プロローグ 黄昏よ、魅惑的な黄昏よ、きたれ
※【注釈】
この物語は千夜一夜物語をモチーフにしており、ところどころにイスラム的な単語が混じっておりますがあくまでも異世界の物語であり、イスラム教とは関係はありません。
気がつくと、彼は砂漠の只中にいた。
いったいここはどこだろう?
尋ねようにも、誰もいない。
周囲はただ風と砂があるばかりである。
「ジンよ、アサド・ジンよ」
「……誰だ、俺の名を呼ぶのは」
突如として聞こえてきた声に、男はハッとして身構えた。
「私は天使シヴリール。 貴方をここに呼んだものです」
「天使?」
「いきなり信じるのも酷だと思いますが、ここは貴方のいた世界ではありません。
とても大切な用があって、地球の神から死んだはずの貴方を借り受けました」
「そうか俺は……死んだのか」
そして男はようやく自分が死んだことを、そしてその死に様を思い出した。
異世界にいるという実感は無かったが、自分が生きているというならば、本当にそう言うことかもしれない。
「もし貴方が私たちの願いをかなえてくれるなら、貴方を死ななかったことにして日本に返してあげることが出来ます」
シヴリールの言葉に、男はハッと目を開いた。
「可能なのか!?」
「簡単なことではありませんが、不可能ではありません。
ただ、私たちには大きな悩みが一つあるのです」
「聞かせてもらおう」
つまり、男の願いをかなえたいなら、天使の願いも叶えろということだ。
無条件にそんな提案を出されたら疑ったかもしれないが、そう言う話なら少しは信用できる。
「……実は、とある国の国王が亡くなったばかりで、そのあとを継ぐ者が一人しかいないのです」
「それはお気の毒だな。 だが、その流れだと俺に出来ることはなさそうだが?」
あいにくと、男は生前も今も政治に興味が無いタイプの人間だった。
「問題は、その後継者である女王シェヘラザードにあるのです。
彼女は世継ぎを作るために王配となる男性を迎えなければならないのですが、実は大変な男嫌いでして……」
「おいおい、それこそ俺に何をしろというんだ? 見てのとおり、あまりモテるほうじゃないぞ」
男の顔は不細工とは言いがたいが、どちらかといえば厳つくて近寄りがたいほうであった。
特に目じりの上がり気味な三白眼はその辺のチンピラよりはるかに威圧感がある。
「人に愛される資質とは外見だけではありませんよ。
実は貴方のことを憎からず思っている方は何人もいたのですから」
「え? ほ、本当なのか?」
まったく予想外の答えに、男は思わず顔を赤らめてうろたえる。
「天使は嘘を言いません。
そしてここからが大切なことなのですが、男嫌いな女王シェヘラザードは、王配となるものに一つの条件をつけたのです」
そこで天使は言葉を区切った。
「彼女のために自ら料理を作り、彼女を満足させること。
ただし、彼女を満足させることが出来なかった者は、その場で死刑を言い渡されます」
「……狂ってる」
料理とは人を楽しませるための代物であり、そんな血生臭いものであってはならない――それが男の持論だった。
「ここまで言えばもうお分かりですね?」
「まさか、俺にその女王を満足させる料理を作れっていうのか!?」
「そのとおりです」
とんでもない申し出に、男の顔は目に見えて青ざめた。
無理も無い。 ただでさえ王族への料理など手に余るし、しかも気に入られなければ殺されてしまうのである。
「冗談はよしてくれ!
たしかに俺は料理が好きだ。 だがプロではない。
女王の舌を満足させるような料理は無理だぞ!」
「それは重々承知の上です。
まぁ、あなたの料理人としての技量は、貴方が思っているよりもずっと上なのですけどね。
ですが、技術だけの問題ではないのですよ。
彼女を満足させることが出来るのは、貴方だけなのです。
お願いできませんか?」
どうやら天使の方は男の料理の腕前を知っていて、それでなおこの男でなくては駄目だというのだ。
「断ったらどうなるんだ?」
「この国が二つに割れ、大きな争いとなるでしょう」
「そして多くの民が死ぬって事か」
その有様を想像したのか、男の眉間に深い皺が刻まれる。
「わかった。 一度は死んだ身だ。
もう一度生きるチャンスをもらえただけありがたいと思わなきゃな」
「ありがとうございます、ジン。
では、貴方のために私からいくつか贈り物をさせていただきましょう」
シヴリールがそう告げると、目の前に古ぼけた扉が現われた。
その扉は壁も支えもないのに倒れることも無く、まるで空中に張り付いているように見える。
「これは……何だ!?」
「これは、貴方のために作られた厨房へと続く扉です。
さぁ、開けてごらんなさい」
言われるままに扉を押し開けると、そこには極めて近代的なキッチンがあるではないか。
しかも、大きな業務用の冷蔵庫を開ければ、そこには山海の珍味がぎっしりと詰まっている。
「ここには、貴方が必要とする食材と機材が尽きることなく用意されています。
そして、貴方がここに入りたいと思うなら、この扉はどこにでも現われるでしょう。
さらに、この中に用意されたものについては、扉を介せずに取り出すことも可能です。
ただし、この空間には貴方と貴方が許した者以外の何人たりともはいる事はできません」
その言葉に、男は震えた。
――料理好きにとって、これは天国のような場所ではないか!
「ありがたい。
遠慮なく使わせてもらおう」
「ただ、いくつか注意しなければならないことがあります」
思いもよらぬ恩恵に笑顔を見せた男に対し、天使はこう告げた。
「わが主である神は、人の子の食事にいくつかの制限を与えました。
病死や自然死した獣の肉、血、そして邪教の神に捧げられたものを口にしてはなりません。
さらに肉については、屠殺したときに神の名によって清められたもの以外は口にすると魂が穢れます」
「つまり、肉に関しては気をつけろと?」
宗教の縛りの少ない日本で生まれ育った男にとって、これはとても面倒なことである。
「その空間の中にある食材はすでに清められているので結構ですが、外から持ち込んだ食べ物については気をつけなさいということです」
「わかった。 では、さっそく女王様のための料理を考えてみたいのだが……」
しかし、男はすぐに取り掛かろうとはしない。
その前にやるべきことがあるのだ。
「えぇ、その前に知りたいのでしょう?
女王がなぜこんなことを言い出したのかを」
天使の言葉に、男は大きく頷く。
「俺の知り合いの言葉だが――どんなふざけた振る舞いをする者にも、それなりの理由があってそのように振舞うものだ。 同じように、どれほど不条理な事があったとしても、そのすべてに原因が存在するのだ……と」
「よろしいでしょう。 貴方にはその資格と権利があります。
ただ、私が話せるのは事の発端まで。 女王の試練を乗り越える方法についてまではお話できません」
そう前置きをして、天使は語りだした。
一人の女王の、その胸の内の物語を。
そして、この先に続くのは、報われぬ恋に身を焦がす女王と異邦の料理人の物語である。
さぁ黄昏よ、魅惑的な黄昏よ、きたれ。
千の夜の物語を始めるために。