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千夜の晩餐  作者: 卯堂 成隆
第十夜 絨毯と黄金の魔法の話
103/109

第八節 聖地の坩堝

 まだ太陽の光のささぬ薄暮の中、灰色の光に包まれてその街は静かに眠っていた。


「ここが……イェルサーラムか」

 雲よりも高い位置にある絨毯の上で、ジンは感慨深げに呟く。

 眼下に広がる石造りの建物の群れはひどく統一感がなく、なじみのある寺院のドーム状の屋根のほかにも、十字架のついた様式の建物がいくつも混在していた。


「なるほど、国境ともなるとこのような光景になるのだな」

 それらのなじみの無い建物は、おそらくイース教の建物だ。

 むろんシャフリアール王国の首都であるテヘルの街の中でも異教徒は生活しているのだが、どうしても少数派である彼らの姿を目にする機会は少ない。


 なお、シャフリアール国内の主な異教徒を挙げるならば、ザラシュストラ教やイース教、はたまたジュド教やミスラ教と言ったところか。

 だが、彼らの存在はたまに街の中で見かけて『あぁ、いるのか』と思う程度である。

 ここまではっきりと存在を主張している状態を見るのは、ジンもこの世界に来てからはじめてのことだ。


「そろそろ下に降りて通常のキャラバンのフリをしましょう」

 街の風景をじっと眺めるジンの後ろから、絨毯を操る侍女のハーニが声をかける。


「あぁ、そうだな」

 特に変化の無い光景に見飽きてしまったのか、ジンはおざなりに返事を返した。


 なお、ジンたちはこれから少し街道を戻った上で、馬やラクダに乗り換えて街に入る予定である。

 なぜなら、さすがに空飛ぶ魔法の絨毯で街に乗り付けると、イェルサラームに済む宗教関係者がいろいろとやかましいからだ。

 とかく宗教というものは奇跡を吹聴することが多いくせに、魔術と言うものに対しては非寛容なしろものなのである。


 ジンたちの所属する宗教でもそれは似たような傾向があり、寺院を管理する聖職者たちの中には、神を信仰することで魔術を使う修道僧(スーフィー)たちの存在ですら疎ましく思う連中もいるぐらいである。

 ゆえに、奇跡を起こせる修道僧(スーフィー)よりも、えらそうにふんぞり返るしか能が無い聖職者のほうが偉いということも珍しくない。

 それで言うと、聖者(ワリー)として大きな尊敬を集めるムバラク師は、かなりの例外といえよう。


 そんなわけで、同じ宗教の人間でもまずいのに、ましてや奇跡を自分たちの専売特許のように考えるイース教徒にでも見つかったら、立場もわきまえずに噛み付かれること必至である。

 そんなことを思い返していると、ふいに横にいたハーニに袖を引っ張られた。


「ジン様。 わかってらっしゃるとは思いますが、異教徒といざこざを起こさぬようお気をつけくださいませ」

 その忠告に、ジンは大きく頷く。


 いくらジンが副王とはいえ、ここは他の宗教にとっても聖地であるという特殊な場所だ。

 無茶なことをすれば、逆上した宗教関係者にあおられて……例を挙げれば、イース教を国教とするロマーナ王国と戦争と言うことにでもなったら目もあてられない。


「できる限り避ける。 ……神がそうお望みならば(インシャラー)

