

「どうせ目を閉じてるのに」

「そうだった」

 水枕を置きタオルを額に載せて、今度は私がキッチンの椅子に座る番だった。何となく、距離を置く。吸殻の残る灰皿を視界から遠ざけて、テーブルに突っ伏してまた顔を上げた。立ち上がり、どこに居ればいいのか判らなくてテーブルの周りをぐるぐる回った。

 結局、私が選んだのは部屋の隅、玄関の三和土の前だった。

 近寄り難い諒介の気配のする部屋のあちこちの中で、濡れたコンバースだけが安心して見ていられる諒介の物だった。


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