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千夜の晩餐  作者: 卯堂 成隆
第六夜 聖なる三つの門の話
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第一節 僭王の息子

 この国の宗教において、一番神聖な建物といえば礼拝堂である。

 そして次が学校であり、この国の宗教がいかに教育熱心であるかをうかがわせる話だとジンは思った。


 さて、では三番目に神聖な場所がどこかと聞かれたら、それは浴場だといわれている。

 なぜならこの国の宗教は非常に清潔好きで、体に汚れがついている状態では礼拝堂に入る事はおろか、神に祈りを捧げることですら許されないからだ。


 そんなわけで、その日の仕事が終わると誰もがこぞって公衆浴場に向かうのが習わしだった。

 とくに女たちにとっては人目を気にせず素肌をさらし、おしゃべりに興じるという大切な時間である。

 中はいわゆるサウナ風呂のような感じであり、入り口では剃毛や垢すりのサービスが受けられるが、ジンは未だにそれらのサービスを利用した事はなかった。


 当然ながら浴室は男女別であり、とくに女性の風呂の入り口は男の視線から隠すために少々わかりにくい場所に作られるのが慣わしである。

 この国は、女性に対して非常に貞淑であることを求めるのだ。


 なお、ジンがここを訪れるのはその生活サイクル上、どうしても決まって夜の仕事の前になる。

 そんなわけで、非番であったミールザを誘い、弟子であるラーメン屋の双子……兄のベフザードと弟のベフナームを連れて、仕事前の楽しみとばかりになじみの公衆浴場を訪れていた。


「なんというかさ、旦那ってば恐ろしい体してるなぁ。 ほんと、人間かよ?」

 浴場に入ってきたジンの上半身を見て、ミールザは嫉妬しているともうんざりしているともとれるような声を上げる。

 近習にして武官であるミールザもかなり鍛えてはいるのだが、ジンと並ぶとどうしても細身に見えてしまうのが悔しいのだ。


「まぁ、鍛えているからな」

 そう言いながらジンはラーメン屋の双子の隣に腰をおろし、腰布に隠れた丸太のような太股を平手でベチンと叩く。

 日本人の感覚からすると風呂には裸で入りたいところだが、この国の宗教はたとえ同性同士であっても臍から膝までを相手に見せない風習があるのでこればっかりは仕方がない。

 ジンは常々この国の風呂事情には不満を持っていた。


「師匠、何やったらそんな体になるんです?」

「俺たちも鍛えたらそんな体になれるんですか?」

 ベフザードとベフナームが、うらやましそうと言うより恨みがましげな目をジンの胸板に視線を注ぐ。

 この二人も体自慢で腕力自慢だけに、自分より逞しい相手が隣にいると、自分が貧相に見えて面白くないのだ。


「まぁ、そのあたりは神の思し召しかもな」

 こんな体になるまでの地獄のような日々を思い出して、ジンはのどの奥で苦笑をかみ殺す。

 これでも日本にいた頃はそれなりに苦労してきたのだ。


 その時だった。

「おい、お前が獅子の精霊(アサド・ジン)と名乗る男か」

 ジンの目の前に、屈強な体を持つ青年が仁王立ちになった。

 おそらく180センチを超える長身にはみっしりと鋼のような筋肉が絡みつき、ジンをそのまま少しだけ小さくすればこんな感じになるだろう体つきである。


「お、お前! カンマカーン!?」

「様をつけるがいい、不敬者め」

 驚くミールザに、カンマカーンと呼ばれた青年は蔑むような視線を向ける。

 彼こそは先の僭王ダウルマカーンの子であり、シェヘラザードの出した難題の最初の犠牲者であった。


「死罪を免除するかわりに追放になったんじゃないのかよ!!」

「ふん……そんな取り決めなどに構ってられるか!! 俺にはシェヘラザードとこの国を手に入れるという使命があるのだ!!」

「盛大にフラれた癖に」

 その瞬間、軽口を叩いたミールザに、人が殺せそうな視線が突き刺さる。

 そう。 この男、政略的な意味のみならず、本気でシェヘラザードを求めていたのだ。


 ミールザが思わずのけぞると、カンマカーンは続いてその剣呑な視線をジンに向ける。

「聞けば、その獅子の精霊(アサド・ジン)と言う男がシェヘラザードに手を出したそうだな」

「いや、まだ手は出してないのだが」

 シェヘラザードに拒む気が無いのは、さすがに朴念仁のジンもそろそろ理解している。

 だが、もれなく王族としての義務だの政治的な立場だのがついてくることも理解しているので、ジンは彼女との結婚に強い抵抗を覚えていた。


 しかし、その面倒臭そうな答えが癇に障ったのだろう。

 カンマカーンの目が怒りに染まる。

 そしてその剣呑な様子を感じ取り、周囲の客は我先にと逃げていった。


「黙れ! シェヘラザードを手に入れるのはこの俺だ!

