755.黙示録の竜(side:ニーナ)
獣人の少女ニーナは、従魔である玉兎と共に、城の壁に穴から外を見守っていた。
魔王バアルと竜の戦いは佳境へと入っていた。
魔王バアルは蜘蛛から猫へと姿を変えていた。
高速で飛び交い、消えては現れる魔王バアル。
そしてそれと正面から対峙する竜の動きは、もはや肉眼でまともに追えるものではなかった。
「凄い……もう、何が何だか……」
ニーナは玉兎へと抱き着きながら零す。
竜狩りヴォルクはニーナ達とは離れ、バアルの眷属狩りへ奔走している。
人の集まっているアルバン王城を中心に活動しているはずだが、今ニーナ達の傍にいるわけではない。
震えているニーナの頬を、玉兎の長い耳が撫でる。
「にゃ……! タマちゃん、何を……」
『ニーナ……アノ竜……砂漠ノ……』
「えっ」
ニーナは玉兎の〖念話〗が何か伝えるのか逡巡し、すぐその意味を理解して口を押えた。
「ほ、本当なの、タマちゃん!?」
『間違イナイ……〖念話〗デ思考ノ波……拾エル』
ニーナも微かに、空で暴れる竜に懐かしさを覚えるとは感じていた。
しかし、本当にまさか、砂漠の地ハレナエで自身を助けてくれた、あの竜だとは思っていなかった。
ただ、自分があの竜を見たときの不思議な気持ちが、玉兎の言葉の裏付けとなっていた。
しかし、考えてみれば一致していた。
何故か人間の味方をして、砂漠の地で悪さをしていた勇者を討伐した邪竜。
そして今、アルバン王国から世界を滅ぼそうと暴れる古の魔王を討つべく現れた邪竜。
「本当に、ドラゴンさんが……」
ニーナは息を呑み、竜と、魔王バアルの激戦へと再び目線を移す。
激戦の中、大地が揺れ、砂嵐を舞う。
両者まともに肉眼で追える動きではなかったが、ニーナは手を握り、死闘の行く末を見守っていた。
「ドラゴンさん……頑張ってくださいにゃ……」
やがて竜が、地面に叩き伏せられる。
魔王バアルはくるくると空中で回転しながら、優雅にその場へと着地した。
優劣は見て明らかであった。
必死に立ち上がろうとする竜を、魔王バアルはトドメを刺すわけでもなく、ただ嘲笑うように見下していた。
「ぺふ……!」
玉兎がニーナの腕を抜けて、城の外へと向かおうとする。
「タマちゃん……!」
ニーナは立ち上がって玉兎の後を追う。
『白魔法……使エル』
「む、無謀にゃ……気持ちはわかるけど、でも……」
どうやら玉兎は、竜を追い掛けて魔法で少しでも体力を回復させるつもりのようであった。
あまりに危険である。
道中にはまだまだバアルの眷属の蜘蛛達が蠢いている。
そもそもあんな巨大な竜が、玉兎一匹の白魔法でまともに体力を賄えるはずがない。
「ドラゴンさんだって、そんな危険なこと、きっとタマちゃんに望まないよ……」
『デモ……!』
そのときであった。
奇妙な音色が、王都アルバン中に鳴り響いた。
鐘のような、ラッパのような。
聞き覚えがあるようで、これまで聞いた何とも決定的に違っている、奇妙な音色であった。
音色と共に、竜の身体より、黒い光が漏れ出ていく。
空気に混じった光は、小さな渦を巻きながら溶けていく。
「もしかして、あの光が……?」
ニーナが呟いたそのときだった。
起き上がった竜は、これまで以上に機敏な動きでバアルを叩きのめし、空中に跳ね上げたかと思えば魔弾をお見舞いする。
先までの瀕死の様子とは明らかに違っていた。
飛び飛びでしか追えないが、竜の優勢へと明らかに傾いている。
「すごい、ドラゴンさんが、盛り返して……!」
『違ウ……カモ』
玉兎が漏らす。
「えっ……」
『凄ク、嫌ナ感ジ……ヤッパリ、違ッタ、カモ……』
「ド、ドラゴンさんじゃ、ないってこと……ですかにゃ?」
