プロローグ
僕達は禁忌を犯した。
丑三つ時に不法侵入した学校の静寂は僕達を緊張で強張らせ、見慣れた景色を塗り潰した闇は何層にも重りのしかかっている。
廊下を進む足音は反響し、手に持った懐中電灯の光で足元を照らすと、僅かな隙間から迷い込んだ蛾が、大の字になって寝そべりながら羽を蠢かせていた。
真夜中と言うだけで、僕は自分が普段使っている校舎が別世界のように――それこそ廃墟のように不気味に思えてしまう。
それでも僕達は頼りないライトの光で照らしながら、おっかなびっくり進んでいくと、目的地である自分達の教室へと辿り着いた。
ガラガラと音を立てて教室のドアを開けると、見慣れたはずの教室にも関わらず、僕の知らない不気味な静けさに包まれた空間が広がっており、僕は死語の誰も居ない世界へ迷い込んでしまったような錯覚に陥った。
そして僕が感じていた錯覚は、これから行う儀式の邪魔になる机や椅子を教室の隅へ寄せると、より一層強くなった。
「おい、あまり音を立てるな。誰かに見つかったら確実に停学になるぞ」
ガタガタと乱暴に机を動かす事へミツルは注意すると、悪事を働いていると言った罪悪感と緊張が増し、見つかったらどうしようと、言った不安がスリルと共に胸を焦がした。
机や椅子を教室の端へと押しやり、囲まれる形で適当に儀式に必要なだけのスペースを確保すると、みんなの足は自然と教室の中央に集まり、僕は前もって用意していた蝋燭立てを、台に見立てた机の上に置き蝋燭へ火を灯す。それを五セット作り、円を書く様に並べていく。
真夜中の暗闇を照らす蝋燭の火は、ボウっと揺れながら僕達の陰を僅かに作り、薄明りではあるけれども、懐中電灯なしでみんなの顔を見ることが出来た。
今回の企画の立案者であるミツルは正面で腕を組みながら、肝試しに、と言うよりは誰かに見られないかと心配し特に窓の方をチラチラとうかがっていた。
その隣で手を握り合い恐怖に耐えている女子二人はナオコとアヤだ。髪が長くラフなTシャツを着ているのがナオコで、背が小さくスカートを穿いているのがアヤだ。
僕の隣で蝋燭の火を黙って見つめているマコトは眼鏡をかけており、どこか悩み事でもあるのかずっと蝋燭を見ている。
僕は手に持っていた一冊の本を蝋燭へ近付けた。
この本は近所でも薄気味悪いと有名な古本屋から、タダ同然の値段で買った『呪術禁書』と崩れ字で書かれた全体的に胡散臭い本だが、経年劣化による薄汚れた感じが教室の雰囲気とマッチしていた。
古本を手引きに、僕は準備を進めていく。
まずは教室に結界をはるべく、部屋の四隅に盛り塩を、四方の壁には本に描かれていた札の文字を真似た護符を、中央には水の入った洗面器程の大きさをした容器を、それぞれ作業を分担して準備を整える。
さほど時間はかからなかったが、次第にそれっぽい雰囲気が漂い始めた教室は、僕の心に期待と後悔を混ぜた複雑な感情を芽生えさせた。
「これから僕達は呪術の儀式を執り行う。反魂、つまり死者とコンタクトを取る。それにあたっていくつか注意点がある」
僕は本に書かれた注意事項を読み上げていく。
書かれた注意書きはどれも怪談話なんかで耳にする有り触れたルールばかりで退屈だったが、その中の『絶対に話しかけてはならない』と言った項目を読み上げると、みんなの疑問が集中しどよめきが走った。
「おい、タイチ? 俺達は死者とコンタクトを取るんだろ? 話しかけてはならないってどういうことだ?」
ミツルは当然の疑問を口にすると、他の三人も同意見だと言わんばかりに声を揃えた。
僕だって全く同意見だった。だから本を隅々まで読んだり、他の書物を読み漁ったり、ネットを駆使して内容を補完しようとはしたのだが、結局このルールは何を言いたいのか僕にはさっぱり理解が出来なかったのだ。
まるで『こっくりさん』をやってはいいが、こっくりさんへ質問を投げかけてはいけないと言った風な”ルール”に従うと”目的”を達成できない、そんなちぐはぐな設定だ。
