第九節 第二の門と無限の修養
ダン、と杖で床を打ち据える音が会場に響く。
「では、続いて第二の門について申し上げよう」
その言葉とともに、人々は聖者ムバラクのほうへとその顔をむける。
「第二の門は修養の門。
修養とは、己を鍛え徳性をみがき、人格を高めること。
その理解のために、私は一つの逸話を披露しよう」
そう告げると、聖者ムバラクは目を閉じて、噛んで含めるように一つの物語を語り始めた。
――それはとある国の賢き王が、夜に散歩に出た時の話。
暗い街の中をその王が彷徨っていると、街の中で小さな明かりが点っているではないか。
いかなる理由でこのような時間に街の中で火が点っているのか?
不思議に思って近づくと、一人の貧しい女性が燃え盛る薪に鍋をあてて、湯を沸かしている。
その隣には、腹をすかせて泣いている子供が二人。
はて、ご夫人や。 そこで何をしているのか?
王がそうたずねると、その貧しい夫人はこう答えた。
子供が飢えて苦しんでいるので、それを紛らわせるために白湯を飲ませようと思っている。
こうしていれば、いつかこの国の王が我々の窮状を必ず見つけてくれるから。
王は驚き、なおも女に問いかけた。
お前がこうして苦しんでいるのは、この窮状が王の目に映っていないということではないのか?
だが、女は迷いもなく首を横に振る。
そして王に告げた。
それは違う。 この窮状が見えないというのなら、なぜかの人は王であるのか?
神がかの人を王としたのだから、救いは必ずやってくる。
その言葉に、王は身を引き裂かれるような衝撃を受けた。
そして王はすぐさま城に帰ると、小麦粉の袋と羊の脂を取り出し、大臣に向かってこの荷物を自分の背にくくりつけよと命じたのである。
それをみた大臣は、自分の背に括り付けて欲しいと願い出るが、王はただ首を横に振る。
そして告げた。
いつか神が約束した日がやってきたとき、お前が私の罪を背負ってくれるのか?
自らに修養を積みたいというのならば、自らが荷物を背負わなくてはならないということを、この王はご存知だったのである。
そして王は自らの足で貧しい母子のところに急ぎ駆けつけると、自らの手で料理を作り、喜びながら振舞った。
かの王がより賢く、その徳がより高くなった事はいうまでも無い。
「ゆえに神の子らよ、世の中の闇に目を凝らし、救いを求める篝火を見逃すな。
お前たちの魂の修養と、弱きを助けようとする優しき手を、神は全ての民の人生の道に修養の門を設え、その中を通ることを心から待ち望んでいる。
それゆえにこの門は低い平地にあり、全ての門の中でもっとも広く大きいと知れ」
その言葉と同時に、ジンは次の品を弟子である双子や、元は鬼神であった侍女の手を借りて運び込む。
だが、その用意されたものをみて、客たちは思わず首をかしげた。
ジンの用意したものが、何の飾り気も無い白いプリンだったからである。
「さて、先ほどから首をかしげていらっしゃる方もおられますが、次の菓子を紹介しましょう。
この菓子の名は、貧者のプリン。
なぜそのような名を持つ貧相なものをこの場に持ち込んだのかとお思いになるかもしれませんが、実はまだこの菓子は完成していないのです。
この菓子の完成には、このプリンの上に有り余るほどのナッツや干した果物が必要でございます故。
では、なにゆえ不完全な状態で出してきたのか?
それは、この菓子の由来と、第二の門を表せという今回の趣向ゆえだとご理解願いたい」
そう説明すると、ジンは侍従の者から巨大な鉢を受け取った。
まるで旅の聖者がその糧となる食料を民に請うために使うような粗末な器であり、同時にそれを持つジンの体に合わせたかのようにとても大きな鉢である。
「さて、なぜこの菓子に貧者のプリンなどと名前がついているのか?
それは昔、貧しい人が自分の茶碗を手に、何か食べ物を恵んでくださいと近所の家々を訪ねた結果、少しずつ、しかし多くの人々が食べ物を与えたことで、その茶碗がいっぱいになったという話に由来していると言われています。
さぁ、皆様のお手元には干した果物、珍しい木の実、甘い菓子などが山とございますね?
