第六節 朝の光が夜の闇を払うように
その日、大勢の人で賑わうテヘルの街は、突如としてこの世のものとも思えない恐怖に見舞われたのである。
そしてその恐怖は、空からやってきた。
ふいに空が翳り、何事かと街を歩いていた一人の旅人が空を見上げる。
そして叫んだ。
「な、なんだありゃ!? 鳥か!?」
そこには、金属で出来た巨大な鳥のようなものが飛んでいた。
だが、明らかに鳥ではない。
伝説にある巨鳥を思わせる姿ではあるが、それはまぎれもなく人の手によって作り出されたカラクリであった。
恐怖の悲鳴を上げつつ人々が逃げ惑う中、その鳥のような代物からとてつもなく大きな声が鳴り響く。
「ほーっほほほほほ! 聞こえますか、テヘルの街に住む愚民の皆さん。
私の名はアイディン。 貴方たちが黒衣の怪人と呼ぶものです」
その声が聞こえてきた瞬間、ジンは表に飛び出した。
――あの野郎、派手にやりやがって。
その場に居合わせたものはそんな言葉を聞いた気がしたが、彼らは目の前の巨鳥に気をとられてそれどころではなかった。
飛び出してきた子供を恐怖で暴走する馬から救い、胸を抱えて倒れた老人を近くの若者に無理やり押し付け、突進してきたふくよかなオバサンの唇をその分厚い胸で受け止めながら彼はひたすら走り続ける。
「先日から、貴方たちは実に不愉快な噂をしているようですね。
この私が毒のある飲み物を町中に配っているという、実に不愉快な話です!
貴方たちを害するのに私がそんな手を使わなくてはならないと?
その間違い、今すぐ正してさしあげます!!」
――お前たちを消すのにそんなまどろっこしい手段など必要ない。
その言葉を形にしたように、巨大な鳥のカラクリから真っ赤な炎の塊がが降ってきた。
その地獄の蓋が開いたかのような光景に、街の人間達の悲鳴が響き渡る。
「おのれこの怪人め! 我らがいる限り、この街に手出しはさせぬ!!」
だが街に落ちる寸前、その叫びと共に火の玉はかき消された。
その声の主は、修行者と呼ばれる者たち。
彼らは神に近づき、神の正義と奇跡を具現することを目指す者たちだ。
その奇跡の力が、恐ろしい炎の礫を防いだのである。
「この私に抗いますか、修行者共。 ですが、いつまで耐えられますかな?」
その言葉と共に、炎の塊がいくつも彗星のように尾を引いて打ち出された。
だが、地上の者たちも黙ってこれを見ていたわけではない。
火を撃ち出す者、精霊を放ってけしかける者と、様々な攻撃が頭上の鳥めがけて打ち出される。
思いもよらない突然の戦争に、民衆は驚き、ただ逃げ惑うことしか出来なかった。
そしてそんな中に、一人の魔術師がいた。
彼はその辺にある樽や箱を飛ばして頭上の巨鳥を攻撃していたのだが、なにぶん急なことで弾数が少なく、ついに投げる物がなくなってしまったのである。
それで周囲に何か投げつける物がないかとキョロキョロと周囲を見回していた、その時であった。
「おい、そこの魔術師」
「なんだよ、俺は忙しいん……うわぁっ!?」
そこには二本足で歩いている獅子、もとい獅子にそっくりな男が彼の肩に手を置いていた。
「お、驚かせないでくれ。 何の用だ」
すると、その獅子のような男はとんでもないことを言い出したのである。
「俺をあの鳥の上に打ち上げてくれ」
「ダメだ、そんな事をしたら死んでしまうぞ!」
即答だった。
そもそも鳥の上に届かせることが出来るとは限らないし、出来たところで今度は降りてくることが出来なくなってしまうだろう。
ゆえに魔術師は男の申し出を断ったのである。
だが、男はニヤリと牙を剥き出しにするかのような笑みを浮かべた。
「死なねえよ。 神のご加護があるからな」
「なにをむちゃくちゃな! 神がいちいちお前を助けるかよ! 命を無駄にするんじゃ……」
その時だった。
ついに修行者たちの守りを突き抜けて飛んできた火球が、近くの建物を破壊する。
そしてその瓦礫が男と魔術師の上に降り注いできたのだ。
「ひぃぃぃぃ!!」
思わず頭を抱えて立ちすくむ魔術師を、その獅子のような男ががっしりと抱きしめる。
「信じろ!」
その力強い言葉と同時に、気絶しそうなほど大きな音と地響きが魔術師を襲った。
――あぁ、もう死ぬんだ。
そう思った魔術師だが、なぜかいつまでたっても痛みはやってこない。
「な? 神の加護はここにある。