 不遜な行いをする貴様には、俺自らが天誅を与えてくれる!!」

 その瞬間、カンマカーンは拳を固め、黒豹を思わせるしなやかさと速さでジンに襲いかかる。


「ジンさん、危ない!!」

 ジンの危機を見て取り、ラーメン屋の兄弟うち兄のベフザードがとっさにカンマカーンの前に立ちはだかった。

「どけ! 雑魚が!!」

「ぐはぁ!?」

 だが、繰り出されたカンマカーンの右の一撃が頬に突き刺さり、ベフザードの体がジンにもたれかかるような形で仰向けにひっくり返る。


「あ、兄貴!?」

「お、おい大丈夫か!」

 そしてジンが倒れたベフザード支えようとしたその瞬間……


「もらったぁぁっ!」

 隙だらけのジンのわき腹……肝臓の真上に、カンマカーンの左の拳が突き刺さった。

「……ゴフッ」

 バキリと何かが折れる音と共に、ジンの膝が崩れ落ちる。

 

「くたばるがいい!!」 

 そのままカンマカーンは体を回転させるように右の拳を繰り出す。

 その凶悪な一撃は、あやまたずジンの顔にめり込んだ。


「……ぐほっ!?」

 ジンの巨体がボーリングのピンのようになぎ倒され、床に沈む。

 そしてそのまま仰向けに倒れ、ピクリとも動かない。

 だが、カンマカーンはその動けないジンに向かってさらに拳を叩きつけようとした。


「じ、ジンさん! 起きて!!」

「や、やめろ!!」

 悲鳴を上げ、ベフナームとミールザがカンマカーンの背中に飛びつく。

 せめてジンが逃げる時間を稼がなくては!

 そう思っての行動だったが、なぜかカンマカーンはそのままピタリと動きを止めた。


 そして二人は、ふと違和感に気づく。

 カンマカーンの体が小刻みに震えているのだ。


「礼を言う……危ういところであった」

「え?」

 思わぬ台詞に、二人は思わず顔を見合わせる。

 そんな二人に、カンマカーンは黙って左手を見せた。


「うげぇ……こりゃひでぇ」

「なんじゃこりゃ!?」

 見れば、その左手は小指の間接が外れてあらぬ方向にへし折れている。

 人の体とは不可思議なもので、たったそれだけのことで拳を満足に握れなくなってしまうのだ。


「あの一瞬で痛みすら無くやられた。

 顔に叩き込んだ右の拳も、おそらく後ろに飛んで威力を消されている。

 妙に感触が軽かったからな」

 カンマカーンが全身に冷や汗をかきながらそう呟くと、それを待っていたかのように低い笑い声が響き渡る。


「なんだ、気づかれちまったか。

 調子に乗って殴りかかってきたらそのまま人生の厳しさを教えてやるつもりだったんだがなぁ」

 その台詞と共に、ジンがむっくりと起き上がる。


「坊主、お前強いなぁ。

 たぶん、ボクシングならおじさんより強いぞ」

 ジンの顔には笑顔が浮かんでいた。

 ――殺される。

 だが、その顔を見た瞬間、ミールザとベフナームは即座に逃げ出そうとし、同時に腰を抜かしてその場にへたり込んだ。


「前を隠せデカブツ。 腰布が落ちているぞ。

 それとも、その無駄にでかいものを自慢したいのか」

「でかい? まぁ、普通だろ。 お前のと違って恐怖に縮こまってないからな」

「ぬかせ! 誰が貴様などにおびえるか!!」

 だが、それは完全に強がりだった。

 腰布に隠されたカンマカーンの睾丸は、先ほどから恐怖に縮こまって痛みすら感じている。


「震えてないでかかってこい。

 逃げるなよ? 逃がさないけどな。

 さぁ、おじさんと遊ぼうぜ」

 その言葉と共にジンが低い姿勢で襲い掛かり、カンマカーンがカウンターで右の拳を叩き込もうとする。

 だが、ジンはさらに腰を落としてそれを交わすと、そのまま物騒な笑みを浮かべたままカンマカーンの腰に絡みつき、そのまま太股を抱え上げるようにして仰向けにひっくりかえした。

 柔道では邪道とされ、国際ルールでは禁止に至った朽木倒しと呼ばれる技である。


「かはぁっ!?」

 そのまま受身も取れず、カンマカーンは背中と頭を打ち付けて肺の空気を残らず吐き出した。

 だが、戦士の本能のなせる業か、とっさに両腕を顔の前に構えてジンの追撃に備える。


「ははは、ダメだなぁ。 足元がお留守だぞ?」

 しかしジンはそんなカンマカーンを臆病と(そし)るかのように笑い飛ばすと、そのまま彼の足を自らの足と絡めながら仰向けにひっくり返った。

 その瞬間……


「うぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? あがっ、あががががががっ!!」

 カンマカーンの口から魂が抜け出しそうなほどの悲鳴がほとばしる。

 アキレス腱固め……シンプルな技ではあるが非常に高度な技術を必要とする技であり、しっかり決まれば一秒で決着がつく。


「どうしようかなぁ? このまま二度と歩けない体にしてしまおうかなぁ?」

「やめろ貴様俺をぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「はっはっは、悪い悪い、ほんの冗談だから許せよ。 な?