僕は上手く説明できる自信がなかったが、ひと昔前に書かれたパソコンのマニュアル本みたく、きっと痒い所に手が届かない、そんな胡散臭いオカルト本独特の注意事項なんじゃないかと、それっぽい理屈を並べて自分の考えを口にすると、みんなとりあえずは納得してくれた。
もともと、みんな本気で幽霊とコンタクトが取れると思っているわけではないのだろう。
こんな本を買っておいてこんな事を言うのもおかしな話だろうけど、僕だって実のところでは幽霊なんて信じてないし、オカルトそのものについては面白いとは思うけれど、どちらかと言えば嘘くさいと思っている。
幽霊の正体みたり枯れ尾花と言った具合に、それっぽい心霊現象にはタネがあるに違いないし、現在の科学では上手く説明出来なくとも、必ずなにかしらの理屈に作用しているに違いなく、おいおい正体的にはその辺りの疑問も漏れなく解消する日が来るに違いない。
だからこそ、少しぐらい辻褄が合わない事が本に書いてあったとしても、そこまでナーバスになる心配はないし、むしろ思い出作りが目的なのだから雰囲気が出てさえすれば、そこそこ楽しめれば多少のルール違反なんて問題ない。
少しぐらいおかしなことが書いてあっても、重箱の隅をつつくような無粋な真似をするだけ場が白けると言うものだ。
僕は一通りルールを確認し、みんなに読み聞かせると、いよいよ実践に映るべく一拍置いてから指示を出した。
「よし、それじゃ、みんな手を繋いで目を閉じて……」
僕の合図に、皆の手が一つとなり教室の中央では輪が形成される。
この輪が『霊を閉じ込める結界』であり、中心に置かれた容器(水鏡と呼ぶそうだけど)が『幽霊を写す』そうだ。
目を瞑る意味は本には書かれていなかったし、僕達の繋いで手が結界なら部屋の四方へ置いた塩と札の意味もどこへ? っと思ってしまったが、きっと何かしら僕の計り知れない次元で重要と位置づけられる意味があるのだろうと、やや無理矢理だが自分を騙して納得させた。
意味があるにせよ、ないにせよ、僕には知りえない事なのだからどちらにせよ同じ事なのだ。
それよりも、こうしてみんなで手を繋いで目を瞑ると言う行為は、実際に真夜中の教室でやってみると中々に恐怖を演出し、僕の感覚は研ぎ澄まされたかのように鋭敏となった気がした。
なにやら背後に蠢く気配のようなものを感じ取り、首筋を視線で舐められるような気持ち悪さに僕はゾクッと体を強張らせた。
目を開けた時に洗面器に知らない顔が映って居たら、と有りえない妄想を広げると波のようなさらに緊張が押し寄せ、ぞくぞくと鳥肌までもが立ってくる。
僕は心の中で十秒程数えると、本の通りに呪文を詠んだ。
「……もういいよ、目を開けても。手は放しちゃダメだけど」
さて、どうなるか、と僕は期待し容器を覗き込んだ。
……だが何も映っていなかった。
蝋燭の薄明りに照らされた水面は、僅かに光を反射し僕達の顔を写すばかりで、そこに霊の顔など写ってはない。
緊張のピークで詰まった息は一転し、安堵の溜息に代わり僕達は弛緩した空気の中で、互いに怖がっていた昔の自分達の姿を指して笑い合った。
「まあ、こんなもんだろ。そこそこ楽しめたし、もういいんじゃねぇか?」
ミツルは言うと手を離し、僕もミツルと同じく満足していたしマコトとアヤの手をいつまでも握っているのも変な話だったので、さっと離した。
「ちょっと拍子抜けしたね。夜の学校に忍び込むのはスリルあったけどさ、これだったら普通に肝試ししてた方が怖かったよ」
「後片付けもしなくていいしな。地味に面倒くさいよな、この儀式」
「でも何もなくて良かったよ。私なんて顔が映ってたらどうしようかって……」
「アヤの正面、マコトだしね。目開けた瞬間『出た!』って思ったでしょ」