そりゃ神も助けるさ……こんな時こそ、奇跡が必要だろう?」
魔術師が目を開けると、建物の瓦礫は綺麗に男と魔術師の上を避けて落ちていた。
それはまさに神の奇跡である。
実は一瞬だけ神から与えられた厨房に避難した結果なのだが、そんな事を魔術師の男が知るはずも無い。
それに、ジンの厨房自体が神の奇跡なのだから、彼の言う言葉も嘘では無いのだ。
そして奇跡を目の当たりにして戦慄く魔術師に、男は力強い声で告げる。
「俺を信じなくてもいい、神を信じろ」
「そこまでいうなら、勝手にするがいい!」
だが、心のどこかでこの男の言うことを信じてしまったのだろう。
魔術師は自棄を起こしたように叫んだ後、呪文を唱えて男の体に触れる。
その瞬間、獅子に似た男……ジンの体はものすごい勢いで天に打ち上げられた。
***
「あー くそっ、ほんとなんで俺がこんな事しなきゃならないんだよ。
俺はただの料理人だぜ」
おそらく100人いたら99人は否定しそうな言葉を吐きながら、ジンはカラクリの巨鳥……いや、この世界の技術で作られた飛行船の上に降り立って愚痴をこぼす。
もしもこの光景をアイディンが見ていたら、それはあんまりでしょうと憤慨することだろう。
この男、飛行船より高い場所まで打ち上げられた瞬間にいつもの厨房の中に入り、そして出口をこの飛行船の上に設定して出てきたのである。
まさに神の奇跡の大盤振る舞いだ。
「しっかし、妙なもの作りやがったなぁ」
ジンは周囲を見回し、誰ともなしに呟く。
そこは船のデッキにも似たつくりになっており、さえぎる壁も無いのに微風すら吹いていなかった。
この飛行船が地球の技術とはまったく別の理と技術によって作られている事をひしひしと感じる光景である。
「おや、どなたかと思えばジンさんじゃないですか」
ガチャリとドアの開く音と共に現れたのは、もはや見慣れた黒衣の怪人だった。
「よぉ、たまにはこっちからお邪魔しにきたぜ」
「止めに来たと言うのなら見逃してくれませんかねぇ?
ほかの有象無象ならともかく、貴方と喧嘩をするのはとても面倒です」
その言葉と共に、アイディンの後ろから機械仕掛けの少女と、同じく機械仕掛けの兵士たちが出てきてゾロリと顔を並べる。
「ふざけるな! ……といいたいところだが、止めに来たわけじゃないんだなこれが」
「ほほう? では、何のために?」
「なぁに、喧嘩なれしていないお前さんに、喧嘩のやり方を教えにきたのさ」
「それは興味深い。 ぜひご教授願えますかな?」
そう告げると、アイディンは腕を広げて船の中へとジンを招き入れた。
そこは広い部屋になっていて、どうやらコントロールルームのようである。
目の前には大きなスクリーンがあり、猛火の雨をうけるテヘルの街並みが映りこんでいた。
その地獄絵図に、ジンはわずから眉をひそめる。
「なぁに、喧嘩をするなら回りの人間にまで殴りかかるなってことさ」
そして肩をすくめながらそう告げると、ジンはモニターの一角をその太い指で指し示した。
「ほれ、あそこに青い屋根が見えるだろう?
お隣のサルタン王国からきたお客さんがせっせと鉛糖を作っている工房だ。
だが、ちょいとこっちの錬金術師の頭が悪いせいで手が出せなくてね。
なぁ、知り合いのよしみでちょいと利用されてくれないか?」
国として手を出せない相手ではあるが、この黒衣の怪人が手を下すならいくらでも言い訳が効く。
それに、ジンとしてもこの怪人を怒らせた罰はきっちり受けるべきだと思っていたのだ。
「ふっ、ふふふ、ふははははは!」
その瞬間、アイディンが爆笑する。
ただし、魔の王があざ笑うような、身の毛のよだつような笑い声だ。
「ほぅ? ほほう? そう言うことですか。 ほかならぬジンさんの頼みなら仕方がありませんねェ。
それにしても、ずいぶんとくだらないことの為にこの私の貴重な研究時間を削ってくれたものです」
ジンの一言で、アイディンは全てを理解したらしく、笑っているような声とは裏腹に長いローブを纏う肩は小刻みに震えていた。
「クズ共が……誰の許しを得て息をしている?
万死に値しますよ」
その言葉と共に、太陽の光が暗く翳る。
次の瞬間、テヘルの街の一角にあった建物が夜明けのごとき光と共に爆発し、この国にはびこる夜のごとき闇と毒蜘蛛の巣は一瞬で焼き払われたのであった。
その光景は、まるで神の裁きが落ちたかのようであったという。