どうぞあなたの手に持っているものの中からみなの喜びのために喜捨をくださいませ。
その喜捨によって、並み居る皆様方の修養をもって、この菓子を完成させる事としましょう。
なお、料理に使いきれなかったものは、聖者ムバラク氏を通じて神の祈祷所の運営と貧しき民の救済のために使わせていただきたく存じます」
そう告げると、ジンは先ほどとは逆で、真っ先に女王シェヘラザードの前へと喜捨をいれる鉢を持ってきた。
すると女王は目を綻ばせながらこう問いかけたのである。
「ジンよ、喜捨とするのは食えるもの以外でもかまわないのか?」
「ご随意に。 神はその人が何を成したかよりも先に、まずその行いの意図をごらんになります」
「では、神よご覧あれ。 これぞ我が修養である」
そう告げると、シェヘラザードはまず自らの首にかけていた首飾りを喜捨の鉢の中に投げ入れた。
代々受け継がれた国宝などではないものの、功績を立てた貴人に対する褒美として使われるような大粒のエメラルドがいくつも取り付けられた逸品である。
その豪華で美しい形に、居合わせたもの性質からもため息がもれた。
たが彼女の行動はそこで終わらない。
女王シェヘラザードは、サルタン王国からもらった赤い琥珀に手を伸ばすと、それらを全て持ち上げた。
これにギョッとしたのが、隣にいたアレーゾ夫人である。
「な、何をなさいますか、陛下! その赤い琥珀のうちの一つは妾に下さると申されたはず!」
「先ほど、そなたはどれを選んでよいかわからぬと申しておったのではないか。
ならば琥珀よりも価値のある物を、すなわち修養の徳をくれてやろうと考えたまでよ。
なに、礼の言葉など不要だ。 神もそなたが徳を積んだことに気分をよくされているであろう」
そう告げながら、シェヘラザードはザラザラと音を立てて全ての琥珀を喜捨の鉢に投げ入れた。
「……喜ぶがいい」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
アレーゾ夫人がこの世の終わりのような悲鳴をあげ、あまりにも大胆すぎる行動に参列者たちも口をポカンとあけたまま言葉も無かった。
あの琥珀一つで、どれだけの価値があるかを知っているがゆえに。
「あぁぁ、そんな……そんな……」
いまさらそれは自分のものだから返せということも出来ず、アレーゾ夫人は口から泡を吹きそうな顔で震えている。
そして別の者の前へと運ばれて行く喜捨の鉢に入った赤い琥珀を、彼女は未練がましく見ていることしか出来なかった。
この光景を見ていた近習ミールザは、この時の思いを自らの日記にこう記している。
もしもこの恐ろしい女王と、この恐ろしい獅子男が王となる子を成したなら、どんな恐ろしい子が育つのだろうかと不安でならない。
少なくとも、我が安寧のためにその子が王となるよりも早く近習を辞めて田舎に隠棲したほうが良いだろう……と。
ただ、そんな彼の望みがかなえられなかった事はいうまでも無い。
「ジンよ、この喜捨でどれだけの貧しき者が救えるだろうか?」
喜捨の鉢が次の者へと運ばれる光景を見ながら、女王シェヘラザードは楽しげにそんな質問をジンに投げた。
するとジンは目を伏せたまま、まるで修行者のように威厳ある声でこんな答えを返す。
「それを知るのは神のみでございます。
なぜならば、女王が示した手本を見て、多くの者がこれに習うでしょうから。
されど、施しを受けた者がその感謝ゆえにまた別の人に施す……そのような良き人の心の連なりを考えるならば神の御世が続く限りその修養の徳は増え続け、すなわち無限と申し上げましょう」
その言葉に、ハッとして何人もの貴族がその指から宝石のついた指輪を抜き取った。
そして歴史を綴る詩人たちが、目を光らせつつペンを走らせる。
誰がどれだけの喜捨をしたか、それを世に知らしめるためだ。
「そうか、無限の修養か! それは良い! 実に良いぞ!!
ではジンよ、我の修養の行方はそなたに任せた。 善きにはからえ!」
「……かしこまりましてございます」
そして最後の参加者から喜捨の鉢を受け取ると、そこには木の実や干した果物よりもはるかに指輪や首飾りのほうが多く入っていた。
むしろ菓子の材料にするものが足りなくなるのではないかと思うような有様である。
「なんとすばらしい修養の心、どうぞ神も御照覧あれ!!」
そして聖者ムバラクの祝福の声が響く中、ようやく貧者のプリンが完成する。
「どうぞ、召し上がられよ」
彼らの前に出てきたのは、先ほどの寒々とした姿とはうってかわって、宝箱のような代物に変化していた。
真っ赤な桜桃、深みのある棗椰子、象牙色をした巴旦杏、鮮やかな緑の阿月渾子、最初のガレット・デ・ロワとうって変わってこちらはなんとも色鮮やかである。
「なんとも美しい……まさに善意と修養を菓子の形にしたならば、このような姿になるだろう」
居合わせた詩人の言葉に、異論を唱える者は誰もいない。
かくして、未だに放心しているアレーゾ夫人以外の誰もが満足する中で、第二の門の説話が終了したのである。
本日、23時にもう一度更新します。