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序章

 きっとあの赤ぶどう酒だ。

 何者かの肩に担がれたリカシェは、夜の気配が漂う石の城のいずこかへと連れ去られるところだった。靴音は歪んで耳に届き、遠くなる意識をなんとか引きとめようとリカシェは何度も唇を噛む。

 就寝する前に飲んだあのぶどう酒に薬が入っていたのだろう。今にして思えば、やけに赤く艶やかな色をしていたように思う。喉を焼くような熱さと酔いを感じて、寝台に横になった時には意識を失っていた。

 本来なら深く眠り込むはずが、幸いにもリカシェは半覚醒し、屈強な男に運ばれる己を自覚することになったようだ。

 否、殺されるというのに意識があるのは不幸かもしれない。

(迂闊だった。あちこちで従兄妹たちが病床に伏したり殺されたりしているというのに。食べ物や飲み物には最も気をつけるべきだったのに)

 大河ニルフラーヤを抱くこの中原には、いくつもの氏族がひしめき合っていた。戦は絶えることがなく、一族の結束を強める血族婚や氏族同士を結びつけるための政略結婚が当たり前に行われている。

 そうした中で最も力を持つようになったのが、ヘルブラーナ一族。長であるシステリオは戦争や子女たちの政略結婚によって次々と他の氏族を飲み込み、やがて王と呼ばれるまでに至った。

 だがそのシステリオも老齢に差し掛かり、ついに王位継承問題が持ち上がった。システリオには直系がいない。ゆえに縁戚関係にある幾人もの老若男女が候補者に挙げられていた。アスティアス一族のリカシェもまたその一人であったが、覇権を狙う従兄妹や親類からは遠い血族であり、継承権を持ちながらも取るに足りない存在だった。

 だがいつからか、有力候補たちの死の知らせが中原の各地に届くようになっていた。暗殺に間違いなかった。そうやって敵を蹴落とすことを食事をするみたいに行う男たちだ。

 だが、もしアスティアス一族が狙われるとするならば、対象はアスティアスの次期族長である弟のレンクのはずであり、自分が真っ先に殺されることになるとは、夢にも思っていなかった。

(私が殺されたら次はレンクだ。それとも、もうすでに……?)

 じわりと焦りと恐怖が湧いてくる。

 腕が動けばいいのに重くて上がらない。足をばたつかせようとも力が入らない。中途半端に効いている何かの薬のせいで、リカシェはただ死へ向かって運ばれるがままだ。

(……意識が、また……遠く……)

 リカシェが再びわずかに意識を取り戻したのは、体勢が変わり、何かに押し込められている時だった。先ほどよりも薬の効果が弱まったのかわずかに目を開けることができたが、霞んで何も見えない。誰かが持つ灯りらしき色が、水面に揺れるように歪んでいるだけだ。

(一人じゃない……犯人は複数……? 城に入り込むのを許すなんて……レンク、弟を守らなければ。誰か、誰か……!)

 必死の思いが小さなうめき声になった。するとにわかに周囲が慌ただしくなる。このままではリカシェが動き出すと感じたのだろう。

 死が、すさまじい勢いで近付いてきていた。ここで抵抗しなければ、あの小さくて無邪気な弟までも殺されてしまうだろう。リカシェのドレスの裾にまとわりついて「一緒に遊ぼう」と笑っていた、父と会った後のリカシェが難しい顔をしているのを「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と慰めてくれた、あの心優しいレンクが。

「……ぁ………れ………か………………ぅっ」

 力を振り絞って紡ぎ出した声は黒い手に潰される。口を塞がれ、呼吸ができなくなった。膝頭が腹部に入って苦しくなる。その痛みで刹那、意識は鮮明になった。

 雷鳴のような一瞬。

 そして、すべてが暗闇に包まれた。

 身体が動かない。腕が伸ばせない。暗い。何も見えない。

 いやだ、と恐怖がみるみる湧いてくる。

 闇はリカシェにとって最大の恐怖だった。幼いころ、暗がりから現れた何者かに襲われかけたことがあったからだ。屋敷の灯りが見えるのにそこに逃げ込むことができなくて、閉じ込められているような気持ちになった。運良く通りかかった見回りによって何事もなく救出されたものの、それ以来リカシェはどんな闇でも必ず一つは明かりを灯すようにしていた。

 なのに、ここは檻だ。闇の檻。リカシェが何よりも恐れている暗闇の中。

「…………れ……ぁ…………だ、れ……か…………っ!」

 正面に手を伸ばすが、ぴったりと蓋をされていて動かない。混乱する思考がここはなんだと問いかける。ここは箱の中。そして聞こえる――水の音。

 アスティアス城の近くに流れるのは、ニルフラーヤ大河の支流。

 そこに向かう箱ならばそれは――水葬される棺に他ならない。

(私は生きたまま棺に入れられ、川に流されて殺されるのだ。まるで生贄の《花嫁》のように)

 中原の氏族の儀式のひとつ。勝利を祈願する男たちは、大神ニルヤの加護を得るべく生贄の乙女を大河に捧げる。捧げられた乙女は、死者の都《水葬都市》の王の《花嫁》となるのだ。

 ばん、ばん、と棺を叩く。

「だれ、か! 誰かっ! ここから出して! 私は生きているわ! ……ああっ」

 箱の中に水が入ってくる。棺が川に入ったのだ。

 いくつもの光景が浮かんでくる。結婚を推し進める無情な父、捨てられるように死んだ母、傲慢な従兄妹たち、自分の庇護を求めてくれる弟。

 無力感。怒り。奮い立つ何か。

 守らなければ。戦わなければ。ここで死ぬわけにはいかない。

「お願い、ここから出して。私は《花嫁》じゃない――」


 その声は虚しく水に飲み込まれる。

 ああ、私は結局、何も成すことができなかった……――。


 ――……遠くで、勇ましい馬の嘶きが聞こえる。

 絶望の淵に飲み込まれていく中で、リカシェは、青い光を見た。

 何もかもが青い世界。空よりも濃密で、蜜のように甘い青だ。水の底から見上げるみたいに、頭上から白い光がいくつも泡沫のように揺れている。

 その下で動くもの。二頭の黒馬が小さな車を引いている。手綱を取るのは銀の髪の若者。青銀の衣装に身を包み剣を佩くその姿を、中原の者たちは物語や壁画などで知っている。冥府から逃げ出した闇を狩る武勇、死よりも深い場所へ旅立つ者たちを見送る心優しさ、数多くの女神に愛された美しさ。

 戦神。無情なる冥府の門の番人。死者の都の王。

 水葬王ハルフィスが、月のような髪をなびかせ、鮮やかに神駒を駆っている。

 ――それが最期に見る光景ならば、なんて美しい夢なのだろう。

 そう思いながら、リカシェはゆっくりと目を閉じた。

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