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第2章

 スーパーでカゴをカートに載せ、「何が食いたい」と澤田さんは言った。

「えっ、夕飯は年越しそばじゃないの」と私。

「それじゃ足りない」と諒介。

「大晦日の夕飯はおそばでしょう?」

「年越しそばと晩飯は別だ」

「うちは近所の人も来て飲む。肴がダーッと並んで、夕方から年明けるまで宴会やから、晩飯という感覚はあらへんな」

「家によって違うんだね」と私が感心して言うと、諒介も「澤田家の方針に従いましょう」とカートを押して歩き出した。

 不思議な感じだ。

 離れた場所で、違う生活習慣で、ばらばらに暮らしていた私達が、一緒に食べるごはんの材料を買っている。違う道を歩いて来たのに、東京で出会って、東京で年を越す。

 黒の革コートの澤田さんは一際大きく見え、先頭を歩いて魚のパックを手にしてじっと見たり、野菜を比べて、ぽいとカゴに入れたりする。

 そのカゴを載せたカートを押す諒介はベージュのダッフルコートで、澤田さんの後ろをひょこひょことついてゆく。

 その色の対比がきれいだなと思いながら、私は通りがかりに取ったいちご大福を後ろからカゴにひょいと投げ入れた。諒介が振り返ってニコッと笑った。

 部屋に戻って三人で料理した。澤田さんは最初、私に魚をさばくように言ったが、私が包丁を握ったまま固まってしまうと「アカン、フリーズしてもうた」と自分で全部やる事にした。手先の器用な諒介は澤田さんの指示通りに仕事をこなしながら、つまみ食いをしている。

「由加はレタスでもちぎっとれ」

「うん」

「由加、皿出して」

「うん」

 三者三様、適材適所。不思議な感覚は続く。

 澤田さんが「先にやっとって」とお酒を出した。私がそれをこたつに運ぶ。諒介は鞄からビデオカメラを取り出して、キッチンの澤田さんを撮り始めた。

「チャララチャッチャッチャッチャッチャ、」

と澤田さんがテレビの三分クッキングのテーマを歌いだした。

 二人はふざけながらこちらへやって来て、澤田さんがお皿をこたつの上に置いて「出来上がりはこちらです」と言い、諒介が料理をアップで撮った。

 思いかげない大晦日だ。いつもなら今頃は実家でおそばを食べながらテレビを見ている。予定では今年はやはり今頃おそばを食べて、お風呂に入ってから澤田さんとの約束のお参りに出かけるつもりでいただろう。呼んでもらって良かった、賑やかで楽しい。澤田さんが「一人になるとアカン」と言ったのは案外本音かもしれなかった。

 澤田さんは、飲んだり食べたりの合間にも忙しくこたつとキッチンを行ったり来たりした。諒介は冷や酒を飲みながら、私の話をうんうんと聞いている。

「それで、富士山がいつも目の前にあって、それが当たり前なの」

「いいね」

「子供の頃は家族で初日の出を見に行ったり」

「うん」

 そんなたわいない話をぽつぽつと話した。私は自分でちぎったレタスを箸で取って口に入れようとした。諒介は頬杖をついて、じっとこちらを見ている。

「なあに」

「うん」

 澤田さんはおそばを茹でるお湯を沸かしながら、キッチンの椅子に座って新聞を読んでいた。見つめられると食べにくい。何やら意味ありげな笑みでじっと私を見るので、思い出した事があった。秋に諒介が東京へ来た帰りの、新幹線のホーム。

 諒介はフッと笑うとようやく視線を外して煙草を手にした。

 相変わらず、よく判らない人だ。彼の言う本当の姿がどれなのか、そもそも私がそれを見ているのかも判らない。彼は「一本吸う時間ある?」と澤田さんに訊いた。ない、と答えると諒介は箱を置いて、後ろ手に突くいつものポーズを取った。

