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第1章

 それは土曜日の昼休みで、たまたま休日出勤だった開発部の澤田さんと中嶋さんも一緒に皆で昼食を採っていた時だった。佐々木さんが、年末にロンドンを旅行するんだよ、と言った。

 土曜日は隔週休みのシフトとなっている。その場に居たのは私を含む入力室のメンバーの半数で、開発の二人と一緒という事を除けば、いつもと変わらぬ土曜の昼の風景だった。佐々木さんは推理小説が好きで、今回の旅のメインはやはりシャーロック・ホームズの家を訪ねる事にあるらしい。同じく読書家の澤田さんとしばらくホームズの話で盛り上がってから、お土産は何がいい?と皆に訊いた。

「ロンドンの名物って何ですか?」

「霧」

「いいね、安上がりで。みんなそれにするか」と佐々木さん。

「タワーブリッジ」

「置物。横に『努力』と書いてあんねん」

 関西弁は澤田さんだ。昨年大阪の本社から来た彼は、コテコテの関西人である。もっとも私がこの会社にやって来たのは今年の春の事だし、彼は二歳年上なので、れっきとした先輩だ。だが彼の明るい人柄は親しみやすい。

「英語で書いてある」

 中嶋さんがそう言うと皆は笑った。中嶋さんは私より年下だが落ち着いた人で、無口だけどたまに言う一言が鋭い。私の頭にタワーブリッジの置物が、ぽん、と浮かんだ。

「よーし、澤田さんはそれだな?絶対だな?」

「おう、きっちり探して来い」

 佐々木さんもユニークな人で、澤田さんとは馬が合うみたいだ。

「あとは幽霊やな」

 え、と私がスパゲッティをくるくるとフォークに絡めていた手を止めると、澤田さんがそれを見てニッと笑った。幽霊が名物なんて事があるんだろうか。秋の台風で私の雷嫌いを知られて以来、その時の事をたまにからかわれる。幽霊も怖いなんて、絶対に言わない、と思う。

 無難に紅茶でしょう、と話がまとまったところで食事を終えた。会社に戻る道で澤田さんは歩調をゆるめて、いちばん後ろを歩いていた私と並んだ。

「由加は年末、静岡帰るんやろ」

「ううん」と私は首を横に振った。もう決めてあったので即座に答えたのだが、澤田さんは「何で」と意外そうに訊ねた。

「毎年、暮れには家に帰ってたんだけど、今年はこっちに居たいんだ」

「ほー?」

「夏には帰ったし、私、東京で新年を迎えた事ってないの。でも今年はいろいろあって、すごく印象的な年だったのね。だから、今年一年どうも、と、東京と一緒に今年を終わらせて新年迎えたいんだ」

 横目で澤田さんを見る。私は少し照れくさくなって肩をすくめ、顔半分をマフラーで隠した。

「東京と一緒に、か。由加らしいわ」

「らしいって?」

「絡まった思考回路」

 澤田さんはふふんと笑って両手をポケットに突っ込んだ。

「由加が残るんなら俺も帰るのやめよかな」

「え?」

「実は帰りたないねん」

「何で」

「うーん」と彼は苦笑いした。「一人で残るのもつまらん思うて、どうせ帰るんやったら和泉のとこ転がり込んだろかと思うたんやけど、」

 和泉、とは和泉諒介という名で澤田さんの親友で、この春まで東京に居たのだが今は大阪に居る。ちなみに私も泉。一字違うが同姓なので、彼も澤田さんも私を「由加」と呼ぶのだ。

「あいつも金沢帰るかもしれへんしな。どないしよー思うててん」

「何かあったの?」

「まあな」

 ふう、と溜息を吐いて澤田さんは正面を見た。どこか遠くみたいだ。

「せやから遊んだって。…俺、おかしいな。すまんな」

「…ううん」

「初詣、一緒に行くのどうや」

「あ、いいね、それ」

 その時、私は彼が以前、大阪に戻りたがっていた事を思い出し、確かにおかしいな、と思った。そこで私はその夜、諒介に電話をかけたのだった。「諒介はお正月、実家に帰るの?」と切り出した。

