第145部
「はい」
「じゃあ、婚約は?」
慎吾が不安そうに尋ねた。
「婚約は破棄してないわ」
「じゃあ、結婚してくれますか」
「その返答は、少し待ってくださいね」
「分かりました。どうか、一ヶ月でも二ヶ月でも、いや、何年でも待ちます」
慎吾が二年間も苦しみながら自分のことを思い、今日、この身体で会いに来てくれたことを思うと婚約解消を告げられなかった。
「彩世さんのご両親に非礼をお詫びしたいです。どうか、ご両親に会わせてください」
「父と母は、慎吾さんの元気な姿を見たら、きっと、喜びます」
慎吾の顔は喜びに溢れた。
「ユリにあげる絵が出来上がるまで、少しの間、待っていてくださいね」
「いいですよ。僕のことを忘れて写生してください」
写生した絵を百合に捧げた彩世は、慎吾を我が家へ案内した。
彩世の両親は、慎吾を暖かく迎えた。
しかし、彩世と結婚するためには、一つの条件をだした。条件とは、彩世と慎吾が結婚を前提とした付き合いを一ヶ月以上してから、彩世に結婚を申し込むであった。
慎吾が彩世に対して、正式に結婚を申し込む日は九月十日と決めた。
彩世と慎吾が再会した日から一週間後。
佑二は高梁川の高梁川大橋上で、高梁すみれが現れるのを待っていた。
待つこと約三時間後に、すみれが自転車に乗って現れた。すみれは二年のすみれでなくなっていた。あの日焼けして真っ黒の顔は、白く、白い花の匂いで身を包んでいるかのように美しくなっていた。
「来てくれたのね、嬉しい」
すみれは泣きそうな顔をして自転車から降りた。
「君に観光案内をお願いしたくなってね」
「嬉しい、待ちました?」
「5分ほど前に来たよ」
「そう、良かったわ」
すみれは、待たしたことをきにしていたのだ。
「待つのは気にしないが、僕は、君に会えないかと不安だったよ」
「その心配はないわ、夏休み期間中は毎日、この橋を通っていたから」
と、すみれは嘘をついた。
だが、その話しを真に受けるほど佑二は馬鹿ではない、すみれは思った通り毎日、此処に来ていたと思うと、己の無関心さに腹が立つ。
「本当にすまないことをした」
佑二は思わず涙が出そうになる。
「今日、お兄さんは、私のように、私と観光したいと、この橋の上で想っていたんでしょう、ね、そうでしょう」
とすみれは嬉しそうに云った。
「そうだ、君と観光出来るようにね」と佑二は、すみれを喜ばすように云いたかった。だが、止めた。
佑二は、母親から佑二が買った車に乗って生家へ帰るな、と云われる前では、余り嘘や云い訳をしなかった、しかし、母親に云われてからは、嘘と云い訳が山積みだ。その原因は分かっている、佑二が目的達成のために行っていた、諸事全てに関与せずだった時は、人との付き合いが極端に少なくて嘘をつく必要が無かったのだ。しかし、今は以前と比べられないほど世間が広くなり、恋もしたことで、相手に自分の欠点や悪い所を見せたくないの思いが嘘や云い訳をさせていたのだ、また、多くの人達に対して情をいだくようになったことで、相手の気持ちを考えて本当のことが云えなくなり、すぐ、嘘や云い訳をするのだ、それも、悪いと分かっていながらだ。だから、今回も、すみれの気分を害さないように、「僕も、高梁川で君と観光したいと想っていたら,君に会えたのだ」と調子を合わせたら、すみれがどんなに喜ぶだろうと考えると嘘を付きたくなる。しかし、それは、すみれを、毎日、此の高梁川大橋に立たす事になる恐れがあり、これ以上、すみれを高梁川大橋に立たすことはできないのだ。そのように佑二に決心させたのは、一週間前、すみれをループ橋で見かけたからだ。
すみれが走る車の中から佑二を見つけて手を振ったのだ、佑二に対する想い(観光案内をしたい)が弱かったら、すみれは佑二を見つけ出せなかっただろう。だが、見つけ出したのは、責任感が非常に強いすみれの頭には、いつも、自転車を直してもらったお礼に、佑二と約束した観光案内をしなければ成らないとの強く思っていたから,佑二が見えたのだと気付いたのだ。
気付いた佑二は、(僕の為に、すみれを高梁川大橋に立たしてはならない。すみれをそんな悲しい女にさせてはならない、一週間後、君を高梁川大橋で待っているよ、そして、絶対に、君を待たすことはしない)
と心で誓っていたのだ。
佑二は辛さに耐えながら、突き放すように云った。
「ちがうよ」
と云うと、あれほど喜んでいたすみれが悲しそうに、
「何が違うの」と小さな声で尋ねる。
「僕は一週間前に、男性が運転する車に君は乗っていただろう、君たちはループ橋を下る時に、その時、君は僕に気がついたのか手を振ったように見えたが、あれは君だろう」
佑二には男性がすみれの兄だとの想像が付いていた、何故なら、佑二に手を振ったからだ。
