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千夜の晩餐  作者: 卯堂 成隆
第四夜 鬼神を殺す魔神の話
26/109

第五節 彼の人は鬼神を殺す落とし穴

 ミールザがジンへの面会を願い出ると、それはあっけないほど簡単にかなえられた。

 程なくして侍女が迎えにやってきて、緑の宮(カスル・アフダル)の応接室に通される。


「何、本物の鬼神(イフリート)だと?」

 聞こえてきたその声に、鬼神(イフリート)は全身の毛が逆立つような恐怖を覚えた。

 なんだこれは!?

 この声にこめられた凄まじい気の力、完全に人間じゃない!

 これは神のそばに侍ることを許された天使たちにも匹敵するぞ!!


 まずい。 急いで逃げなければ!

 だが、まったく体が動かない。

 どうやらあの凄まじい気に当てられてしまったようだ。


 そうこうしている間にも、ドカドカと重い音を立てて何か強大な力を持つ化け物が近づいてくる。

 まるで落雷か竜巻が自分のほうへと近寄ってくるような感覚に、鬼神(イフリート)はそのまま気絶してしまったほうが楽なのではないかと思いはじめた。


 そしてついにその部屋の扉が開く。

「お前が悪霊かぁぁぁぁぁっ!」

「ひぃぃぃぃぃ!? お、お許しください!!」

 迫力のある低い声が押し寄せるなり、鬼神(イフリート)は反射的に地面に這い蹲り、頭を床にこすり付けて許しを請うた。

 だが、予想した魂をも砕くような一喝はいつまでたっても襲い掛からず、あきれたような声が頭の上を流れてゆく。


「なんだお前。 悪霊の癖に人の顔見ていきなりおびえるなよ。 傷つくぞ」

「お、お許しを。 貴方のような方の怒気に触れたら身が粉々になって消滅してしまいます!」

 そばにいるといっそうよく分かるが、これはもはやこの世の人間じゃない。

 天使とも預言者とも違うが、聖人か何かに近い類だ。

 むろん、見るからに聖人でもないが。


「いや、そんな乱暴なことはしないって……」

「あ、貴方様は私がこの男に憑り付いたことについてお怒りなのでしょう?」

 ジンまるで子供をあやすように出来るだけ優しい声をかけてはみるものの、鬼神(イフリート)はおびえた子犬のような目で彼の顔を見上げ、泣き言のような台詞を口にした。


「まぁ、たしかにそのままだと困るが、お前がその男を解放してくれたらすむ話じゃないか」

「お、お許しを……あなた様が恐ろしくて、ここから出ることができませぬ」

 さしずめ、気分は刑事を前にした立てこもり犯人のようなものである。

 そこから一歩でも出たらすべてが終わるような空気が、鬼神(イフリート)の心をいやおうがなしに追い詰めた。

 ついでにその刑事が立てこもった場所を一撃で吹っ飛ばすような爆弾を持っているのだから、もはやただのイジメに近い。


 だが、鬼神(イフリート)はまだ知らなかった。

 この麻戸(あさど) (じん)という男の真の恐ろしさは、相手を叩きのめす暴力ではなく、その思考回路にあることを。


「よし、わかった。 お前、腹へってるんだろ?」

「……へ?」

 ――まったくもって理解できない。

 そのときの鬼神(イフリート)の顔を文字に直したならば、きっとそんな意味の文章になるに違いない。

 いや、むしろこの男を前にすれば誰だってそんな顔になるだろう。


「馬鹿なことを考える奴ってのは、結局何かに飢えてるんだよ。

 どんな悪党も、満腹のときは悪いことを考えないものさ」

「いや、だから何を……」

 問いただすも、答えはない。

 むしろ最初から答えなど必要としていなかったのだから。


 麻戸(あさど) (じん)が何者かといわれたら、彼を良く知るものはおそらくこう告げるだろう。

 相手が意識すらしていないレベルの望みを勝手に見抜き、自分の思いついたままに善意をふりまく制御不能な救済者。

 有無を言わせず一方的に他人を巻き込むのに、なぜかそれが居心地良いだけに逃げるに逃げられない人生の落とし穴。

 しかも、なぜかそれがよい結果に繋がってしまうのだから誰も咎めることが出来ず、神以外に奴をとめられるのは女王シェヘラザードのみだろう。


 ゆえに周囲の人間は彼を暴虐なる善意と呼び、女王シェヘラザードは役に立つロクデナシと呼ぶ。

 まるで天災のごとき祝福――それが麻戸(あさど) (じん)という男なのだ。

 そんな男に狙われた鬼神(イフリート)の末路など、押して知るべし。


「あれぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 抵抗する暇などありはしない。

 いつのまにか鬼神(イフリート)の憑り付いた男の体をジンは軽い手荷物のように肩へと担ぎ上げ、鼻歌を歌いながらリビングへと連れ去っていった。

 外から見ている分には、どちらが鬼神(イフリート)だかわかったものではない。

 むしろ鬼神(イフリート)より鬼神(イフリート)らしい強引さだ。


「……借りてきた猫以下かよ。 哀れな」

 誰もいなくなった客室で、呆然と成り行きを見守っていたミールザが鎮痛な声で独り言を呟く。

 何が間違ったかといえば、あの嵐のように祝福を撒き散らす男にかかわろうとしたこと以外にはありえない。

 好奇心は猫を殺すというが、はてさて哀れな鬼神(イフリート)の運命やいかに?