 悲鳴を上げるカンマカーンに満足すると、ジンはわざと腕を緩めて彼を逃がした。


「はっはははは! 楽しいなぁ! お前も楽しんでいるか?

 どうした、少しは反撃しろよ。 それじゃつまらないだろ? 逃げることないじゃないか」

 ジンは涙とよだれを撒き散らしながら距離をとろうとするカンマカーンに追いすがり、今度は別の関節技を仕掛けて行く。

 完全に心を折りにゆく方法であり、普段の陽気なジンからすると別人のような陰湿さだ。


 いや、本人に陰湿なことをしているという自覚は無いのだろう。

 これは彼の身に着けた技の性質であり、ジンとしては純粋に喧嘩を楽しんでいるだけなのだ。


「うわぁ、えぐい絵だな」

 まるで獲物を飲み込む蛇のようなえげつない動きに、ようやく意識を取り戻したベフザードがげっそりした顔でため息を漏らす。


 すでに腰を覆う布などどこかに吹っ飛んでゆき、古代オリンピックのレスリングの試合よろしく全裸の男二人が絡み合っている有様だ。

 しかも一人は楽しそうに地獄の責め苦を繰り出し続け、もう一人は目から口から股からいろんなものを垂れ流し、非常に見苦しい状態である。

 ――これが地獄絵図か。

 その場に居合わせることになった三人の心には、奇しくも同じ台詞が流れていた。


「おーい、起きてくれよ。 まだおやすみの時間には早いぞー おじさんはまだ遊び足りないんだよ」

 やがてカンマカーンが白目を剥くと、ジンはその頭を掴んで持ち上げ、冷水の中に突っ込んで強引に意識を浮上させる。

 その楽しげな様子がかえって恐ろしい。

 そしてジンの楽しいお遊戯は、かけつけた警察の役人が頭を下げて嘆願するまで続いたという。


「おい、コイツはダメだ! 担架を持ってきてくれ!」

 ようやく警察によって身柄を確保されたカンマカーンは、もはや自分の力で歩くことも出来なくなっていた。

 その恐ろしい惨状に警官は震え上がり、即座に担架を手配する。


「なぁ、お前カンマカーンとかいったっけ?」

 そしてこの惨状の張本人であるジンはというと、おもむろにカンマカーンを見下ろして、いまさらながらにそんな事を問いかけた。


「き、気安く呼ぶな……下賎の者め……」

「悪い悪い。 久しぶりにまともに喧嘩できる相手がいてさ、おじさんちょっと調子にのっちゃったよ。

 で、一つ気になったんだが、俺に勝ったところで何か意味があるのか?」

 その言葉に、カンマカーンの顔が苦痛に歪む。

 だが、ジンはさらに容赦なく言葉を重ねた。


「俺より喧嘩が強いだけでシェヘラザードが振り向くはず無いだろ?」

「そ、そんなはず……ない。

 シェヘラザード……だって強い……男……が……好きな……はず……だ。

 俺が……貴様より……強く……」

 そこにはすでに強者の驕りも貴族の傲慢さも無く、ただ恋の幻想にすがりつく哀れな敗者の姿があった。

 だが、ジンはそんなカンマカーンにトドメとなる台詞を叩きつける。


「そりゃお前の願望だよ。

 あの贅沢な女が、喧嘩に強いだけの男程度に満足出来るはずないだろ」

 カンマカーンの顔が再び苦痛にゆがみ、その奥歯からギリッと何かがこすれる音が響いた。

 

「貴様……俺が王になったら、将軍としてこき使ってやろう。 ……光栄に思え」

 しかし、その口から出てきた言葉はある意味ジンを賛美するかのような台詞だった。


 ――この期においてそんな台詞が言えるとは、たいした奴だな。

 そう、このいかにも傲慢な貴族と言った性格の青年を、ジンは意外と気に入っていたのである。

 もっとも、この男に嫌いな人間がいるかどうかは定かではなかったが。


「馬鹿だな。 お前がこの国の王になる未来なんて来ねぇよ。

 少なくとも今のお前ではな」

 わざと挑発するように、ジンは否定的な言葉をカンマカーンにぶつける。

 だが、カンマカーンはその目にギラギラした光を灯すと、ジンの目をまっすぐに睨み返した。

 しかし、その息はどんどん荒くなり、やがて意識が遠のいて行くのが見て取れる。


「そのうち……わかるさ……。

 俺は……喧嘩だけの男じゃない……近い未来に……シェヘラザードのほうから頭を下げに来る」

 それだけを言い残すと、カンマカーンはニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、再び意識を失って白目をむいた。


 その捨て台詞の意味をジンが知るのは、そう遠くない未来のことである。

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