 だが、今までさんざんトラブルを引き起こしてきた実績を考えると、素直にわかったというのも憚られる。


「その目はよせ。 仕方ないだろう? 神が俺に試練を与えるのだから」

 本人としては限りなく誠実に答えたつもりだったのだが、そんな煮え切らないことを呟くジンの様子に、ハーニをはじめとする同行者たちの口から溜息が漏れた。


***


 それからほどなくして、ジンたちの乗った空飛ぶ絨毯は待ち合わせの場所へと舞い戻る。

 イェルサラーム郊外の荒地にやってくると、そこにはいつの間にか地元の精霊(ジン)たちによって馬とラクダが用意されていた。


 いや、これは馬でもラクダでも無い。

 その身にまとう気配から、ジンはそれらの正体を瞬時に理解した。

 そして、ジンが乗るために用意されたラクダにそっと顔を近づけると、ボソボソと他のものには聞こえない程度の囁きでそのラクダに囁きかける。


「悪いな、手間をかける」

「さすがにこの大量の荷物を人の手で運ぶのは不自然ですからな。

 なぁに、副王閣下を誰が乗せるかでちょっとした喧嘩があったぐらいですから、謝る必要はございませんよ」

 ジンの言葉に明瞭な人の言葉で返事をすると、そのラクダはニッと唇を吊り上げて笑った。


 そう、ここにいる馬やラクダは全て精霊(ジン)の化けたものである。

 さすがにそれを表ざたにすると、ジンの世話役としてこの一行に参加している侍女たちをはじめとして、恐慌状態になる者が大量発生するので、間違っても知られるわけにはゆかなかった。

 なお、最初からこの一行に人に化けた精霊(ジン)が大量に混じっているという事実を、彼や彼女たちには秘密にしているのは言うまでも無い。


「……なんとも面倒なことだな」

 ジンは苦笑とも自嘲ともつかぬ顔でため息をついた。

 ただ旅行して街に入るだけだというのに、魔術や人ならぬ者の手を借りなくてはならないとは。

 なんともばかばかしい話では無いか。


 その時である。

 ふと道行く先に目をやけば、誰かが倒れているではないか。


「あれを見ろ! 老人が倒れている!!」

「ジン様、なりませぬ! お戻りください!!」

 突然駆け出したジンに、すぐ後ろにいたハーニが慌ててこれをとどめようとする。

 ラクダに化けでジンを乗せた精霊(ジン)も足を止めるが、即座にジンは力任せにその尻を蹴り飛ばした。


「痛っ! け、蹴らないでください、ジン様! そんな事をしてもダメなものはダメです!!」

「もういい! 自分で走る!!」

 文字通りラクダの背中から飛び降りると、ジンは人間とはとても思えぬスピードで走り出す。

 慌ててラクダに化けた精霊(ジン)も、そのあとを追いかけるが、距離はどんどん離されるばかりだ。


「……嘘だろ!? くそっ、あの人本当に人間かよ!!」

 ジンの背中を睨みながら置いてゆかれた精霊(ジン)が愚痴を叫び、さらにその後ろからついてきている連中が心の中で大きく頷く。

 やはりあれは獅子の精霊(アサド・ジン)だ。

 あれは人の姿に似た何かに違いないと。


「おい、大丈夫か!?」

 ジンが足を止めると、そこには杖を手にした老人が力なくうつぶせに倒れていた。

 遠くから旅をしてきたのか、身に着けたローブも靴も砂埃にまみれ、かなり薄汚れたいでたちである。

 その頭に被った小さな帽子からすると、おそらくはジュド族に違いない。


 声をかけても反応は無く、慌てて抱え起こしたジンであったが……

 老人の腹からグゥゥキュルルルルと情け無い音が響き渡る。


「おお……お若いの。 すまぬが食料を分けてもらえぬだろうか? ここしばらく、飲まず食わずで動けんのじゃ」

 老人の口からこぼれたか細い声に、ジンはホッとするやら脱力するやらで、数秒ほど何も言葉を失った。


「まずは水を飲むといい。 食事はイェルサラームの街についてからでいいか?」

 腰に下げていた水筒を手渡すと、老人はそれをゆっくりと口にする。

 そしてハァと大きく息をつくと、水筒をジンに返してから大きく首を横に振った。


「すまんが、歩くことも出来ぬのじゃ。 携帯のパンでもかまわぬから、ここで飯を食わせてくれぬか」

「ふむ、そう言われてもなぁ」

 あいにくと、荷物はラクダごと置いてけぼりにしてしまっていた。

 手荷物の中には、ビスケット一つ入っていない。

 だが、その時ふと閃く。


 ――あぁ、そうか。 神の厨房からリンゴでも出せばいい。

 なにも、手持ちの携帯食料にこだわる必要は無いのだ。

 そう思ったジンだったが……なぜか神の厨房がウンともスンとも言わなかった。


「ん? ありゃ?」

「どうなさった、お若いの」

「い、いや、ちょっとな」

 いったい何事だ!?