ニーナが恐る恐ると尋ねる。
玉兎は迷いを見せながらも、弱々しく頷いた。
その直後、竜が跳ね飛ばした巨大な瓦礫が、高速で王都アルバンの方へと飛来してくる。
「ひにゃっ……!」
ニーナが悲鳴を漏らした刹那、瓦礫が空中で静止する。
ゆっくり目を開けば、瓦礫のこちら側に、何か光の塊のようなものが貼り付いているのが見えた。
「あれは……?」
「妾の〖幻砂の帳〗だ。被害を抑えるため……衝撃が強い程に抗力を生じさせる、視認できない魔力の粒を周囲にばら撒いておいた」
いつの間にやら、一人の女が、壁に空いた穴の縁へと立っていた。
長い黒髪の、切れ長の目をした人物だった。
見慣れない、民族衣装のようなものを纏っている。
『ニーナ……コイツ、魔物!』
玉兎がニーナの前に飛び出し、両耳を構える。
「獣人と……ただの低級モンスターか。案ずるでない、そなたらに害意はない。奥に引き籠っておいた方が安全であるぞ」
「あ、あなたは……?」
「あの竜の味方……であったが、少々話が変わってきたな」
女は竜の方を振り返ると、フンと鼻を鳴らす。
「あやつこそ神を倒せる器かと思っておったが、余計なスキルを使いおって」
『ドウイウコト……?』
玉兎が問う。
「この音を知らんか? 聖神教が恐れる……世界の終わりを告げる音色だ。奴はあの化け猫を倒せれば、この世界がどうなってもいいと考えておるらしい。この世界が滅べば、神どころではなくなるのというのに」
女が答える。
ニーナも一応はアルバン王国で暮らす中で聞いたことがあった。
ただ、それは、ただ聖典の一節の解釈の一つに過ぎないはずだ。
少なくともそれが目前で起ころうとしているとは、とても信じられなかった。
「奴は体力が尽きるまで正気を失ったまま暴れ続ける。唯一の救いは、奴が瀕死の状態であることか。ただ、聖典の記述の多くは、過去と未来を見通すラプラスの予言を再解釈したもの……だとすれば、世界がここで滅ぶのは、抗えぬ決まったことなのかもしれんがな」
疲れたように女が溜め息を吐く。
「まさかドラゴンさんを、殺すつもりですかにゃ……?」
「そうできればよいのだがな。見よ」
女が手で外を示す。
ニーナがその指先を追えば、竜と魔王バアルの決着がついたところであった。
体液に塗れて倒れる巨大な猫の前で、竜は邪気を纏って立っていた。
相変わらず、奇妙な楽器のような音色が辺りに響き渡る。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
続いて竜の恐ろしい咆哮が木霊した。
大地が震える。
『世界……滅ボスツモリミタイ……』
玉兎が弱々しく漏らす。
どうやらそれが本気であるらしいことは、先の恐ろしい咆哮を聞いたニーナにも理解できた。
「おいウムカヒメ……アレはなんだ! イルシアはどうなっておる!」
突如、怒声が響く。
ニーナが目をやれば、その先には銀髪の剣士ヴォルクが立っていた。
苛立った顔で黒髪の女……ウムカヒメを睨みつけている。
その傍らには、蜘蛛の下半身と、人間の上体を有する魔物の姿もあった。
「竜狩りか。分かれていたアトラナートとも合流したようだな。最強の魔物……バアルはイルシアが討伐した。ただ、我々はその代償を支払わねばならんようだ」
「なんだと……?」
「スキルによる暴走だ。このままでは奴は、ラプラスの予言通りにこの世界を滅ぼし尽くす。妾とそなた……そこのアトラナートで、瀕死の奴を殺めるしかあるまい」
「我がそれを呑むと考えているのかウムカヒメ」
ヴォルクが剣先をウムカヒメへと向ける。
