第110話
彩世は祐二にとって命より大切な人。彩世の幸せのためには何でもして上げたい、そして、どんなに苦しくても我慢ができる。だが、だが、今日は彩世に結婚を申し込む日だった。
この現実を目のあたりにして、祐二は、目の前が真っ暗になった。
しかし、その恋敵の男が、不自由な身体と心を推して、愛する彩世に別れを陰ながら告げに来ているのだ。どうして、非難したり邪魔をしたりできようか。
まして、その恋敵が震えながら自分の胸と首に縛り付いてきたのだ。その時、祐二はどうか、この男に幸せが訪れますようにと念じたのだ。
祐二は、慎吾のひた向きで、純粋な愛と哀しみに苦悩する様を目のあたりにして、詫びずに居れなかった。
(慎吾君、僕は君を彩世さんの婚約者としての資格は無いと非難した。しかし、僕の過ちであった。許してくれ)
心で詫びてから誓った。
(僕は、君から彩世さんを奪わないよ)
誓った祐二の目から、再び大粒の涙が溢れた。男は、自分の不幸に涙を溜めても流さないが、情が絡んだ場合は流れる涙を止められない。涙を拭き、気を取り直した祐二は、彩世に電話した。
「もしもし、彩世さん」
「はい、祐二さんね、もう、駅に付いたの?」
嬉しそうな彩世の声が聞こえてくる。
「着いたけど、残念なことに、実家の母親が急病になったので、河原へは行けなくなりました。悪いけど、逢うのは、四日の日に変更してくれませんか?」
慎吾の不幸とわが悲しみに泣いた祐二の声が、母親を心配する声に聞こえた。
「それは大変だわ、早く帰って上げてね。私も病気が早く治るよう祈ってます」
「有難う」
祐二は、嘘を付いた後ろめたさを感じながら電話を切った。
今日は彩世と慎吾君が初めて会った日であり、必ず、彩世が河原へ来ることを知っている慎吾は、果たそうとしても果たせなかった約束を詫びるため、悲しみに耐え、陰ながら約束を果たしたのだ。
そう思った祐二は、一層、慎吾を哀れに思う。
(慎吾君の旅は、彩世さんの姿を見、詫びる為の旅だろう。おそらく、明日の今頃、この場所を通る時、彩世さんに永遠の別れを告げて帰るつもりだろう。しかし、彩世さんの姿は見られないだろう。それを知っていても、そうするしかない慎吾君は哀れだ)
やくも号の線路は高倉山麓の両側で二股に別れ、下りの電車は、彩世の姿が見れる高梁川側を通るが、上がりの電車は通らないのだ。
祐二は、人に泣き顔を見られないよう、鼻をハンカチで覆い、席へ戻り、慎吾の様子を見た。慎吾は身体を前に折り曲げ、背中が波打っていた。
その姿から、嗚咽を必死に耐えているのが、容易に察することができた。
(君の彩世さんへの愛の強さを見た。君なら彩世さんを幸せに出来る)