遺書のようなもの もしこれを読んだあなたが私のことを、彼女のことを知っているならどうか彼女に愛していたと伝えて。渡しそびれたままの誕生日プレゼントが心残りだと、伝えて欲しい
その猫の一番古い記憶は、病院でベッドに縛り付けられていた自分の姿だった。
二番に番目に古い記憶は、なにやら言い争いをしている飼い主たちの姿だった。
それ以降の記憶は、順番がはっきりしない。雑然とした記憶が安定した思い出になるのは、田んぼばかりが一面に広がるのどかな風景からだ。
詳しくは覚えてない。飼い主の男のほうが病気を患い、その療養のため長期間故郷に帰らなければならなくなったことと、男と夫婦であった女と二人に飼われていた私が、それについていく形でコンクリートと排気ガスの充満する町からこのドの着く田舎に引っ越すことになったこと以外。
はじめ猫は戸惑うばかりだった。慣れ親しんだ埼玉の町と、新たに住むことになった町はあまりにかけ離れていた。少し道をそれると田んぼ、ちょっと裏道に入ると田んぼ。おまけに町中の人間が妙になれなれしく少し怖かった(貰える餌は遠慮無く貰ったが)。野良たちとの会話もなかなか難儀だった。発音の違いからか、時々何を言っているのかわからず、無意味に喧嘩になったりもした。それに関しては猫をこの町に連れてきた飼い主の女のほうもそうだったようで、よく男のほうが間に入って通訳したりしていた。
あれこれ苦労はあったが、猫は次第にその町に流れる空気が心地よく感じるようになった。もともと物心つくかつかないかの微妙なタイミングだったことも合って、特に郷愁に駆られることも無く、猫はすんなりその町と野良たちの中に溶け込んだ。対して飼い主(女)のほうは、猫の目にも明らかに無理をしているのが見て取れた。
東京生まれ関東育ちの彼女にとって、熊本のど田舎はそこそこに異世界だったのだろう。
猫は飼い主たちのことが好きだった。餌をくれ守ってくれるからということだけではなく、家族として、幸せになってほしいと思っていた。けれど所詮猫にはどうすることもできず、私は二人の想いを受け取って幸せに生きていますと全身で表すことしかできなかった。あるいは、そんなことをしなければ、もっといい方向に進んだかもしれないが、それはもうどうしようもない。
住む場所を移してから数年たったころ、猫には特別な相手ができていた。思いつきで少し遠くの公園まで散歩に出かけたところ、日陰で休んでいた猫を野良と間違えてパンだの水だのを持ってきて、餌やったんだから撫でさせろと言わんばかりに体中を撫で回したその少女は、聞いてもいないのにカスミと自ら名乗った。
猫が公園に行くたび、どこからとも無く現れては餌と引き換えに頭だの背中だのをを撫でる。最初は鬱陶しかった猫も次第に慣れて、公園に着くと真っ先に少女を探すようになった。
ある日のこと、いつものように家を抜け出して公園に行くと、珍しく少女のほうが先に公園に訪れていた。ベンチに腰掛けた少女は、ぼんやりと空を眺めていた。近寄ってもまるで反応が無い。それがなんだか面白くなくて、脅かしてやれとひざの上に飛び乗った。のだが。大して驚くでもなく、少女はそっと、猫の背中を撫でた。その手はいつもの遠慮の無いものと違ってひどく優しく、まるで壊れやすい何かをいつくしむようで、恐る恐るといった感じだった。なぜかはわからなかったが、少女が何かを悲しんでいることだけはなんとなくわかった。
背中を撫でながら、少女はひどく美しい声で歌った。流行の曲ではない、懐かしい響きのそれは猫の耳にも心地よく、気づかぬ内に猫の意識は眠りの中へと溶けて行った。
その日を境に、猫は少女のひざの上で昼寝をするようになった。前のように餌をもらうことはなくなったが、その時間は何物にも変えがたい大切な時間になった。猫は思った。カスミも家族の一人になれたらいいのに、と。あの二人に願ったのと同じように、この少女も、幸せになってくれればいいな、と。
