第53話
「僕は伯備線の電車に乗り岡山に向かっていましたが、車窓から見える川があまりにも美しいので、少しの時間、この川の中を歩きたいと思い、備中高梁駅で下車し、川を下ってきました。この川は高梁川でしょう」
慎吾と会う前の彩世なら、こんな簡単な云い訳を見破れない筈が無い、だが、今は、慎吾のことで頭が一杯だったので疑うことができず、ええ、と素直に答えた。
「これが僕の憧れの高梁川です、今から僕の愛する川になりました」
「この川を愛して頂き嬉しく思います。貴方はご存じないかも知れませんが、以前の高梁川は、今に比べて水量も多く、水は清く澄み、とても奇麗だったそうよ」
「そうですか、でも、今も美しいですよ」
彩世は男に対して、云いようのない親しみと安らぎを覚え、話を続けたいと思った。
「何か、この川に対して特別な思い出があるのでしょうか?」
「ええ、祖母らしき女性が孫娘に高梁川にまつわる、美しいお伽話を話しているのを偶然聞き、どうしても一度、訪れたいと思っていましたが、今、やっと目的を達しました」
と云って、彩世の方に振り向いた。
彩世がお伽話に興味を持ったのか、
「どんなお伽話かしら?」
と、彩世が佑二を見ようと顔を上げたとき、急に突風が吹いて来て、パラソルを傾け、陽光が彩世の目に入り、太陽を背にしている佑二の姿を見えなくした。
目が眩み佑二の姿が見えない彩世は、目を薄く開けて佑二を見ようとするが、逆行で佑二の顔が黒く写るだけでよく見えない。それでも、彩世は直ぐお伽噺を聞きたいのか、パラソルを直さず、
「どうか、お伽噺を聞かせて下さい」
と云った。
祐二は、彩世の哀しげな顔をみているうちに、祖母が話すお伽話は人の不幸を幸せに変える、との言葉を思いだした。
「上手にお話をお聞かせ出来ませんが」
と云うと、彩世は哀しげな声で、
「ええ、ぜひ聞かせてください」
云って祐二を見上げるが、彩世と佑二の距離と角度が丁度、太陽と一直線になるため、また、彩世の目が眩み反射的に顔を伏せる。
「じゃあ、話す前にお聞きしますが、この川へよく来ますか?」
「はい」
彩世は俯いたまま答えた。
「じゃあ、一度ぐらいは西の方に架かる朝の虹を見たことがあるでしょう」
「朝の虹ですか。美しいでしょうね。でも、見たことがないわ」
彩世が残念そうに云った。
「それは残念、もし朝の虹が見えたなら、虹が消えない間に願いをかけると、どんな望みも叶うという伝説もあるのですよ。あなたは聞いたことがないですか?」
その声に、彩世にはどこかで聞いたような気がしたが、御伽話を早く聞きたいとの思いが強かったので、佑二の声と気付かなかったのだ。
「いえ、今、初めて知りました」
「高梁川は大きい川だから、他の地域のお伽話かもしれないね」
「いえ、わたしだけが知らないのかも知れません。お願いです、そのお伽話を聞かせて頂けませんか」
彩世はお伽話を聞き、今の悲しみから少しでも逃れられたらと思ったのだ。
「分かりました。でも、お伽話を僕が語れば嘘に聞こえるかも知れません。どうか目を閉じて、絵本に出てくる優しいおばあさんの顔を瞼に浮かべて聞いてください」