 神から与えられた恩恵が動かなくなるなど、初めてのことである。

 神に見放されるようなことに心当たりは無いし、困っている人間を救おうとするのに神がそれをよしとしないはずも無い。


「ジン様! その老人からお離れください! ジュド族です!! 刺客かもしれません!!」

「お願いですから護衛対象のくせに、護衛置き去りにして突っ走らないでください!」

 その声に振り向くと、ようやく追いついた一団が口々に文句を叫びつつ近づいてくる。


「おぉ、ちょうどよい所に来た。 携帯用の食料を出してくれ」

「はぁ? いったいどうされたんですか?」

 突然のジンの要求に、ハーニは困惑したような台詞を口にした。

 神の厨房の恩恵を持つジンならば、そこからいくらでも食料を引き出せるはずである。


「このご老人が、食べ物がなくて困っているのだが、いつもの厨房が開かんのだ」

「なんですって!?」

「そんな馬鹿な……!」

 ジンの口から飛び出た言葉に、ハーニやレナンがそろって絶句する。

 それは、けっしてあってはいけないことであった。


「うむ、実に困ったものだ」

「いや、大事でしょ!? もっと焦ってくださいよ!!」

「そうですよ、神の恩恵がなくなったのですよ!?」

 通常の人間ならば、神から見捨てられたと思って、絶望のあまり死にかねない出来事である。

 だが、本人はいたって暢気な顔をしていた。

 そのあまりに図太い神経に、周囲から頭の中身を疑うような視線が飛ぶ。


「馬鹿なことを言うな。 神の恩恵がなくなるなどあってたまるものか。

 おそらく神にもご都合があるのだろうよ。

 神は人間達がどんな馬鹿なことをしても、決して最後まで見捨てない。 だから神なのだ」

 その言葉に、周囲の人間や精霊(ジン)たちはあっけに取られ、ただ一人ジンの腕の中にいる老人だけが腹を抱えて笑い出した。


「青年や、お前さんは神や死を恐ろしく思うかね?」

「お言葉だが、ご老人。 神のお招きや死はいずれ誰にでもやってくる。

 恐ろしくないといえば嘘になるが、恐れたところでどうにもならん」

 それは、一度死を経験したことがあるが故の言葉であり、彼ならではの達観した言葉である。

 その言葉のあまりにもの説得力に、周囲の者たちは思わず言葉を失った。


「青年よ、おぬしは正しい。 じゃが、もっと恐れてくれぬと、儂の立場がないわい。

 儂なんぞ、神がお迎えにチラリと顔を出しただけでも泣き喚いてしまったというのに」

「それはご老人が正しい。 俺は昔、あまりにも頻繁に死神から求愛されるような生活を送っていたからな。

 そのせいで、すっかり感覚がおかしくなってしまったのだろうよ」

 まるで井戸端会議のような口調であるが、その話題はよりにもよって死である。

 あまりにも異質な空気に気圧され、多くの者は自分の頭こそがおかしくなったのでは無いかと妙な不安に囚われ始めていた。


「さて、そろそろ飯の準備をしようか。 ご老人、もうしばらく待ってほしい」

「早めにお願いするよ、お若いの。 さもないと、神が儂を迎えに来てしまう」

 そんな毒のきいた挨拶を交わすと、ジンは老人を腕から解放し、その辺に簡易的な竈でも作ろうかと適当な石を探しはじめる。

 そして、この時点でようやく周囲の者たちがようやく正気に返った。


「じ、ジン様! 何をしてらっしゃるのです!