「ああ、もうそんな時期か」

と、呑気な答えが返ってきた。「考えてなかった」と続く。

「由加は?」

「東京に残るよ。澤田さんも」

「へえ」

「何か、帰りたくないみたいよ」

「ふうん」

「どうしたんだろう」

「知らない」

 がっくりとした。別に詮索するつもりはないけれど、諒介の無関心な返事が暖簾に腕押しというか、手応えがないというか、要するに寂しかったのだ。

「そうか。じゃあ、考えておくよ」

と言って、諒介はクス、と笑った。

「何を」

「正月の事と、澤田の事と」

「うん」

 やっぱり諒介だ、とほっとした。

「由加は、僕にどうして欲しい?」

「…考えてなかった」

 呆然として答えると、アハハ、と諒介は笑った。

「ほらごらん、澤田の事は僕らにはどうしようもないかもしれないよ。奴もどうして欲しいとか思っていないだろう。だから、せめてついててやってよ。由加はそれで充分」

 うん、と答えて、しばらく黙り込んだ。

 じわじわと、「それで充分」の言葉が、しみてきた。

 どのくらい黙っていたのか、合間に向こうから、かさかさ、しゅっ、と音がした。

 目に浮かぶ。黒縁眼鏡の向こうの目を伏せて煙草に火を点ける諒介。

 話をするのは、秋の始めに彼が出張で東京に来た時以来だった。時たまの会話で、時間を飛び越える。何もかもが同じではないのに、見えないところで動かないものがあるように思わせる、諒介はそういう人だ。友達っていいなあ、などと考えて、それがもう十年以上忘れていた感慨のようで、戸惑ったり、諒介のように頼りなく笑ったりした。

 そんな事が十二月の始めにあった。

 休みの初日の三十日、普段きちんと掃除していない分、大掃除くらいはやろうと思っていたのだが、結局午前中はぼんやり過ごしてしまった。朝、目が覚めてから洗濯機を回す間、床に転がってうとうとしたり、明るいうちに窓を拭いてとか、洗濯が終わるまでは換気扇に触りたくないとか、考えてはいるのに動けない。結局、滅多にやらない事だけをやって終わり。部屋の隅に並んだ様々な洗剤の空き容器を見るとげんなりした。ごみが増えてしまった。きれいになったという気がちっともしない。

 それでも玄関に松飾りを置くと、新年を迎えるのだな、と思えてきた。明日の大晦日の夜に澤田さんと二年参りに行く予定だ。私は新聞のテレビ欄の面を抜き取って眺めたり、ビデオを観たりしてその夜を過ごした。




 翌日の昼前、澤田さんから電話がかかってきた。すぐに来れるか、と言う。

「一人になるとな、どうも、アカンねん」

 ぽつりと言う。いつもの明るい澤田さんからは信じられない。何を訊いても「うん」としか答えないので、とにかくすぐ行く、と家の場所を訊いた。大阪に帰りたくないのと関係があるのだろうか、と考えながら三田線の駅へ急いだ。大手町で乗り換えて、澤田さんの話のメモを頼りにようやく部屋にたどり着いた。

 ドアを開けた澤田さんは、ちょっと眉の下がった力のない笑みで私を迎えた。

「どうしちゃったの?」

「話し相手がおらんねん」

 おじゃまします、と靴を脱ごうと足元を見た。見覚えのあるくたびれたコンバース。

 顔を上げると、奧の間のこたつでゲーム機のコントローラーを手にした諒介が「早かったね」とニッコリ笑った。驚いて澤田さんを見ると、彼は先刻とうって変わったニヤニヤ笑いだ。

「バカ野郎」

 下から振り上げた拳が澤田さんの顎に命中した。

「おお、久々のパンチ」

「人が、本気で、心配、したのに」

「うん、まさかそんな息切らして走って来るとは思わへんかった。すまん、この通り」

 深々と頭を下げられると、もう怒る気力もなくなってしまった。毎回ひっかかる私も悪いのだ、からかって面白いのだろう。私は部屋にあがってコートを脱ぎながら「いつ着いたの?」と諒介に訊ねた。「今朝」と彼はテレビから目をそらさずに答えた。見ると電車の運転席から見た眺め、正面に延びる線路と景色がどんどん流れてゆく。

 澤田さんを振り返ると、今度は静かに微笑んだ。

 そうか、早く会わせたかったのか。

 私も笑みを返して座り、こたつに入った。

 諒介は背中を丸めてゲームに熱中している。なるほど、話し相手にはならない。私は目の前のみかんに手を伸ばし、食べながらテレビの中の電車が走ったり停まったりするのを見た。

「ほら、新しいエンディング」

「何?」

と澤田さんがキッチンから部屋に飛び込んで来た。

「くそ、どうやったん」

「秘密」

 むう、と言いながら澤田さんはまたキッチンに戻った。昼食を作っている。手伝おうか、などと心にもない事は言わない。私は料理が嫌いだ。

 諒介は両手を後ろに突いて背筋を伸ばすと私を見た。

「髪伸びたね」

「え?」

 私は両手でぱっと髪を押さえた。春から伸ばしている髪はもうすぐ肩に届くところだ。「何か意外」と私は言った。

「何が?」

「諒介がそういう事を言うの」

「この前も気がついたけど」と言って苦笑する。「言う暇がなかった」

 澤田さんが向こうから言った。

「のび太のくせに生意気や」

 確かに、諒介は黒縁眼鏡につぶらな目がのび太という風情なのだ。意外だ、というのは女性の髪型がどうこう言うのが似合わないというのもあるし、口下手なところもあるからだ。何となく居心地が悪くなる。

 遅くなったから軽く、と昼食はサンドイッチだった。きれいに盛りつけされたそれを見て、私と諒介は同時に「すごい」と言った。澤田さんは「この程度でか?」と言ってフンと笑った。

