第二節 愛されなかった賢い女房
「面白いかどうかはわかりませんが、私の身の上話をいたしましょう」
そう告げると、彼女は目を閉じて大きく息を吸うと、何かを振り切るように首を横に振ってからその物語を話しはじめる。
――私は夫から愛されない妻でした。
えぇ、それは見事なまでにすれ違いの連続でしてね。
私の実家は国の経済に関する学問を研究している学者の家で、わたくしも父から経済について多くのことを学んできました。
そしてその知識を、商人である夫のために使おうとしたのがそもそも間違いだったのです。
彼は自分に自信がある男で、自らのやり方に誇りを持っていた男でした。
ですが、私から見れば穴だらけで無駄だらけ。
今ならばわかるのですが、どんなに効率が悪く思えても彼の事は彼に任せておくのが一番だったのでしょう。
けど、若すぎた私にはそれが理解できなかった。
私が彼のために助言をすればするほど、彼の心は離れて行きました。
そして努力してもいっこうにわたしを省みない彼に、私もまた苛立ちを募らせていったのです。
夫婦の間はどんどん冷えて行き、やがて夜も別々に過ごすようになりました。
夫の両親からも実家からも子供はまだかと急かされ、子供が出来ないのは私が悪いと罵倒され、誰も味方のいない状況で、ただ毎日泣いていたことを……今でもよく憶えています。
そんなときでした。
夫は浮気をしていて、その相手との間に男の子が生まれたのです。
夫の実家は、まるで私にあてつけるかのように大喜び。
私の実家からは針の筵。
そして、その浮気相手を妾として正式に家の中へと迎え入れる日がやってきました。
――あのとき、わたしの心の中がどうなっていたかお分かりになりますか?
おのれ、下賎な妾の分際のくせに妬ましい。
その男に媚びることしか出来ないそのカラッポな頭で夫のために何が出来るのか?
何も出来ない頭の悪い女をそばにおいて、夫は何をそんなに幸せな顔をしているのか?
不義の子の癖に、なぜ無垢な顔をして周りから祝福されているのか?
そしてなぜ自分が責められなくてはならぬ?
解せぬ。 そして何もかもが汚らわしくておぞましい。
だから……壊してしまおう。
そうだ、それがいい。
ええ、あれこそは悪魔。
地獄の炎は言葉ではいえぬほど心の深いところから這い出して、私の体の内側も外側も黒くおぞましい色に焦がしたのです。
正気も理性もなくした私は、金を払って荒事を専門とする男を雇いました。
そして夫のいない間に妾とその子供を連れ去って、奴隷商人に売り飛ばすことにしたのです。
のみならず、私はその幸せが壊れる瞬間をこの目と耳で確かめずにはいられませんでした。
我が家を臨む物陰に身を潜め、悪党が入り込むその瞬間を恋する乙女のように震え、待ち焦がれながら見ていたのです。
殴られる妾の悲鳴を、泣きじゃくる幼子の声を、私は天上の音楽のように聞き惚れ、愉悦の笑みを浮かべました。
おぞましいですか?
ならば注意しなさい。
誰だって心の中に悪魔の子宮を抱えているのだから。
そして、悪魔というものは往々にして正義と似通った姿で生まれるのだと知りなさい。
――私がその行いを正義の鉄槌だと思っていたように。
そして売り飛ばされた母子は財務大臣のサイード様によって購入されました。
あの妾はたいそう見た目のいい女でしたから、さぞ良い値段がしたでしょう。
そしてサイード様は、あの妾を緑の宮の主であるジン様に、侍女として贈呈されました。
しかしこの妾、夜の相手として以外はどうしようもなく使えない人材だったそうで、屋敷のものをしょっちゅう壊していたそうです。
でも、そんな何も出来ないところがあの夫の目にはたまらなく可愛いと映ったのでしょうね。
しかし、あの見た目に反して恐ろしく女性関係に潔癖な方が夜の相手を必要とするはずもなく、扱いに困り果てて彼女は奴隷の身分から解き放って元の家に戻すことになりました。
……となれば、私の悪事も当然明らかになります。
程なくして、私の前にジン様がやってきました。
緑の宮につれてこられた私は、自らの罪が暴かれる恐怖でガタガタと震え、椅子に座っていることすら出来ません。
ですが、あの方は私の足元に膝をつき、その分厚い胸に私の顔を押し付けながら言ったのです。
「辛かったな」
その言葉の向こうに神の光が見えました。
涙はとめどなくあふれ出て、まるで幼子のように泣きじゃくる私を、感情に任せて不満を叫び続ける愚かな私を、あの方はいつまでも優しく抱きしめ、私の中に巣食っていた悪魔を、地獄の炎の焦げ跡を、染み一つ残さず心の中から消し去ってしまったのです。
そして私が落ち着くと、あの方はなぜか計算問題を差し出しました。
幼い頃から父に教育された私にとってはなんでもない簡単な問題です。
解き終わった問題をお返しすると、ジン様はそれを財務大臣のサイード様にお渡しになりました。
そしてなぜか驚くサイード様を尻目に、こう仰ったのです。
「今の夫とは別れたほうがいい。 どちらかが悪いというより、そもそも相性が悪すぎるだろ」
まさに今まで思っても見なかった言葉でした。
あぁ、なるほど。
この世には夫婦になってはいけない組み合わせがあるのだと、私は生まれて初めて理解しました。
「なぁ、俺のところで侍女として働かないか?
ちょうど、緑の宮の経理を任せる人間が欲しかったんだ」
「私で……よろしいのですか? 私は嫉妬のあまり妾を奴隷として売り飛ばした悪魔のような女ですのよ?」
差し出された手を握り返すには、私の手は黒くて汚すぎました。
けど、そんな私に向かってあの方は言ったのです。
「それはお前の一面に過ぎないし、本質でもない。
罪があるとすれば、それはお前が悪魔になるしかなかった周囲にもあるだろう。
なぁ、俺がお前をお前らしく生きることが出来るようにしてやろうと言ったらどうする?
それとも、たかが経理ではお前の居場所として不足か?」
不足も不満もあるはずがありません。
私はこの方と、この方にめぐり合わせていただいた神のために、残りの人生を捧げようと思いました。
「そんなわけで、罪深い身にもかかわらず、私は今はとても幸せなんですの。
……こんな話で申し訳ありませんが、そろそろ時間なので失礼しますね」
そう告げると、その賢すぎた女は微笑みながら去っていった。
悪魔などとんでもない。
その横顔は智の女神のように聡明な光に満ちて、その笑顔は良く晴れた昼下がりの日差しのように明るかった。
今、彼女はその身に着けたすべての力を余すところなくふりまわせる環境を与えられ、誇りと喜び感じながら人生を生きているのだろう。
吹き付ける風が、去って行く彼女のすその長い衣装をはためかせ、その長くスラリとした脚の形があらわになると、俺は思わず前かがみになってしまった。
俺は女性の胸よりも、尻よりも、すらりとした太股が大好きな男なのだ。
どうしよう。
惚れてしまったかもしれない。
「……いい」
「なんと素敵な……」
図らずしも俺と鬼神は同じ意見を抱いたようだ。
そしてしばらく呆然としていた俺たちだったが、ふと鬼神が我に返る。
「実にすばらしい物語であった。
では、次の話を所望する」
しまった、今の話に気をとられていて話を考える暇もなかったぞ。
「えぇっと……次はだな。 あ、そこのお前ら!」
俺が呼び止めたのは、いかにも女にモテそうもない面をした双子の武官の兄弟だった。