 こんな得体の知れない老人などほっといて先に進みましょう!」

「だが、この腹をすかせたご老人は、街にゆくまで待てぬというのだ。

 ここで何か作るしかあるまい」

 ジンは荷物の中から干したナツメヤシを取り出して老人に与えると、なれた手つきで岩をドーム状に組み上げはじめる。

 あまりの手際のよさに、もはや周囲の物は声をかけるタイミングですら見つからなかった。

 

「ほら、火をよこせ」

「あ、はい」

 様子を伺っていた精霊(ジン)にいつのまにか手にしていた潅木をちらつかせ、ジンは魔術で火をつけるよう要求する。

 彼が副王である以上、誰も異議を唱えることも許されず、もはや周囲の思惑などほったらかしでやりたい放題だ。


「それから、この金をもってイェルサーラムの街までひとっ走り頼む。

 茄子とひき肉、あとは多めにオリーブ油を買ってきてくれ」

 手近にいた別の精霊(ジン)にそう命じると、ジンはぐるりと首を回してハーニに目を向けた。


「ハーニ。 持っているんだろ? アレを」

 その瞬間、彼女の顔が見事にこわばる。


「ジン様ひどい! まさか、私からアレを取り上げようというのですか!?」

 いつもはジンに忠実なハーニが、珍しく引きつった顔で拒絶した。

 だが、ジンがその程度で引き下がるはずも無い。


「困っている人に施しをするのに何を躊躇う? さぁ、おとなしくトマトを喜捨するがいい」

「いやあぁぁぁぁぁぁ!?」

 その言葉に、ハーニの顔が絶望に染まる。

 この元女鬼神(イフリータ)、トマトがことのほか大好きなのだ。

 なお、トマトもまたジャガイモと同じくジンがこの国に持ち込んだ新しい野菜の一つであり、現時点ではテヘルとバクディードの近辺で僅かに栽培されているのみである。

 ゆえに、これだけはイェルサーラムの街に使いを出しても手に入らないのだ。


「そ、そうだ! この老人をさっさと街まで運んでしまえばよいのです!

 我々の力なら、ほんの一瞬ですとも!」

 焦った顔で老人の体を持ち上げ、魔術を使って街に運ぼうとするハーニだが、老人はそれに抗うように体をよじった。


「えー 儂はここでこの兄さんが作る料理に興味があるのぉ」

「わ、わがままいわないでください! 私の大事なトマトの危機なのです!!

 ほら、行きますよ……って、きゃあぁぁぁぁ!!」

 突然ハーニが悲鳴を上げ、何事かと周囲の物が目を向ける。

 そして、何が起きたのかを問いただす前に、周囲にアンモニアの臭いが漂いはじめた。

 何があったかは、彼女の名誉のためにもあえて明記すまい。

 

