第四節 毒蜘蛛の甘い接吻
――神よ哀れみたまえ。 それはまさに忍び寄る毒のようであるがゆえに。
全てが終わった後に、関係者は語る。
その事件は、窓に巣を張る蜘蛛のように音もなく忍び寄り、街の住人を一人ずつその毒牙にかけていったのだと。
「おい、様子はどうなんだ?」
「あまり良くないですね」
孤児院にたどり着いたジンが尋ねると、知り合いの愛らしい顔をした女性が表情を曇らせながら首を横に振る。
彼女の視線の先には、三人の子供が苦しげに寝台で臥せっていた。
「ひどいもんだな」
「今のところ動けないほど酷い症状を訴えているのは三人だけですが、ほとんどの子供が何らかの症状を訴えていますね。
貧血、腹痛、関節痛、吐き気、頭痛、そして全身がだるくて力が入らないようです」
そしてこの病、悩まされているのはこの孤児院だけではなかった。
ほんの一週間ほどの間だろうか、貧民街を中心として大人も子供も似たような症状に悩まされているのである。
貧民外に入って飲み食いした人間の中にも症状を訴える物がおり、これが原因で貧民外への嫌悪を強くする市民も最近では珍しくはない。
おまけに薬を与えてもまったく改善しないため、やれ祟りだの、やれ神の罰だの、怪しげな巫者が騒ぎ立てる始末である。
そんな状況に、ジンが眉間に皺を寄せて考え込んでいたときだった。
「おじちゃん、これあげる」
ふと、甲高い声と共に陶器の瓶が目の前に差し出される。
見れば、孤児院の子供の一人が笑顔でソレを差し出していた。
「おじちゃんか……ありがとう。 これは何の瓶だい?」
「最近売ってる甘い飲み物なの。 本当はあの子たちにあげるはずだったけど、病気で寝ているからダメだって。
変なの。 これ、みんなの大好物だから、飲めばきっと元気になるのに」
憤懣やるかたないといわんばかりの表情に、思わずジンも苦笑をもらす。
すると、横から孤児院の職員が、おや……と声を漏らして子供の手にした物に目を向ける。
「それ、最近街でよく見かける飲み物ですよ。 葡萄に甘い砂糖を加えたものですけど、とても安いのでみんなよく飲んでますね」
「そっか。 じゃあ、ありがたくいただくよ」
そう言いながら瓶を受け取った瞬間だった。
ゾクリ……その瓶に触れた瞬間、悪寒がして思わず取り落とす。
床に落ちた瓶はグシャリと砕けて地面に赤い血のような色を撒き散らした。
「おじちゃん、ダメじゃない。 ちゃんと持って!」
「あぁ、ごめん」
慌てて謝りながら、ジンはその床に散らばった赤いモノをただじっと見つめていた。
まるでそこから黒い蜘蛛が這い出るのを待っているかのように。
***
「なぁ、それって例の怪人の仕業じゃねぇの?」
天球図の中にある店でカウンターの客と流行り病について話していると、顔なじみである女王の近習がそんな事を言い出した。
「うーん、なんか違うと思うんだ、ミールザ。
微妙にソレっぽくないというか、確かにあいつは善悪の観念なんて持ち合わせてないけど、自分の理念に合わないことはたぶんしない」
あんな姿と言動ではあるが、それでも愉快犯では無いのだ。
むしろ無駄と言うものをとことん嫌いそうなタイプである。
「そうですよ。 なんでもかんでも私のせいにしないでください」
「うわぁ、出たな怪人!!」
突然響いた声に、思わずミールザが飛び上がる。
「よぉ、おでましだなアイディン。 この食い逃げ野郎」
いつの間にかミールザの隣には黒衣の怪人が座っていた。
その怪しさを凝り固めて人型にしたような存在へ、ジンは歯をむき出しにした物騒な笑みを向ける。
「その呼び名はやめてくださいよ。
ちゃんと次の日に支払ったし、その件については謝ったでしョ?
あぁ、のどが渇いたので何か飲み物を」
「じゃあ、これでも飲んでろ」
そう言いながら、ジンは粗末な陶器の瓶を押し付けるようにして差し出す。
この店は器にもかなり気を使っているだけに、その安っぽさはなんとも場違いで逆に目を引いた。
「……これは?」
「最近街ではやっている飲み物だそうだ」
「ほうほう、流行モノとは意外ですね。
貴方はどちらかといえば流行りよりも味で選ぶと思ってましたが」
そう言って、黒衣の怪人ことアイディンが瓶の中身を飲み干そうとすると、ジンは手を伸ばしてその動きをさえぎる。
「ほい、そこまで。 ただの勘で確証はないんだが……それ、たぶんヤバい代物だぜ」
「な、なんてものを飲ませようとするのですか、アナタは!」
わずかにうろたえた怪人に、ジンはクククとのどの奥で気分よさげな笑みをこぼす。
そしてかわりに冷えた飲み物を差し出すと、ミールザと拳を突き合わせてささやかな勝利を祝った。
「いや、お前さんも自分の身の潔白を証明したかっただろ?」
「……ひどいお人ですね。 で、この私に何をお望みですか?」
仮面の奥から、恨みがましい視線が向けられる。
何もなしにジンがこのようなものを出してくるはずがないと知っているからだ。
「そこに何が入っているのかを知りたい。 出来るだろ? お前さんなら」
「当たり前ですよ。 この私を誰だと思っているのですかアナタは。
まぁ、わかっているからこそ、このようなことを頼むのでしょうけど」
そう言いながら黒衣の怪人は瓶を手に取り、その中身へと探るような視線を向ける。
いや、実際に余人には理解できない何かが見えているのだろう。
そしてしばらくしてから、アイディンは忌々しげにこう呟いた。
「……鉛糖ですね。 汚らわしい」