アヤは笑いながら頷くと、悪ノリしたミツルが僕の怖がっている顔も傑作だったと笑ったが、ナオコも「ミツルだって青白い顔してたじゃん。真ん前に居る私の身にもなってよ、あれ今日一番怖かったよ」とからかった。
僕は後片付けをしながら感想を呟く声を聞きながら、水の入った容器を持ち窓を開いて外へ捨てた。
一階にある教室は窓の下が水路になっており、水の処理が楽で助かる。
僕は地の利に改めて感謝すると、今まで口を開かなかったマコトが護符と塩を片付けながら、ふと呟いた。
「あれ、ちょっとおかしくない?」
「なにが?」とナオコは返事した。
きっと自分の事をからかわれた仕返しにと、みんなを驚かせようと考えているに違いないと僕は思ったが、マコトの声色は明らかに”何か”に怯えているようだった。
「何がおかしいんだよ? 何も起きなかったじゃねえか」
心配そうに声をかけるミツルがマコトを急かすと、突然アヤが短い声を上げ、その場でしゃがみ込んで震え出した。
僕は訳が分からず慌ててアヤへ駆け寄ると、マコトは「もしかしたら僕の勘違いかもしれないけれど」と前置きを入れた後に説明を始めた。
「僕の前にはアヤが居た。ナオコの前にはミツルが、ミツルの前にはタイチが……これっておかしくない?」
僕は頭の中でそれぞれ五人の位置を思い出して、マコトの説明を聞く。
すると、すぐにマコトが何を言いたいのかわかった。
「なにがおかしいんだよ? 五人居るんだから五人居て当たり前だろ?」
ミツルは再度マコトに確認する。ナオコは震えているアヤの肩を優しく抱きしめていた。
「ほら五角形ってさ……いや、じゃあちょと質問するけど、僕の隣にはタイチとミツルが居たんだ。正面にはアヤ」
僕は頷いた。
確かに僕はマコトの手を握っていたし、アヤの手も握っていた。正面にはちゃんとミツルが居た。
「俺だってちゃんとお前の手握ってただろ? あとナオコの手も。さっきも言ったけどタイチの間抜け面もばっちり見たし」
茶化すミツルは少しでも空気を良くしようと僕を馬鹿にしたのだろうが、みんなの心に芽生えた不信感はミツルの気使いも虚しい響きですらない。
「アヤだってナオコとミツルの手を握ってたんだろ? それだったら……ナオコは?」
「わ、私は……アヤとミツルの手を握ってたよ、ね?」
信じたくないとナオコの声は震えていた。
「でも正面にはミツルが居たんでしょ? 隣で手を繋いでたのも――」
「おい! マコト、もうやめろ、それ以上話すな」
みんなの背がびくりと伸びた。
ミツルが荒げた声にマコトは静かに謝ると、ミツルも気まずそうに頭を下げる。
だが得体の知れない恐怖は消えたわけではなかった。
ミツルの声に顔を上げたアヤは、僕の後ろを指さしていた。
「た、タイチ? その後ろの人……だれ?」
後ろ?
何を言ってるんだ?
僕はミツル、アヤ、ナオコ、マコトの4人の姿が映っている。僕を入れれば5人だ。
他に誰かいるはずがない……。
僕は振り返って確認する。ひょっとした窓の外に誰か居るかもしれないと思ったのだ。
窓の外に誰か居るとなれば、もうそれは確実に騒ぎに駆け付けた見回り当番の先生だろうし、それはそれでマズイ事態には変わりないのだが、僕達が共有している得体の知れない恐怖を拭えるなら、むしろ願ったり叶ったりの有難い展開だ。
だけど――
「誰も居ないじゃないか。おどかすなよ」
僕の後ろには、僕達を飲み込むような夜の帳と、気持ち悪い生暖かな風が吹くばかりで、アヤが見たと言う人影はどこにもいなかったのだ。
「なあ、アヤ? 見間違いじゃないのか、誰もいないぞ」
僕はアヤを怖がらせないように優しい口調で聞き返したが、ミツルがぴしゃりと「これ以上この話はやめだ。早く帰るぞ」と率先しだしたので僕達は、胸に去来した未知の体験と恐怖を押しやりながら、それぞれの帰路に着いた。
別れ際に交わした挨拶は、今思うと知らない声が一つ混じっているような気がした。