「すまんのぉ、娘さんや。 年寄りはいろいろと緩いのじゃ。 無理に動かさんでおくれ」

「なんてことをする、この生ける干物がぁぁっ!! よくも……よくもぉぉぉっ!」

 思わず女鬼神(イフリータ)の本性がむき出しになって叫んだハーニだが、それをまぁまぁとジンがなだめた。

 一方の老人はと言うと、わざとらしいほどに平然としている。


「とりあえずご老人に着替えを。 ハーニも少し落ち着け」

「あんまりですわ、ジン様ぁぁぁぁ!!」

 そのままトマトを持ち逃げしようとしたハーニだが、その肩をジンが笑顔でがっしりと掴んだ。

 この侍女がこのぐらいで取り乱すことが無いことなど、最初からお見通しなのである。

「お、お許しください」

「……ダメだ」

 かくして彼女の懐から真っ赤に色づいたトマトが容赦なく徴収されたのである。


 やがて全ての材料がそろった頃、新しい衣服に身を包んだ老人は、干したナツメヤシを齧りながらジンの作業を覗きにやってきた。

 周囲には、玉葱を炒めた時の甘い香りと、茄子の焼ける匂いに包まれ、思わず腹の虫が悲鳴を上げそうな空気が漂っている。


「して、若い人や。 いったい何をご馳走してくれるのかね?」

「うむ。 坊さんが(パトゥルジャン)気絶した(・イマム・バ)茄子(ユルドゥ)を作ろうと思う」

「ほほう? けったいな名前じゃのぉ。 それはどんな料理じゃ?」

「まぁ、わりと簡単な料理でね。

 焼いた茄子に、トマトと玉葱を炒めた具を挟み込んだ料理だ」

 だがその組み合わせは絶妙で、その香りのよさに僧侶が気絶したというエピソードがその名の由来である。


 事実、周囲にはなんとも空腹感を刺激する香りが漂っており、この香りにつつまれた侍従たちが涙の浮かんだ目でこちらを見ている。

 だが、ハーニの確保していたトマトに限りがある以上、これは老人の食べる分しか量が無い。

 そもそも、今はまだ断食月(ラダマン)の最中なのだから、量があったとしても彼らは口に出来ないのではあるが。


「さぁ、そろそろ焼き上がりだ。熱いから火傷には気をつけてくれ」

「では、馳走になる」

 いい具合に焼きあがった坊さんが(パトゥルジャン)気絶した(・イマム・バ)茄子(ユルドゥ)を皿にとって差し出すと、老人はそれを嬉しそうに頬張り始めた。


「おほっ、これはこれは! 実に美味いのぉ!!

 焼いた茄子の旨みが果汁と一緒にじゅわっと口の中に広がったと思いきや、トマトという野菜の甘酸っぱさと玉葱の甘みとコクが……うぅむ、これはよいものじゃ!!」

 はふはふと老人が美味そうに料理を食べる中で、ジンの配下の者たちは涎の海におぼれそうになりながらそれを見ている。

 その恨みがましい視線の中で食事が出来るところを見ると、どうやらこの老人、ジンと同じぐらい神経が太い人物のようだ。


「うむ、お若いの、馳走になった。

 とは言っても、わしは旅の途中でのぉ。 これぐらいしか差し出せる物がないのじゃ」

 腹がふくれたらしき老人は、満足そうに自分の腹を手でさすると、手にしていた古い木杖をジンに差し出した。

 先端に牛の角のような飾りがつけられ、丁字になった古めかしい杖である。


「いや、困った人を助けるのは持つ者の義務だ。 礼を受けるわけにはゆかない」

「だが、優れた行いが報われなければ、法が成り立つまい」

 丁寧に断りを入れるジンだが、老人はさぁと杖を突き出し、引き下がろうとしない。

 だが、同じような問答を三度繰り返した後である。


「では、ご老人の心遣い、ありがたく頂戴つかまつる」

 ジンはその場に跪き、恭しくその杖を受け取った。

 その様子に、周囲の者は驚きとともに首をかしげる。

 いくら年配者を敬うにしても、この国の副王であるジンが、賎しいジュド族の老人相手になぜここまでせねばならんのか?