ある日、それまでと同じように少女との時間を満喫して、そろそろ帰るかとひざの上から飛び降りた猫に向けて、カスミが「またね」と手を振った。これまでも何度か話しかけてくることはあったが、別れ際に声をかけられたのは初めてだった。猫はそれに対して一声「にゃぁん」と鳴いて、我が家へ向けて歩き出した。
帰り道の途中、猫は遠くのほうで救急車のサイレンが鳴るのを聞いた。その日以降、少女が公園に姿を見せることは無かった。
少女が公園に現れなくなるより少し前から、家の中の空気がほんの少し歪んでいるのを、猫は鼻先とひげで感じ取っていた。猫の目から見ても馬鹿みたいに幸せそうだった夫婦は、しょっちゅう喧嘩をするようになった。二人が猫の目を避けて、出来るだけ気づかれないようにしていることも知っていたので、猫は気づかぬ振りを決めこんで、ごろごろとのどを鳴らした。
とはいっても飼い主二人には仲良くしてもらいたいものである。猫は猫なりに、芸を身に着けたり、二人の前でわざと情けない姿をさらして何とか笑って貰おうと努力した。けれど、空気はよどむ一方で、喧嘩の頻度もじりじりと増えていった。少女が公園に姿を現さなくなったころには、それを隠そうともしなくなっていた。
ある日、猫は「二人で育ててきたあの子がいるから我慢していたけど、それももう限界」と泣き出す飼い主(女)の声を聞いた。自分は何をしていたのだろう、何をしてしまったのだろう、と猫は誰にも気づかれないようにそっと泣いた。
唐突だった。飼い主(女)は、夕方散歩から帰った猫の首根っこをつかんで(子猫ならまだしも、体の大きくなった成猫はそこそこ痛いのでまねしないで欲しい)ケージに放り込むと、ほぼ何の説明もなく家族ぐるみで仲のよかった友達の家へと駆け込んだ。何の説明も無かったが、猫は「いよいよか」と死刑の判決を受けたような気分になった。
実を言うと、このときの猫は少し自暴自棄になっていた。家族になりたいと思った少女は姿を消して、幸せになってほしいと願った人たちから昔のような笑顔が消えて、どこを見ても幸せなんて無いような、そんな気分に頭の先から尻尾の先まで包まれていた。
転がり込んだ先の家の人たちは優しかった。飼い主(女)の世話はもちろん、猫のことも気にかけて、心配してくれた。とてもありがたかったけれど、申し訳ないような気もした。そのせいか、ごはんを貰っても下したり吐いてしまったり、夜になってもあまりよく眠れなかった。
そんな生活がしばらく続いて、いつまでこうしているんだろうと不安になり始めた矢先、飼い主(女)が私を抱き上げて言った。「埼玉に帰ろうと思う」「残るかどうかあなたが決めてかまわない」。いくら芸を覚えたといっても、いくら知識を増やしたといっても所詮は猫。決めろといわれても選べるわけが無かった。選びたくなど無かった。
それでも、「何度も環境を変えるのはかわいそうだ」と猫のために、もっと早くに選べたはずのものを今日まで先延ばしさせて我慢させた人を見捨てるわけにはいかないなと思った。半分は失敗してしまったけど、残りの半分はどうにか幸せに出来たらいい。どうせここにはもう、大好きだった少女もいないのだから。そう言い聞かせて、猫は再び埼玉へと戻ったのだった。
ぼんやりと日々を過ごしていた。時々、大好きだった少女のことを思い出した。家族がそろっていたころのことを思い出した。猫がどうこうするまでもなく、そのころの飼い主たちは、自分自身は、幸せだった。相変わらず、夜はなかなか寝付けなかった。窓の外が白み始めてようやく眠りにつける。目を覚ますと昼近くになっていることもざらだった。餌は変わらず好きだしおいしかったが、しょっちゅう下す妙な癖がついてしまっているようだった。
それでも日々の生活はそこそこだった、自分、あるいは相手が忘れてしまっていることもあったが、熊本に行く前の知り合い(猫)は再びいい仲間になった。それでも外にはほとんど行かず、手の届く範囲のことをゆるゆると弄ぶばかりだった。
