第五節 不実な仕立て屋と怪魚の誘惑
「そんな言い訳が通じると思ってんのかい!」
胡蝶がしらばっくれるのは許さないとばかりに睨みつけると、仕立て屋の男は盛大に顔を顰めた。
「はっ、知らないものは知らないってんだよ!」
「お前がアタシたちの探している娘さんを引きずってここに連れ込んだって奴がいるんだよ。
おとなしく知ってることをしゃ別田ほうがアンタのためなんだけどねぇ」
そう言いながら、胡蝶は後ろに回した手で親指をクイクイと動かす。
どうやら胡蝶は少々強引な手が必要だと判断したようである。
――やるよ。
その合図を見てジンは胡蝶の隣に立ち、カンマカーンが物騒な笑みを浮かべて剣に手をかけた。
「商売の邪魔だ、帰ってくれ!!」
そう言って仕立て屋がドアを閉めようとしたときである。
「無駄だよ」
胡蝶の皮肉とも嘲りともつかぬ声と共に、ジンが横から硬い革靴をドアに挟み込み、同時にカンマカーンが仕立て屋の喉に剣の切っ先を突きつける。
「いけない人ですネ。 罰として、ドアは取り上げてしまいましょう」
そしてアイディンが指を鳴らすと、ドアは一瞬で水となって床に飛び散った。
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃ! か、神よ、助け給え!!」
仕立て屋が神に祈る声を妬みの目で見ながら、胡蝶は無言で店の中に入り込む。
すると、大きな手が彼女の目を優しく覆った。
「胡蝶。 自分より行いの良い者を妬みの目で見てはならない」
ジンの低くやさしい声に、胡蝶は大きく息を吐く。
「大切なものは失ってわかる……とはよく言ったものだねぇ。
獅子の旦那がそう仰るなら、アタシは否は無いよ」
まぶたに残るジンの指のぬくもりを惜しむように指でなぞりながら、胡蝶は妬みの罪の代わりに好色の罪に落ちそうだ……と誰にも聞こえない声で呟いた。
「で、出て行ってくれ! さぁ、見ての通りここにそんな女はいないだろ!」
たしかに仕立て屋の仕事場の中にそれらしい姿は無い。
「ふむ、残念ながらここに私のスールマーズはいないようですね。
ただ、証言自体は間違ってませンでしたよ」
そう告げると、アイディンは部屋の隅に転がっていた布地を持ち上げ、その下から出てきた湖水のような色をした透明な石を拾い上げる。
「これは魚眼石。 私がスールマーズに渡しておいた物です」
その美しい石を皆の目に見えるように掲げると、カンマカーンが抜き身の剣を手にしたまま仕立て屋のほうへと歩み寄った。
「こんな物が証拠になるのか、そうお思いですネ?
服の飾りだとでも言い張るつもりですか?
……なんというお馬鹿サン。
宝石としての価値はありませんが、とても珍しいのでこの辺りでは産出しないのですよ。
それに、剥離性がとても強いので人間の手ではこんな形には整えられませン」
つまり、下町の仕立て屋の中にあるにはどう見ても過ぎた代物である。
もはや言い逃れできぬ証拠であった。
「さぁ、詳しい話を聞かせてもらおうか」
その首に刃物を押し付けられると、ようやく仕立て屋は観念したように真実を語りだす。
「ちっ、たしかにの女はウチにきたよ。
なにやらアンテ……えっと、アンセラだっけ?
手にしていた箱についている棒切れが折れて帰り道がわからないから、俺の家で保護しようとしたんだよ」
そう言いながら仕立て屋はその刃物を引いてくれと目で訴えたが、胡蝶は黙って首を横に振った。
もっとも、胡蝶が認めたところでカンマカーン自身がそんな要求を受け入れるはずも無いのではあるが。
どうやら言い分が通らないことを察すると、仕立て屋はガックリとうなだれて話の続きを語りだした。
「そんで、腹が減っただろうって、その日は珍しく大きな魚が手に入ったんで、そいつを晩飯として出してやったんだ。
そしたら、あの女、そんなものは私に必要ありませんって言いやがって……いくら勧めても茶の一杯も口にしやがらねぇ」
それはそうだろう。
こんな胡散臭い人間が勧めた飲食物を口にするのは、おそらくジンや子供ぐらいである。
ましてやスールマーズに人間のような食事が必要かどうかも怪しい限りだ。
「それでせっかくの俺の施しを受けられねぇってのかって怒鳴ったら……急に倒れて動かなくなった。
だからそのまま寝台に運んでやったら、翌朝にはいなくなっていたよ」
だが、そう言いながら視線を逸らした仕立て屋を見て、胡蝶はこっそりと首を横に振る。
――この男は、いま嘘を言った。
その瞬間、カンマカーンは嬉しそうに唇の端を吊り上げ、前に出ようとしてジンに止められる。
――なぜ止める!?