 どうせ止めても聞かないジンのことだから口を出さないが、彼らは正直に言うとかなり不愉快に思いながらこの様子を見守っていた。


 すると、ジンは杖を受け取るなりこんな言葉を呟いたのである。

「時にご老人。 俺をおためしになるというなら、もう少し演技をお学びになったほうが良ろしいかと」

「おぉ、これはしくじったのぉ」

 老人は一瞬だけ目を見開くと、唇を吊り上げてやや人の悪い笑みをジンの返した。

 なんとも食えない老人である。


 同時に、周りの者はやっと理解した。

 自分たちには面識が無いが、おそらくこの老人はどこかの国の王族か何かなのだろう。

 かといってジンがあそこまでへりくだる必要は無いと思うのだが、少なくとも彼らにとってはようやく納得のゆく理由が見つかったのだから、それで納得するしかない。


「では、お若い方、汝の上に神のご加護があらんことを」

 そんな祝福の言葉を告げると、老人はさっきまで倒れていたのが嘘としか思えない足取りで、ジンの進む方向とは逆のほうへと歩き去っていった。


「まったく……なんだったんでしょうね、あの老人」

「本当に。 どこのお偉方かは知らないけど、まるでジン様に食事をねだろうと待ち伏せするなんて、趣味が悪いですわよねぇ」

 不機嫌な顔でそんな台詞を交し合う従者と侍女たちではあったが、ジンはそんな彼らに向かってボソリと告げる。


「まぁ、事実そんな感じだろうな。

 時に尋ねるが……あの老人、影が無かったのに気づいたか?」

「……え?」

 その言葉に、周囲の者が硬直した。

 すくなくとも、それはすでに人間では無い。

 まさか、あれは天使か聖霊の類では!?


 周囲の物が一人残らず固まる中、ジンは鼻歌でも歌いそうな調子で竈の後片付けをすると、一人でさっさと歩き出した。


「さて、天使の化けた姿か、はたまた神との会合を果たした聖人(ワリー)か。

 いずれにせよ、只者ではないだろう。

 まぁ、ご老人の正体なんぞどうでもいいことだ」

 ジンは老人から渡された杖を空に掲げ、そこに何かあるのでは無いかと探るようじっと見つめた。

 その杖が、ハールーンの杖と呼ばれるものであることを、彼はまだ知らない。



 老人と別れた後、いかにも隊商らしい風体を整えたジンたちは、大量の荷物とともにイェルサラームの街に入っていった。

 先導するのは、この街に詳しいレナンである。

 元々彼の部族はこのあたりを居住区としており、幼い頃から何度もイェルサーラムを訪れているので、彼にとってはもはや庭のようなものだ。


「さて、この街に来たからには、巡礼をしないというわけにもゆかないでしょう。

 まずは、預言者昇天祭で預言者が天に昇ったとされる岩を目指すことになりますが、いくつか注意点があります」

 削りだした岩でできたイェルサーラムの街並みのあちこちに目を光らせながら、レナンは控えめな声でジンに言い聞かせる。

 巡礼の旅人の多いこの街でも、人数の多い彼らの行列はひどく目を引いていた。


 ゆえに鮮やかな色をした衣服や土産物が所狭しと並ぶ狭い通路から、好奇の目が雨のように注がれるのだが……。

 むろん、その視線が好意的なものばかりとは限らない。


「いいですか、この街で閣下が安全に歩けるのは街の北東部分だけだと思ってください。

 特に西の地域はイース教徒の勢力下ですから近寄らないように」

 イース教徒を危険物扱いするレナンに、同行しているエリオゼからムッとしたかのような視線が向けられる。


「なっ、我々を危険な連中と一緒にするな!」

「黙れ、野蛮なイース教徒。 俺たちと一緒に歩いている連中が何者か忘れたのか?」

 そう言いつつレナンが横目でチラリとハーニを見ると、エリオゼは悔しげに歯軋りするしかなかった。


 彼女たち精霊(ジン)は、イース教徒からすると悪魔扱いである。

 それを引き連れているジンが、下手にイース教徒と関わればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。


