第六節 勘違いへの報酬
ハラム王子が晩餐の席にたどり着くと、そこには見知った顔が待ち受けていた。
「たしかそなたは昨日宿屋の食堂で会った……」
「女王の晩餐を担当する料理人で、麻戸 仁だ。 よろしくな」
王配候補を前になんと無礼な物言いだとは思ったが、この男にはなんとも似合いすぎて咎める気がしない。
獅子の鬣を剃り落としては、獅子の価値がなくなってしまう――そんな言葉が思わず頭に浮かんでしまうのはおそらく自分だけではないだろう。
そして、先ほどアキル王子を捕らえた手際を見るかぎり、武人としても一流。
悔しいが、今の自分ではまったく勝てる気がしない。
「では、晩餐をはじめさせてもらおうか。 ……神の名において」
シェヘラザードが合図をすると、まず前菜の炒め物やスープが運ばれてきた。
この世界の食事の作法は神の預言者が残した生活の記録を基にしており、最初に【神の名において】、そして最後に【すばらしいことは神の御業】と唱えるのが決まりである。
さらにテーブルを使わず絨毯の上に皿を並べて食べるのがこの国の正式な作法で、座る際にも右足を折って左足に重心をかけるのが習わしだ。
なお、この国に乾杯をする習慣も無い。
「これは……ずいぶんと珍しい料理だな」
絨毯の上に置かれた料理の数々はとても色鮮やかで、しかも見たことも無い食材で作られている。
いったいこれはどこの国の料理だろうか?
だが口にすれば、食べたことも無いのにどこか懐かしい感じがする。
実に不思議な料理であった。
なんとも美味な料理に舌鼓を打つも、その腕前を賞賛する間もなくメインの皿が運ばれてくる。
「ジンよ。 今日の食事は何という料理だ?」
「今日の料理はスルタンのお気に入り。 王のために作られる料理だ」
目の前に出されたそれは、茄子をホワイトソースに練りこんだ白いシチューの湖の中心に、細かく刻まれた子羊の肉がこんもりと小さな山のように盛り付けられ、その天辺には緑鮮やかな香草が飾られていた。
一口肉を食めばニンニクやクミンといった香り高いスパイスが口の中に広がり、噛めばまるで解けるようにポロポロと口の中で崩れ、子羊肉の甘みが舌の奥を喜ばせる。
茄子を練りこんだホワイトソースもまた絶品で、ミルクと茄子の甘みが濃厚なバターと渾然一体となって口の中を攻めてくるという、異なる二つの味を同時に味わう我侭で贅沢な料理であった。
しかも、無作法にも熱いものに息を吹きかけなくてもいいように、だが冷めて不味くならないように、絶妙な温度に加減されているあたり、なんとも心配りがきいている。
唯一気が回らないところがあるとすれば、美味すぎて満腹になってもまだ食べたいと思ってしまうことだろうか?
困ったことに、これでは満腹になる前に手を止めるという、基本的な作法すら守れそうに無い。
いや、不満というならばもっと大きなものがある。
食事の際は会話を楽しむのが作法なのであるが、先ほどからシェヘラザード女王の話題はとある男のことばかりであった。
――なんだこれは。 まるで惚気話のようではないか。
そして何よりも気に入らないのは、食事を食べるときの女王の嬉しそうな顔。
先ほどの謁見のときとはまるで別人である。
気に入らない。
なぜだ、女王は自分を見初めたのではないのか?
ハラム王子は自らの心の中に暗い感情が胎動していることに気がついた。
だが、彼の中に生まれた嫉妬という感情はまるで風にあおられた火事のように激しく膨れ上がり、理性を焦がして燃え広がって行く。
そして彼は認めがたい真実をいやおうなしに受け入れざるをえなかった。
――あぁ、女王はあのジンという男のことが好きなのだ。
その瞬間、ハラムの中で何かが弾けた。
「貴様……王子である私を差し置いて何をしている!
女王に対して少しなれなれしいぞ!」
気がつけばハラム王子は立ち上がり、シェヘラザードの給仕と話し相手をしていたジンの胸倉を掴もうと手を伸ばす。
だが……
バシンと皮を叩くような音が大きく響き渡る。
「ぐっ、あぐぁっ、ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
背中を打つ衝撃に、彼は何が起きたのかまったく理解が出来なかった。
全身を痛みが突きぬけ、肺から残らず空気が吐き出される。
なぜ自分は大の字になって地面に転がっているのか?
いつのまにこうなったのか?
「悪いな、いきなり襲い掛かってくるから思わず投げちまったよ」
上から降ってきた野太い声に、ようやくハラムは自分が投げ飛ばされたことに気づく。
なんという熟練の武技。
「お見事」
そしてジンを讃えるシェヘラザードの声に、ハラムの心は微塵に打ち砕かれた。
「わ、私は……私は……うぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
なんという恥辱。
王族の給仕に嫉妬して狼藉を働くなど、しかも子供の手をひねるように叩きのめされるなど、あってはならない大失態であった。
周囲の視線すべてが刃物となってハラムの心を切り刻む。
もはやどう取り繕ってよいかもわからない失態に、ハラムは転がるようにしてその場から逃げることしかできなかった。
「さて、どうすっかねぇ」
走り去るハラム王子の後姿を見ながら、ジンは珍しく困ったように呟く。
だが、それを咎めるようにシェヘラザードは冷たい言葉を吐き捨てた。
「放置するがよい。 どうせ自分が我の王配として選ばれたとでも勘違いしたのであろう。
それよりも、〆の甘味を持ってまいれ」
「自分でそそのかしたくせによく言うぜ。
……あまり苛めるなよ。 あいつ、お前から見たら凡庸に見えるかもしれないけど、そう悪い男じゃないぞ」
そう言いながら、ジンはゆっくりとした足取りでハラム王子の足取りを追う。
「甘やかすでないぞ。 あの手の男は褒めるとすぐ付け上がる」
その背中に女王が辛らつな言葉を投げつけると、ジンは振り向きもせず、任せておけとばかりに手を振った。