第141部 愛と哀しみの故郷へ
祐二が車で雪の中へ消えてから、八ヶ月が過ぎた八月二日。 一台の車が朝日を右後方に受けながら、高梁川に沿った道路を岡山方面から、高橋市へ向かって疾走していた。
やがて、車は彩世の河原の横を通りすぎると急にスピードを落とし、ループ橋に通ずる道へ入りループ橋の登り口に着いた。
ループ橋の下には、木々が青々と生い茂り、小鳥が飛び交っていた。ループ橋を登った車は、無人の展望台に入ると、車のドアが開き、中から、消息を断っていた樫山祐二が出てきた。
祐二はゆっくりとした足取りで、展望台に先端に立って言った。
「高梁市へは、二度と来ないと誓いました、でも、私は、愛哀の故郷が忘れられず、また来ました」
八月二日は彩世が高梁川でカワラナデシコの花を写生し、百合の魂を慰める日である。
彩世の幸せを確かめるために、この展望台からそっと、彩世の姿を見に来たのだ。
祐二を歓迎するかのように、草木の香りを含んだ涼しい風が、祐二を優しく包む。しかし、今の祐二には、その歓迎を受ける余裕はない。
一心に彩世の姿を求め河原を捜した。彩世ならどんなに遠くても見つける自信があったのだ。しかしそこには彩世の姿は無かった。
「少し早かったか」
時を刻むごとに、展望台にも夏の暑い日差しが降り注いでくる。
どのくらいの時間がたっただろう、彩世の河原に米粒ほどの小さい人影が現れた。祐二は、急いで、車から望遠鏡を取り出し、その人影を見た。
「彩世さん‥」
祐二は万感の思いを込めて名を呼んだ。
彩世の顔は以前と変わりなく美しいが、心労によるやつれは、祐二の心を締め付けた。
「一人で来たのは、慎吾くんを捜し出していなかったんだね、いや、なにか問題が起こっているのかも知れない」
祐二は沈んだ声で呟いた。
彩世のヘヤーバンドは、祐二を待っている印である。だが祐二は知らない。彩世を見る望遠鏡が涙で曇る。
その曇ったレンズをハンカチで拭き、また望遠鏡を目に当てる。
河原には、祐二と彩世が種蒔きをしたカワラナデシコが美しく咲き乱れ、河原全体がピンク色に染められていた。
彩世は、カワラナデシコ群から離れた所で、一本だけ咲く花の前にパラソルを立て写生を始めた。
「はずかしいから見ないで」
聞こえる筈のない彩世の声が祐二に聞こえて来た。
(ごめん)