どうにかこうにか毎日をやり過ごす中、猫にひとつの出会いがあった。埼玉へ帰ってきてから二年ほどの時間が流れていた。その中で参加するようになった猫集会の中にその子はいた。あまり目立つ毛並みではなかった。あまり目立つ体型でも無かった。ほかの猫と比べても小柄であらゆる面で目立たないその猫に、気づいたときにはすっかり心を奪われていた。
眺めているだけで満足だった、というのは強がりで、出来ればもっと仲良くなりたいと思はないでもなかったが、その都度過ぎるのは大好きな人たちのために何も出来なかった自分自身のこと。突然消えてしまった少女のこと。
猫はすっかり臆病になっていた。自分に出来ることの少なさにただ絶望していた。よってそれ以上自分からはなにも出来ず、芽生えてしまった好意に首輪をかけて飼いならすことに決めた。
しかしなんとも現金なもので、好意が芽生えてからというものいろんなことが以前より明るく照らされるような感覚に当てられて、それまでより生活が健康的になった。帰ってきてからは億劫で仕方なかった散歩にも自然と足が向くようになって、仲間の猫から再三呼び出されても五回に一回ぐらいしか参加しなかった猫集会にも毎回参加するようになった。
あの子と話せた日の夜は何も無い日よりはいくらか早く眠ることが出来るようにもなった。
そんな日々が一年ほど続いた頃、猫集会が解散されることになった。理由はもろもろあったが、一番の理由は周辺の野良の数が激減したことだった。飼い猫でありながら集会に参加している猫はごくわずかで、事故にあってしまった猫は言わずもがな、野良でも拾われたりどこかの家に居つくようになった猫は大抵、集会には参加しなくなる。加えて野良化する猫自体も減ってきたこの町内では、集会を開く必要性もきわめて薄くなっていた。集まる猫の数が減れば当然、集まる情報の量と質も下がる。そのために危険な道路を渡ろうとして事故にあっては元も子もない。これが、長猫の出した結論だった。
大好きな猫と会えなくなるのは寂しかったが、それ以外に反対する理由もなく、ほかの猫たちからも特に反対が出なかった(というかただでさえ少ない猫の半分ぐらいは途中から毛づくろい始めてた)ため、猫が熊本に引っ越すよりもはるか昔から続いてきたという集会はその日を持って解散となった。
夢を見た。飼い主夫婦が離婚を決めた後、荷物を取るためにと一度だけ猫を連れて家に戻った日のことを。ほとんどぼやけてしまっていた世界の中で、飼い主(女)と飼い主(男)の目はどちらも猫のことなど見てはいなかった。猫は悟った。飼い主(男)が大切にしたかったのは、手放したくなかったのは、家族なんてものではなくて、飼い主(女)ただ一人だったのだ。それでも、彼には義務的に支えなければいけない人たちがいて、この関係でははじめから、幸せになどなれなかったのだと。自分の存在は、いたずらに飼い主(女)を苦しめていただけだったのだと。自分さえいなければ、飼い主(女)はもっと簡単に飼い主(男)との関係に見切りをつけられたのだ。たどり着く幸せなど、はじめからどこにも無かったのだ。
また眠れない夜が続いた。
このまま消えてしまいたいな、ぼんやり思った。猫らしく、誰にも見られないところで、何も願わず、何も望まず。眠れない夜の中でそんな思いがよぎる中、唐突に窓ガラスを引っかくような音がした。窓に視線を向けても何もいない。気の所為か、と再び天井に視線を戻した。再び窓ガラスを引っかくような音。加えて聞き覚えのある鳴き声。今度は体を起こしてみた。気のせいなどではなかった。窓ガラスのその向こう側に、何度も夢に見た君がいた。小柄な体を震わせながら、ずっと好きでしたと、君は言ったのだ。そのときの僕の混乱と喜びは、君にはきっと永遠に理解できないだろうね。だってそうだろう。僕自身でさえ、それを的確に表現できる言葉も何も、見つけられていないのだから。