「まいったまいった」

「何が?」

「めぐむ、もう寝たかな」

と壁の掛け時計を見上げた。実家の事を考えていたのだな、とそれで判った。

 かすかに除夜の鐘が聞こえてくる。おそばが出てきた。お腹いっぱいだが、やはり食べる。澤田さんがテレビを点けた。

「結構飲んだし、初詣は朝行こか」

「うん」

 ずるずる、とおそばを食べながら、不意に澤田さんが「そーや」と言った。

「由加は見たか、この前和泉が来た時に撮ってたビデオ」

「うん。勝鬨橋の」

「勝鬨橋?」

「会社の近くの橋だよ」

「そんくらい知っとるわ」

 がくん、と澤田さんが首を垂れた。諒介を見るとむうっとした顔で、ぱっと人差指を唇の前に立てて、またずるずるとおそばを口に入れた。

「ああ、うん、会社の…」と私が困って言い淀むと、「みんなと、近くと」と諒介。その辺りは言ってもいいらしい。

「よう撮れてたな、やっぱり男前は写りがええ」

「うん、矢島部長、格好良かったね」

「俺や俺」

 ははは、と諒介が笑った。

「あと、あれどの辺なんや」

「本郷と、御茶ノ水、九段の辺り」

「それは知らない」

と私が言うと、後で見せたるわ、と澤田さんが言った。

 ゴーンという音が、テレビと窓の外の両方で鳴っている。テレビの中では賑やかに、新年への期待で盛り上がっているが、私達は静かにそれを見ていた。

「どうやった、今年」

「面白かったよ」

「由加は」

 私は二人を見た。二人とも、テレビを見たままだ。

「うん、いい年だった」

「せやな、何やかやとせわしなかったけど、今、ええ年やったと思える」

「うん」

 テレビの画面はバラエティをやっていたスタジオの風景に戻り、出演者達が集まってカウントダウンを始めた。時折中継地の風景を挟んで新年が近づく。

「3、2、1、0!」

 わーっと拍手。花火が上がる。「さて、」と澤田さんが居住まいを正した。私と諒介もそれに倣った。

「あけましておめでとうございます」

 三人で深くおじぎをして、また「さて、」とそれぞれ楽な姿勢を取った。

「何で年明けた瞬間だけ、みんな礼儀正しくなるんやろな」

「これはなぜか、どの家も共通だな」

「特別なのかな」

 私がそう言うと、諒介が煙草を取って「特別か」と言った。

 先刻から不思議なのは、この特別な瞬間をこの二人と迎える事になるとは思ってなかったからだろうか。「正月はトランプでしょう」とまるで家族のように過ごす時間。

「由加、さっきからぼーっとしてるね」

「酔ってるのやろ、目が赤い」

「うん?」

 小一時間ほどトランプをして、諒介の撮ったビデオを観る事になった。私の所に送られて来たのと同じ、会社の皆の映像だが、違うのは字幕がない事だ。澤田さんが指をくるくる回す。

「こん時、和泉が『あーれー』て言うてカメラ揺らしてん、アホやで」

 ドラマチックに見えたのに、そんなふざけた場面だったのか。

「お、由加や。やっぱりぼーっとしとる」

「やだな、変な顔で」

「そーか?いつもこんなやで」

「ショック」

 いつも変な顔なのか。

「この後がいい」

と諒介。画面の私がフッと笑う。

「うん、ようなったわ」

 そう言われても、すぐ後の矢島部長の格好良さと比較してしまう。私は膝を抱えて、こたつ布団に顔半分を埋めた。

 それから築地の裏道や勝鬨橋のたもとが映って、私の観ていない場所が映し出された。

 坂道をメインにした映像だった。並木の枝を見上げて歩く。やわらかな木漏れ日が揺れた。橋のように、坂の上を見上げ、坂の上からはたどって来た方を振り返り、広がった町の屋根の連なりを見渡す。走ってゆく列車や歩く人の動きのある場面と、軒先でひなたぼっこする老人や猫などの静止画のような場面との合間に、見上げた空を挟んでいる。アコースティックギターの音が心地よい音楽。

 こたつ布団の感触の気持ちよさと相まって、目の前がぼんやりしてきた。「すごい、器用な姿勢で寝ている」と諒介の声がした。起きてるよ、と答えた筈なのだが、「しょうがないな」と二人は笑った。




 目が覚めると静かだった。

 私はいつのまにか澤田さんのベッドで寝ており、こたつで雑魚寝する澤田さんの背中が見えた。だるい体をむりやり起こした。丸めた背をこちらに向けて、澤田さんがグーグーと小さい鼾をかいている。一日よく働いていたから、と私は思った。ベッドから見下ろすと、諒介はこちらに頭を向けて丸まって寝ている。こたつの上に外した眼鏡があった。横長の大きめのこたつとは言え、大の男二人では窮屈そうだ。それより風邪でもひかないか、と思うべきところだが、私が居るから仕方ないのだろう、悪い事をしたな、と思った。

 私はベッドから降りて諒介の頭の横に座り、平和な寝顔だと思いながらそれをぼんやりと見た。外は夜明けが近いのか、カーテン越しにも薄明るい。青白い部屋で、そういえば諒介の寝顔を見るのは二度目だと思った。

 私はそれまで感じていた不思議な感覚が、家族のような信頼感から違和感に変わっていくのを感じた。もやもやと胸に広がっていく。気持ち悪い、と立ち上がった。

 また春のように吐くんだろうか。

 キッチンの方へ向かい、ユニットバスのドアを開けた。洗面所の蛇口をひねる。水に触れて、その冷たさに手を引っ込めた。見る物、触る物の全てが気持ち悪い。目の前の歯ブラシや歯磨粉、シェービングフォーム、鏡に写る自分にまで嫌悪を感じた。