「どうしてこっちに来たの?」

 私が訊ねると、諒介はちょうど玉子サンドを口に入れたところで、頷きながらもぐもぐと噛んだ。もぐもぐもぐもぐ。視線が泳ぐ。

「いつまで噛んどるんや、早う飲め」

 余程言いたくないらしい。なさけない顔でもぐもぐと噛み続けていたが、やがてごくんと呑み込んで、私と澤田さんを交互に見た。

「うん、めぐむには会いたいんだけど」

「めぐむって」

「姪。妹の子供で、これが可愛いんだ」

 へらっと笑った。

「で、妹が、お袋が待ってるって言うんだ」

「それなのに帰らないの?」

「てぐすね引いて、なんて言われたらちょっと」

 澤田さんはアハハと笑って「そーか、そら帰れんわな」と言った。

「お袋には、僕はまだ大阪に居るつもりだと言ったら、それでもいいと」

 まったく判らない。私がじろりと見ると諒介はこたつに突っ伏して「ドラえもーん」と言い、澤田さんは笑い転げた。諒介は組んだ両腕から眼鏡の目だけ上げて、

「だからまあ、妹の言うのは、嫌なら来なくていいって事で、その、すみません、逃げてきました」

とまた顔を隠してしまった。

「和泉は仕事と食う事が命の変態やからな。見合が向いとるやろ」

「お見合?」

 私は驚いて諒介のつむじを見た。彼の歳なら独身でもおかしくないが、結婚して子供が居てもやはりおかしくない。それは私にも言える事だが、私自身がそうだからか、結婚と言われてもピンと来ない諒介の気持ちもよく判る。問題はお母さんとの考え方の相違なんだろう。諒介は不意に顔を上げ、左目をぎゅっと細めながら、サンドイッチの皿に向かって訴え始めた。

「見合なんて大袈裟なもんじゃなくて、その、正月に遊びに来て、顔を合わせるだけで、いや、知らない、俺は何にも」

 そう言うと諒介は慌てて横になってこたつにもぐり込んでしまった。

「確かに、諒介はお見合向きよね」

「『ええ人やけど』で終わるタイプや。『けど』が付く前に決めるのがいちばんええわ」

 こたつの中から声がした。

「そう言う澤田はどうなんだ、何で大阪に帰らないんだ?」

「今年は東京と一緒に新年迎えたいねん」

「ずるい、それは私が言ったのに」

 暑い、と諒介はこたつ布団から顔を出した。

「東京と一緒に?」

と私を振り仰ぐ。澤田さんに「由加の思わぬ乙女な一面」と言われ、右手が戸惑った。拳も握れない程の恥ずかしさ。

「最近、殴られんようになってん」

 澤田さんは小声で諒介に言った。諒介は、へえ、と起き上がってこちらを見た。今度は私が「知らない、覚えてない」と二人に背を向けてこたつにもぐった。

 二人が東京の新年、という言葉から、私の知らない昨年の話を始めた。私はそれをぼんやり聞きながら、いつのまにか眠ってしまったようで、目が開かないものの肩までこたつから出ているのに気がついた。こたつで眠ったせいか、いつも通りなのか、体がだるい。うとうとする私の耳に、二人の声が戻ってきた。

「まあ、もう終わっとんのや。現実としてな。あとは俺が俺を終わらせる、っちゅうだけで、区切りやな、そこまで行くだけなんやけどな」

「うん。…判る」

「前にな、由加が」

 私の名前だ、と気になるが、頭がはっきりしない。

「東京の水が合わへんのは、大阪に振り返る人がおるんか、言うて、グサーッときてん。ど真ん中突いてくる由加に腹も立ってんけど」

 秋の始めの頃の事を思い出した。やはり私は澤田さんの傷に触れてしまったんだな、と思うと少し辛かった。

「でもうらやましい言うたんもほんまやで。俺はずっと嘘ついとったからな」

「……」

「由加は人見知りのくせに、一遍懐くと犬みたいなんやな。源二郎そっくりや。餌くれー、散歩連れてけー、の顔すんねん」

 犬か。変なたとえだな。二人はくっくっと笑った。

「うん、まあ、似たような事があって」

と諒介が話し始める。

「由加が、諒介はすごい、って言ったんだ。いや、僕じゃなくて、彼女が街で見かけた男の子が僕に似てるって言って、だからすごいのは彼なんだけど」

 しゅっ、とライターの音。

「ストレートに人を誉めるね、由加は。まいってしまう。本当の僕を知らないんだろう、と思うと逆に後ろめたい気分だ」

 本当の諒介?

 彼の言葉と鼻のむずむずで意識がはっきりしてきた。くしゃみをすると二人は黙り、諒介が「風邪ひいたか。起きなさい」と言って私の肩をぽんぽんと叩いた。

 今の話は何だったんだろう。ぼーっと起き上がると二人は笑った。めっちゃブッサイクやな、とか、相変わらず寝起きが悪い、とか言う。

「そろそろ買い出しに行くで」

と言われ、顔を洗わせてもらう事にした。


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