その夜から、猫と猫(ミィという名前だった)は家族の一歩手前、恋仲になったのだ。不安を上げれば切りが無かった。それでももう一度、今度こそ自分の大切な人たちを幸せにするためにできる限りのことをしようと猫は心に決めた。
猫はとにかく不器用だった。初めてのお付き合いということももちろんあったが、それ以上に感情表現が苦手だった。せめて好意だけは伝えようと必死になった結果ちょっとうざがられたりもした。それでも、愛されていないと勘違いさせて寂しい思いをさせることだけは避けたかった。不安にさせないように、いろんなことを笑って許せるような猫になろうともした。そのせいで怒らせてしまうこともあった。嫌われたく無かった。そばにいるときに安心してもらいたかった。ミィが隣にいるときだけぐっすりと眠れる猫自身が居るように、彼女のことを思い浮かべると、一人の夜でも幸せな眠りが訪れてくれるように、ミィにも自分のことを思い浮かべて安らいでもらえる猫でありたかった。
猫はとにかく不器用だった。加えて馬鹿だった。どうしようもなく。苦しいときにさえ、誰にも相談しようとしなかった。弱みを見せることを嫌がる彼女に、助けてなんて言えなかった。猫自身も、弱みを見せたくなかった。大好きな相手に嫌われたくなかった。ただそればかりだった。
そんな馬鹿猫だったから、結局最後に我慢が変なタイミングで噴出して、よりにもよって一番大好きな人にぶつかった。
猫はまた一匹になった。
彼女のことを思い浮かべると涙が止まらなくなった。体中の水分が涙に変わっていくような気がした。このまま干からびて死んでしまいたいと思った。夜はやはり眠れなくなった。彼女のことを考えないと寝付けない、考えると涙があふれてとまらないのだからどうしようもなかった。たまに疲れ果てて気を失うように眠る日があった。そんなときは決まってひどい夢を見た。時々彼女の事を夢に見て、泣きながら目を覚ますこともあった。
そんな日が二月ほど続いて、猫は時々恐ろしい妄執に取り付かれるようになった。自分以外の誰かが彼女に触れることが耐えられない。そんな未来が来るぐらいならいっそ今のうちに殺してしまおう。ほんの一瞬ではあっても、その瞬間だけは名案だと本気で考えてしまうのだ。そしてそれが少しずつ大きくなっていることにも、猫は気づいていた。
その日は、気晴らしに散歩でもしようと外に出ただけだった。しばらく歩いて、公園のベンチで休憩。
気づくと、猫は彼女の家の前で立ちつくしていた。見覚えの無い、大きな刃のついたカッターナイフを咥えて、彼女が居るであろう部屋を、睨み付けていた。
夢だと思った。いつも見る悪夢がよりによって最悪なものを見せてるんだと。
けれど違った。
猫は確かにそこに居た。
冷たくなり始めた風の中で立ち尽くしていた。
震えることもなく、ただ一点を睨んだまま。
どうやってそこまで行ったのかはわからない。
時間から逆算すると歩いてここまで来たようではあったけど。
猫の中にここまでの記憶は無かった。
恐ろしくなった。このままではいつか本当に。
おかしくなり始めた猫に近所の野良猫が「ミィが会って話をしようといっている」と猫に伝えた。そんなこと出来るはずが無かった。もし顔を見た瞬間にまた同じことになったら?カッターが無くても爪で、牙で、のど元を噛み千切るかもしれない。正気に戻った目の前に彼女の死体が転がっているかもしれない。そんなことだけは何があっても避けたかった。
飼い主達の幸せをだめにしてしまったと気づいたとき、猫は死んでしまいたいと思った。あのときにそうしておけば、ミィは八年もの時間を無駄にすることもなく、飼い主の負担になることも無く。二人とももっと簡単に幸せになれただろう。とんだ思い上がりだった。こんなポンコツが何をしたところで誰も幸せになんてなるわけなかったんだ。少しでも早く消えてしまうことが何より、みんなが幸せになれる近道だったんだ。
猫らしく、最後は自分が一番安心できる場所で。ミィの腕の中が理想だったけど、それはもう叶わないから。
誰の声も届かないこの場所で、猫は死ぬことにした。