「だとすれば世界諸共心中するだけだ。神とラプラスは別物……どこまで予期していたかは怪しい。だとすれば、奴を滅ぼすに至らずとも……この結末も丁度いい意趣返しかもしれんな。ミーア様の目的もある意味果たされたというべきか」
ウムカヒメが肩を竦める。
「貴様……!」
「見よ、竜狩り」
ウムカヒメは再び視線を竜へと向ける。
ニーナやヴォルクは、それに釣られて視線を移した。
「オオオオオオオオオオッ!」
竜は雄叫びを上げながら、自身の頭を押さえつけている。
ただ、全身を小刻みに震えさせており、今すぐにでも暴れ出しそうな様子であった。
「すぐに自我を失った奴が暴れ狂う。あの戦い振りを見たか? 今の奴は、1%でも体力が残っておれば、この世界の全てを相手取れるだけの力を持つ。自我が完全に溶けたときが世界の最後だ。抑え込めている内に、我々が殺してやる他ない」
「ここまで来て、そんな馬鹿な話が呑めるか……!」
ヴォルクが殺気立った様子で返す。
「よく考えよ、竜狩り。奴さえ倒せば、妾にとっては不本意だが……この世界の住人にとっては、今代の神聖スキルを巡る戦争……その最も無難な落としどころになる。神へ挑むなど、結局のところ何が起きてもおかしくはない愚行だ。新たな神の器は絶え、神の手駒もリセットされる。また夥しい年月、奴の支配の許とはいえ、生きながらえることができるのだ。案外、悪い話ではなかろう」
ヴォルクは床へと剣身を突き刺し、その場に座り込むと目を閉じた。
「何を考えておる?」
「イルシアは我が最も信頼を置いた友だ。奴を斬るくらいならば、世界と共に沈む方を選ぼう」
「愚か者め。その奴が、望まんと言っておるのに。妾とて激情を呑み最適解を説いているのだと理解しろ」
両者の間に険悪な空気が広がる。
ニーナには話していることの意味はほとんど理解できなかった。
ただ拾い拾いで、一応の大まかな状況だけ辛うじて把握できていた。
そしてどうやら、本当にあの竜は自身の知っている竜で、玉兎が悩んだのも、何かしらの要因による暴走で、心が乱れているためなのだ、と。
「あ、あの……ご提案が……」
「獣人の小娘、今そなたが口を挟むような場面ではないとわからんか?」
「ドラゴンさん……私の、知り合いかもしれないんです。えっと、それで……今って、ドラゴンさん、暴走を自分で抑え込めているんですよね? じゃあ私達で呼び掛けたら、どうにか正気に戻ってくれたりしませんかにゃ……?」
「くだらん希望的観測だ。世界が懸かっておるのだぞ」
ウムカヒメはそう返した後、ふと顎へ手を添える。
「しかし……ラプラスは時折エラーを吐く。ミーア様も口にしておられたことだ。あれが人の強い感情に由来するものだと考えれば、或いは……」
「可能性はあるんですかにゃ!」
「む……まぁ、元より分の悪い戦いだ。いや、しかし……」
ヴォルクが勢いよく立ち上がり、剣を構えた。
「いいだろう、それならば手を貸してやる! 獣人の女……我とアトラナート、ウムカヒメが足止めしつつ、お前をイルシアの許へ運ぶ! 顔見知りだというのならば、お前にも手を貸してもらうぞ!」
「わ、私にも!? い……いえ、やりますにゃ!」
「よし、よくぞ言った! 名はなんという!」
「ニーナですにゃ!」
「ぺふぅっ!」
ニーナに続き、玉兎が『自分もついていく』とアピールするかのように両耳を上げる。
「よし、ニーナとペフだな! 時間はない、ゆくぞ!」
ヴォルクが王城の外へと駆け出していく。
「いえ、あの、別にこの子の名前はペフじゃ……」
そのとき、ニーナと玉兎の身体がふわっと持ち上がり、蜘蛛の魔物……アトラナートの背へと移された。
アトラナートが糸で二人を持ち上げたのだ。
「時間ガナイ。行クゾ」
アトラナートが片言で二人へと話す。
「は……はいですにゃ!」