「それから、東側も南部はジュド族の住む地域ですから注意してくださいね。

 特に閣下は大半のジュド族から未だに恨まれてますから……」

「なんとも理不尽だな」

 続けてレナンから告げられた言葉に、今度はジンが鼻白む。

 そもそも、ジンからしてみれば一方的に国家規模で喧嘩を売ってきたのはジュド族のほうだ。

 異邦人であるジンにとって、過去の歴史のいざこざなど知ったことではない。


 愛すべき家族と国民のために、知恵と努力でそれを返り討ちにしたのは事実だが、それを恨んでいるといわれれば面白いはずもなかった。

 ただでさえ悪い目つきを半眼にして、人生の裏街道を歩く人間ですらのけぞるような気配をジンが撒き散らしていると、彼の乗っているラクダが低い声でボソリと呟く。


「心配しなくても、閣下に何か起きそうになったら我々が介入しますよ」

「気持ちはありがたいが、それは最後の手段だな」

 精霊(ジン)なんぞに暴れられたら、人間の街などひとたまりもあるまい。

 おそらく神の加護に護られた建物以外は、全て瓦礫に還ってしまうだろう。

 その光景を頭に浮かべ、レナンは思わず胃のあたりを手で押さえるのだった。


「しかし、聖都と言う割には狭くて雑多な街だな、 少し狭苦しい」

 そんなジンの感想に、レナンは思わずムッと顔をしかめる。

 たしかにイェルサラームの街はその名前が有名であるにも関わらず、縦横がそれぞれ1キロにも満たない城塞都市だ。

 しかも、この街の最大の特徴は、街中を縦横に細かく分断する壁たちである。

 狭苦しいとジンが呟くのも無理からぬ話であった。


「そうですかい? バクディードでも似たようなところはあるとおもいますが?」

「……まぁ、そうなのだが、イメージ的にこう、整然として綺麗な町並みを思い浮かべていたから、裏切られた気分なのだ。 そうだな……なんというか、統一性がないというべきか?」

 喉の奥に何かがつっかえたような顔で眉をしかめるジンに、レナンは何か納得したかのように頷く。


「あぁ、そういうことですか。

 なにせ古い街ですからね。 それに、この街の主となった国もシャフリアールだけじゃありませんし」

「どういう意味だ? すまんが、あまりこのあたりの歴史には詳しくないのだ」

 レナンの言葉に、ジンは眉を(ひそ)めながら首をかしげた。

 副王の嗜みとして、ある程度は歴史を学ぶ必要があったものの、さすがに知らないことのほうがまだまだ多い。


「では、私が説明しましょうか」

 突如としてそう語りかけてきたのは、なんとジンのまたがっていたラクダであった。

 その正体が精霊(ジン)であることを考えると別におかしなことではないが、余人に気づかれたらと思うと少々気が気ではない。

 だが、何らかの魔術でも使ったのか、周囲を行き交う人の群れは彼の言葉に何の反応も示さなかった。


「この街は伝説にあるスライマーン王が神殿を作る前から壁に囲まれた城塞都市でしてね。

 そのあとも違う国の王がやってきて、この街の壁を壊しては建て直したせいで、壁がどんどん増えていったんですよ」

 ほら、あれなんかは一番古いスライマーン王の立てた神殿の名残で、嘆きの壁なんて呼ばれてますよ……と、なかなか優秀なガイドっぷりである。


「おまけに、その支配者の文化圏が別々だったせいで、なかば強制的に違う風習や価値観を持つ者たちが同じ街で生活することを強いられてきました。

 そして、この街は互いに混ざり合わないまま多くの部族が混在し、独特の空気を作り出すようになったんです」

「……普通は混ざり合って新しい文化になるんじゃないのか?」

「このあたりの人間は、頑固なんですよ」

 どこかうんざりした目をするジンに、ラクダに化けた精霊(ジン)は苦笑するかのように声で低く笑った。


 そしてそのタイミングを狙っていたかのように、レナンが口を挟んでくる。

「昔と比べれば、今は大まかな勢力として固まって住むようになったとはいっても、基本的にこの街は文化がごちゃ混ぜでしてね。

 まぁ、この()()ぎみたいな街並みがここの魅力だと思ってくださるとありがたいです」

 一息でそう言いのけると、レナンは満足そうに鼻を鳴らす。

 どうやら、ガイド役をとられたのがお気に召さなかったらしい。


 だが、その時である。


「ジン様、おさがりください!」

 ハーニの緊張した声に、ジンの乗ったラクダが足を止めた。

 すると、ほどなくして前方より兵士の一団が、ジンたちの行列めがけて駆け寄ってくではないか。

 その不穏な不穏な空気に、護衛の武官たちが殺気立つ。


 やがてその兵士の一団は、ジンたちの行列の前に立ちはだかると、居丈高にこう告げた。

「そこの一団、とまれ!!」


2017/3/26 「アロンの杖」をアラブ風の表記に従い「ハールーンの杖」に変更しました。

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