***


「それで鬼神(イフリート)を晩餐に招いたと?

 馬鹿か、お前は。 それがどれだけ危険で非常識なことかわかっているのか?」

 夕方、緑の宮(カスル・アフダル)にやってくるなり、状況を聞いた女王シェヘラザードはジンの尻に蹴りを入れた。

 この恐ろしい……もとい希代の偉丈夫にそんなまねが出来る存在など、彼女のほかにはいないだろう。

 その偉業を讃えるべくミールザが横で拍手をしてジンに睨まれるが、とうの本人はそ知らぬ顔である。

 とれあえずこの頼もしい女王が横にいれば、嵐の化身のごときジンも滅多に手出ししてこない事を、彼は経験上熟知していた。

 

「いや、だったら陛下は別の部屋で食えばよいだろう?」

 蹴られた尻をさすりながらぼやくジンだが、間髪をいれず再び女王の蹴りが無言で飛んできた。

 乱暴というなかれ。 女の力で蹴り飛ばしたところで鼻息ほども感じる輩ではないし、こうでもしないとこの男には皮肉ですら通じないのだから。


「で、その鬼神(イフリート)はどこにおる」

「あれだ」

 憮然とした顔でジンがリビングの奥を顎で示すと、そこには魂の抜けた、まるで人形のようなものが力なく床に鎮座していた。

 その顔にはまるで売られて行く子牛のような虚無が張り付き、時より何か祈りのようなうわ言をボソボソと口にしている。

 頬に残る涙のあとが、なおいっそうの哀れを誘った。


鬼神(イフリート)?」

 女王は困ったように眉をひそめる。

 目の前にあるのは、ただの萎びた野菜の精といわれたほうがよほど納得できる代物だ。


鬼神(イフリート)だ。 俺が来るまではけっこう元気だったらしい」

 首をひねる女王に、ジンは憮然とした顔でぼやいた。

 どうやら自分が原因でこうなってしまったことにかなり不満があるらしい。

 たぶん、猫に嫌われる猫好きのような気分なのだろう。


「それで、今日の晩餐は何じゃ?」

 さすが聡明で知られる女王だけあって、シェヘラザードはあっさりとこの話題を流すことにした。


「俺の故郷にあるトルコという国の料理だな。

 まず、前菜(メゼ)が『トマトのスープ(ドマテス・チョルバス)』、『羊飼いのサラダ(チョバン・サラタス)』、『いんげんのオ(ゼイティンヤール)リーブ油煮込み(・ターゼ・ファスリエ)』、『鶏肉の胡桃和え(チェルケズ・タヴー)』、あとは作り置きの常備菜を並べた感じだな。

