第109話
その時、やくも号が入って来た。そこへ、スリを追い掛けていた駅員が戻ってきたんので、祐二は駅員と力を合わせ、青年を電車に乗せた。
青年の席は、祐二とは反対側の窓際、即ち、高梁川に面した席だった。
祐二は、青年が何となく人目を避けているように感じたので、出来るだけ青年を見ないようにと目を閉じた。
閉じた祐二の目に、親子三人で楽しげに会話する少女の顔が浮かぶと同時に、涙に濡れた岡本の顔と少女の写真が現れ、祐二の胸が詰まる。
(僕の命ある限り、君のことは決して忘れないからね)
改めて、少女に誓った。
電車は倉敷を通過し、総社駅に来た頃には、家並みも疎らになり、高梁川との出会いが予感させられる。
やがて、予感道理、忘れ得ぬ心の故郷でもある高梁川が現れた。
祐二は、高梁川に目を向け、彩世に慎吾との婚約解消を進言したり、結婚を申し込んだりする練習をしながら、希望に胸を熱くしていた。
やがて、電車は彩世が写生している河原が見える所へきた。
祐二は、彩世の姿がよく見えるようにと席を立ち、慎吾の頭上越しに河原を見た。河原には、彩世がパラソルを背にし、電車に向かって立っていた。
祐二は、彩世に向かって。
(今日、僕は、あなたに結婚を申し込みます)
心の中で彩世に告げていたとき、祐二の目の隅で激しく揺れる白い物が見えた。
祐二がよく見ると、身体の不自由なあの青年が、彩世の母親から見えない、窓際の陰で、真っ白なハンカチを力一杯、振っていた。
祐二の顔が蒼白になった。
(慎吾、君が慎吾くんなのか!)
彩世から慎吾についての経緯を聞いていた祐二には、彩世に向かってハンカチを振る者が誰なのかすぐ分かった。
(あの時、ハンカチを大切にしていた意味が分かった。可哀相な慎吾君)
祐二の顔が悲しみに歪む。
(彩世さんに分かるようハンカチを振れ、勇気を出して振れ、振れ)
祐二は、思わず声のない声援を送らずには居られなかった。
だが、その時はすでに、彩世の姿は無かった。
慎吾の愛と悲しみを目の当たりにした祐二は、居たたまれなくなり、溢れる涙を拭きもせず、後方の電車の連結部へ駈けて行った。
(そうだったのか、彩世さんに会いたくても、その身体では会えないんだな。僕には、君の心が手に取るように分かるよ)