不満げなカンマカーンの視線を受け止めながら、ジンは人のよさそうな笑みを浮かべて語りかけた。
「それは災難だったな。 で、その魚料理はどうしたんだ?」
「忌々しいから外に捨てたよ。 ちょっと見ないほど大きな魚だったのに、勿体無い」
その言葉を聞くなりカンマカーンが眉をピクリと動かし、ジンが何かを言いかけたが、胡蝶の手がその服のすそを強く引っ張って制止する。
そのまま彼女はジンの背中に隠れるように位置を取り、仕立て屋の死角を選びながらさりげなく外に出ていった。
なんとなく彼女が何をしようとしたかを察したジンは、その動きを助けるべく自分に注意が向くような言葉を考える。
「ふむ、では俺の身内が迷惑をかけた侘びとして、俺が魚料理を振舞ってやろう。
ちょうど、そこの友人にも美味いものを食わせてやる約束をしていたしな」
「ほほほ、スールマーズを身内と呼んだ上に、この私を友人といいますか。
……実に困ったお人です。 これではおちおち悪いこともできませんね」
実に愉快そうな声で、黒衣の怪人は腹を抱えて笑った。
その様子を、カンマカーンと仕立て屋が気味が悪そうに眺める。
こんな恐ろしい化け物を友とは呼ぶとは、およそ普通の人間の神経ではない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! なんでそうなるんだ!?」
その時、ふと仕立て屋が我に返って疑問を口にした。
どうにも筋の通らない、まるでボタンを掛け違えたような違和感を感じたからである。
いくらなんでも、いきなり魚料理をご馳走になる理由が無い。
むしろ、かなり強引に魚料理を食わせようとしていないか?
だが、その疑問を力技で押しつぶす者がいた。
「言っておくがこの獅子頭は、かの女王シェヘラザードですら賞賛するほどの料理人だぞ。
おそらくお前のその安いゴミのような一生の中でも一度だけの栄誉になるな」
カンマカーンが内心ニヤニヤしながらそんな言葉を仕立て屋に吹き込むと、ジンは下穿きのポケットから王家にしか許されない印章を取り出した。
「ほ、本物!?」
仕立て屋が思わず唾を飲み込む。
だが、本来ならば王族に準ずる地位のあるカンマカーンが何も言わないのだから、偽物のはずが無い。
そしてこれこそが、ジンが下穿きを賭け事の質にできなかった理由の一つであった。
この場に胡蝶がいたならば、恥も外聞もなく悲鳴を上げたに違いないだろう。
王家ゆかりの人間を嵌めたなど、家族どころか親戚にまで罪が及ぶ話なのだから。
「さて、ではこの俺が最高の魚料理をご馳走してやろう。
お前が捨てたという魚は、この魚より大きな姿をしていたかな?」
その台詞が終わるや否や、ジンの腕の中に大人がようやく抱えられるほどの大きさの魚が現れる。
しかも、その頭には奇妙なこぶがあり、目には黒く筋が入っていた。
実に奇妙な、まさに黒衣の怪人に振舞うにふさわしい異形の巨大魚である。
「な、なんじゃこりゃぁ!」
「ひぃぃぃジンさん最高ですよぉぉぉぉ! あぁん、刺激的! その不思議な魚はどんな味をしているのですかァァ!? さぁ、さぁさぁ、今すぐその腹を掻っ捌いて中を見せてくださいな!!」
仕立て屋が思わず声をあげ、カンマカーンですら目を丸く見開いた。
ただ一人、黒衣の怪人だけが興奮の絶頂のように奇声を上げている。
もはや仕立て屋が抱いた疑念など、遠いそらに消し飛ばされていた。
その様子を、我が意を得たりとばかりに頷くと、ジンはその怪魚の名を告げる。
「これぞ、怪魚……蘇眉魚。
南の海に生きる最高に美味い魚の一つだ」
女王が認めるような料理人が最高とまで断言する魚の味とは、いかなるものか?
誇らしげに告げるジンの言葉に、誰もが思わず唾を飲み込むのであった。
【千夜一夜の物語と魚】
こんな話を書いておいて何ですが、実はペルシャ人は魚介類をあまり食べないそうです。
年明けのお節料理のような感じで食べる風習は残っているようですが、ほとんど羊肉ばかり食べているのだとか。
特に海の魚が苦手で、今でも海に面した地域以外ではほとんど口にしないもののようです。
ペルシャ人の末裔の住むイランを訪れた日本人が苦労する話の一つとしてよくあるのがこの食生活の違いであり、手に入るのはカスピ海などで取れる魚……主にマスや鮭といった淡水の魚にほぼ限定されます。
他にもいろいろと制限があり、イカやタコなどもってのほか。
ナマズなどのうろこの無い魚も食べてはいけないことになっています。
このあたりはユダヤ人と同じであり、イスラムの聖典でもある旧約聖書の影響でしょう。
例外は、チョウザメです。
隣り合うカスピ海周辺の国々に影響されたのか、なぜかこの魚はペルシャ人も大好物。
むろんキャビアも大好きです。
法に厳しいイスラム教の世界ですが、時代によってはけっこう緩い時期もあり、そのときの名残のようなものでしょう。
ちなみにチョウザメのうろこについては、わりと最近になってその存在が確認されたそうです。
なお、ウナギに関してもほとんど視認できませんがうろこが存在するそうなので、日本に来たイラン人にウナギを勧めてもまったく問題はありません。
まぁ、最近は食べたくても高すぎて手が出ませんが。
ちなみに中東でも西のほう、特にエジプトでは日本とは違う種類の美味しいウナギが獲れるそうです。
あとは、エビはよいが、蟹は食べないのだとか。
これについては単純に食べる習慣が無いらしく、日本人からするともったいない気がしてしまいますね。
さらに貝も食べないので、売ってない……と聞きます。
中東の食生活は魚介類の好きな人にとってなかなか辛い物があるようですね。