 そして主菜は『子羊のオーブン焼き(ピルゾラ)』と、あとは二種類のピザ。

 ……今日は『ほうれんそうのピザ(ウスパナクル・ピデ)』と『チーズのピザ(ペイニルリ・ピデ)』を用意してある」

 まるで魔法の呪文のような異国の料理の名前が流れ始めると、どこからともなく色鮮やかな料理が次々に現われる。

 この光景には、魔法を使うはずの鬼神(イフリート)ですら度肝をぬかれた。


「なんと不思議な……500年を生きた私でも、このような光景は見たこともない」

 だが驚くべき事はこれにとどまるはずがない。

 食事が始まると、再び鬼神(イフリート)は驚くこととなった。


「おぉ、なんという美味!? こんな料理は見たことも聞いたこともない! 100年は語り草にできようぞ!!」

「どうじゃ、美味かろう。 我が伴侶の作る料理は」

「……おい、まだ伴侶になったわけじゃないぞ。 国を治める人間なら、もっとまじめな奴を探せ」

 自慢げに笑う女王に、ジンは苦虫を噛み潰したような顔をする。


「国を治めたいと思う男は星の数ほどおるが、そんなものは私がどうにかすればいい。

 女の命令など聞けぬという輩には、私に忠誠を誓った男から命令を与えればいい。

 だが、我が伴侶として迎えたいと思う男は今のところお前だけだな」

「二人目が早く現われることを祈るよ……俺はそういう柄じゃない」

 ずいぶんとひどい断りの文句だが、なぜか目をそらすその頬が少し赤い。

 賢明なことに、そのことを指摘するような者はこの場には一人もいなかった。


 やがてにぎやかな食事が終盤に差し掛かると、さしもの鬼神(イフリート)もこの場の空気に毒され、他愛もないおしゃべりに興じるようになる。

 なんとも不思議な、そして心地の良い時間であった。

 そして皆が満足したころ、シェヘラザードがジンに物言いたげな視線を送る。

 デザートの催促だ。


 ジンは一つ頷くと、コンコンと床を叩いてその場にいる面子の注意を促した。

「さて、今日のデザートだが、同じくトルコという国の料理でノアの箱舟(アシュール)というものを用意した」

 すると、みなの目の前に色鮮やかなフルーツと豆を煮込んだものが現われる。


「ノアの箱舟とは、俺の故郷に伝わる話でな。

 神が地に満ちた悪を洪水で洗い流す前に、あらかじめてすべての生き物の番を乗せて救済せよと、一人の男に命じて作らせた船のことだ。

 そしてこれは、洪水が終わった後に、残っていた材料で作った料理だといわれている」

 その物語に、鬼神(イフリート)はビクリと身を震わせた。


 鬼神(イフリート)の王である魔王(イブリース)は、やがて訪れる最後のときまで人々を誘惑する時間を神から与えられ、その時が来たならばその眷族となった者と共に地獄に落とされることになっている。

 この料理の持つ逸話は、その救いようのない運命を鬼神(イフリート)に思い出させたのだろう。


 そんな鬼神(イフリート)に、ジンは笑いながら語りかける。

「なぁ、人を悪いことに誘惑するなんて事はやめて、こちら側に戻ってこないか?

 神もそれを望んでいるだろうし、こちら側のほうがお前も楽しいだろう?

 なにより、俺におびえなくて済む」

「何を言っている……私は……」

 この男、鬼神(イフリート)を誘惑するとは、恐れ知らずにもほどがある。

 だがその視線のなんとやさしく力強きことか、その言葉のなんと甘美な誘惑か。


「まぁ、今すぐに決めろとは言わない。

 だが、断ったところで何度でも誘惑してやろう。

 惑わせるのは、何もお前らの専売特許じゃないからな。

 ――まずは食え」

 そしてその男は、匙を差し出して料理を食べることを迫ってきた。


 あぁ、抗いきれない。

 鬼神(イフリート)は望まれるがままに甘味を味わうと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。


 最初に訪れたのは、オアシスに茂る果樹の香りと甘みだった。

 やがて草原に生きる牛の乳がまろやかにその舌を包み、やがて癖のない豆の深みが、穀物のまろやかさが、美しきまでの大地の豊かさと、この世に生きる喜びを伴って語りかける。


 来よ、来よ、悪しき者よ。

 神の懐へ疾く戻り来よ。

 すべてを許し給う方のところに戻り来よ。

 汝、神の慈悲と許しより逃げおおせるとは夢にも思うな。

 (しこう)して神の創り賜いし世界の美しさに(つまず)くがいい。


 そして鬼神(イフリート)は限りなく落ちていった。

 暗く痛みに満ちた悪しき(しとね)を離れ、永遠の喜びの世界へと。


「おや、逝ってしまったようじゃな」

 クタリとその場に崩れ落ちた男の体を横目で確認すると、シェヘラザードは微笑みながらポツリと呟いた。


「まったく……手間を掛けさせやがって」

 ミールザは苦笑いを浮かべつつ、意識のない弟の体を引きずって寝台へと運ぶ。


「で、鬼神(イフリート)はどうなったんだ?」

「さぁな。 ただ……もはや鬼神(イフリート)ではいられまい。

 それでどうなったかは、まさに神のお心次第だろうよ」

 釈然としない顔のジンに、シェヘラザードはそう言って肩をすくめる。


 その答えが示されたのは、なんと翌日のことであった。


「ジン様、お世話になりに来ました」

 そう言って、いきなりジンのところに現われたのは、一人の美しい女。


「だ、誰だお前!?」

「はい、貴方に落とされてしまった哀れな女鬼神(イフリータ)の成れの果てでございます。

 もはや人とかわらぬこの体では元の棲家で暮らすことも出来ず、難儀しておりまして……かくなるうえは責任を取っていただきたく思います」

 まさに青天の霹靂。

 神の御業は、ジンの所業のさらに上を行くのだという証拠であった。


「た、助けてくれ、シェヘラザード!!」

「知らぬ。 自分でやったことだ。 自分で責任を取るがいい」

 すがりつくジンを、女王はいつになく冷たい態度で突き放す。

 かくして、緑の宮(カスル・アフダル)の侍女が一人増えるのであった。


 そして、この結末を聞いたシェヘラザード曰く……

 落とし穴を掘る者は、自分もまたその穴に落ちる危険を覚悟せよ。

 この、馬鹿精霊(ジン)が!!


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