「そうよ、私よ、私を知っていたのなら、追いかけてくれたらいいのに」
と恨めしそうにいう。
「それは出来ないよ、男性と一緒だから」
「男性て、私の兄さんのこと」
と、すみれが素直に答えた。
「なんだ、男性は兄さんだったのか、それなら、追いかけて良かったんだね、僕は、君たちの邪魔にならないように上に向いて車を走らせたのだ」
云いながら、また、嘘を云ったと恥じた。
「そうだったの、それなら、許して上げる」
「今日、僕が君に会いに来たのは、僕はこれからは高梁市に来れなくなるので、どうしても、今日、君に観光をお願いしたいと思って来たんだよ。本当に名残惜しいが、今日が最後の日になります。高梁すみれさん、どうか、私を観光に連れて行ってください」
すみれ、は、この日が来るのを覚悟していた。その訳は、佑二と彩世が恋仲ではにいかと考えていたからだ。
「はい、分かりました、佑二さんを観光で最後のおもてなしを致します、どうか、私の指示に従って下さい」
と、すみれは心で泣いて、口では勇ましさを装うが、目から涙が出る、その顔を見られないように、自転車に乗った。
「君は僕のお姉さんでないのに、指導するのが好きだね」
「私、クラスの者からそう云われているの、だから、観光案内で実力を発揮しますから、安心して、付いて来て下さい」
と意気込み、少女は、観光マップを取り出し、行き先を説明した。高梁市歴史美術館、薬師寺、松連寺、郷土資料館、武家屋敷、山中鹿之介碑、松山城は二度目だが、すみれを失望させないよう、すみれに従うように、松山城に歩いて登った。
この間、観光地を巡りながら、佑二は、もう、二度と、高梁市や高梁川には来れないだろうと、町や川、そして山々を心に焼き付けだ。
やがて、松山城を降りた二人は、佑二が借りていた自転車を返し、すみれと一緒に備中高梁駅にきた。
「樫山佑二さん、今日の観光案内は終わりました、御感想は」
と、すみれが心で泣きながら、佑二に尋ねた。
「はい、今日の観光は、僕の命がある限り、絶対に忘れられない最高の観光でした、本当に有り難うございました」
すると、すみれが、
「でも、これで、私の役目が終わると思うと悲しくなるわ、でも、これからは、迷惑になると思いますので、樫山さんを呼び出したりしません」
「迷惑ではありません、また、会うような事が会ったら、お茶でも飲みましょう」
「はい、その時を楽しみにしています」
すみれは佑二が彩世の結婚相手と思い、辛くて悲しいが、諦めると決めていたのだ。
「じゃあ、電車が入って来たから、これで失礼するよ」
と、すみれの手を取り別れを告げると、
「会えて嬉しかったわ」
と、すみれが別れを惜しむように、手を強く握り返した。
佑二がホームに入り、電車に乗る姿を追いかけるすみれの目から、悲しみの涙が溢れ出る、すみれは、電車が見えなくなるまで見送り駅を出て行った。
八月三十日
彩世は、慎吾に結婚の意志を伝える日が近づくに従い、彩世の苦しみは、日を追うように大きくなった。
苦しみの原因は、いかに慎吾との再会が感動的だったかにしろ、慎吾との結婚を承諾したかのような返答をしたことである。
そして、高梁すみれの話が一層、彩世を混乱させた。
すみれの話とは、八月の中頃(佑二とすみれが観光した日より十日後)彩世が家の前を掃除していると、すみれが通り掛かり、真剣な眼差しで尋ねた。
「サヨ姉さんは、樫山祐二さんと結婚するんでしょう。おめでとうございます」
突然、知らない筈のすみれから愛する人の名を云われ、彩世は飛び上がるほど驚いた。
「どうして、祐二さんの名前を知っているの?」
すみれは、彩世の驚き方から、佑二がすみれと観光した事を彩世に伏せていると思ったので、彩世の結婚相手である佑二と一緒に観光したことを伏せ、佑二がすみれの自転車を修理したことと、佑二が展望台から車で出てくるのを見たことをなどを話した。
「そうだったの、でも祐二さんは婚約者でなく知人なのよ」
「じゃあ、結婚しないのね」
すみれは急に明るい顔をした。何故なら、すみれは、佑二と彩世が結婚すると思い込んでいたので、佑二のことを諦めていたからだ。
彩世はすみれの話しが気になった。
(祐二さんが高梁川の高梁川大橋で、すみれさんの自転車を直したのは何日。そして、車で展望台から出てきた日は何日、二日も会っていることは間違いない)気になって仕方がなかったが、佑二とすみれの関係が自転車を直したことだったので、それ以上、深くは考えないようにした。
もし、すみれが、佑二と観光をしたと云っていたら、彩世は全てを知る事になり、慎吾との結婚話は無くなっただろう。だが、すみれにしてみれば、佑二との観光を死んでも云えない、彩世はすみれの大恩人であり、佑二の婚約者だ、二人の中を裂くようなことは絶対に云えないのだ。