 足元がどろどろしているようだ、と私は逃れたい一心でキッチンに飛び出した。流しっ放しの水の音がザーッと低く響く。私はテーブルに手を突き、それが気持ち悪いと思って後ずさった。ドン、と音を立てて背中が壁にぶつかると、その気色の悪さにしゃがみ込んだ。

「いや」

 声に出して自分を確かめた。

 自分以外の周りの全部がどろどろと溶けだしたみたいだった。私はどこかに落ちそうな恐怖に駆られて、傍らの何かに掴まった。電話台だった。私の手に押されて上に載せた鉛筆立てが倒れ、ボールペンと鋏が転がるバラバラという音も耳障りで耳を塞いだ。


 気持ち悪い。


 私に触らないで。


 この気持ちの悪さを私から外してしまわなければ。

 どうすれば、と思った時、足元の鋏が目についた。

 私は鋏を掴んで洗面所に戻った。誰か居る。こっちを見ている。


 あっちへ行って。


「由加」

 水の流れる音の中から、誰かが、誰かを呼んでいる。

「何をしてる」

 誰が?

 声のした後ろを向くと、黒縁眼鏡をかけた男の人が戸口に手を掛け、驚いて私を見ていた。私はまた向き直って目の前の女の人を指さした。

「この人の髪を切っているの」

「何があった」

 大股で近づく彼が鏡に映って、私は鋏を投げ出した。振り向くと彼はすぐ目の前に居た。洗面台でこれ以上下がれない。逃げ場を求めて後ろを手探りすると、左手が蛇口を塞いでシューッと水が勢い良く吹き出し、私達に降りかかった。彼が私の両肩を掴む。

「いや、触らないで」

 気持ち悪い。

 その手を振り払おうとする。吹き出していた水は元のように洗面台に流れ出した。彼は手を放さなかった。

「落ち着け」

「何や」ともう一人が顔を覗かせ、バスルームの惨状に驚いた。

「放して」

「由加、こっちを見なさい」

 眼鏡の彼は私の肩をぐっと引いて女の人の前に立たせ、彼女の顔を掌で叩いた。バンと大きな音がした。

「これは君だ」

 鏡だった。

 私は目に涙を溜めて、バラバラの毛先の髪で、赤いセーターに切り落とした毛束をたくさん付けて、こちらを見ていた。鏡の縁に手を突き、真顔で私を見る彼に「諒介」と言うと、彼は、ふう、と息を吐いて俯いた。私はぺたりとその場に座り込んだ。床は私の髪で黒い模様を描いている。後ろから近づいた澤田さんが水を滴らせる私と諒介にタオルを寄越して、浴槽にお湯を入れ始めた。




 三人で床に散らばった髪を片づけた。浴槽にお湯が溜まっていくドドドという音の他に何も聞こえない。濡れた髪を包んだ新聞紙はずしりと重かった。

 誰も何も言わなかった。

 ようやく澤田さんが「着替え置いとくで」と言って私だけそこに残し、ドアを閉めた。

 何だったんだろう、先刻の気持ち悪さ。今も少し、お湯に触れるのが怖い。けれど早く出ないと諒介が冷えてしまう。私は気持ちの悪さを我慢して体についた毛を落とし、温まった。澤田さんのシャツとセーターはだぶだぶとしていて、少しほっとした。何かが触れると気持ち悪いのだ。ジーンズをベルトで絞って、裾を三回も折った。

 私が部屋に戻ると、タオルをかぶってストーブにあたっていた諒介が入れ替わりに出ていった。顔を見ない。狭い部屋をあっという間に横切りバスルームに消えた。早足になってるな、と思うと、それを見ていた澤田さんがこちらへ来てこたつにあたった。

 私は壁に寄り掛かって座り、膝を抱え込んで顔を伏せた。澤田さんは何も訊ねない。「髪、ボロボロやな」とだけ言った。

「自分でも何が何だか判らないの」

「そーか」

 私ができる限り小さくなろうと更にぎゅっと膝を抱え背中を丸めると、「暗いな」と呟いて立ち上がる澤田さんの気配がした。こちらへ来る。シャッ、とカーテンを開けた。

「由加、見てみい」

 私は首を横に振った。

「雪やで」

 え、と顔を上げた。ベランダに吹き込んだ雪がうっすらと積もっていた。向かいの家の屋根は真っ白だ。ひらひらと白い破片がどんどん落ちて来ていた。

「初雪」

「ええ正月やな」

 また黙り込んでしばらく雪が降るのを見ていた。諒介も風呂からあがって戻り、雪に気づくと窓ガラスに額をつけて外を見た。雪と同じ白いセーターだ。

「東京が雪国になった」

 そう言って私を振り向き、「由加、髪を切ろう」と微笑んだ。


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