676.とある少女と神罰(side:ミリア)
空から黒い雨が降り注いでくる。
ただの水じゃない。
私は空へと杖を掲げた。
「〖クレイシールド〗!」
〖クレイシールド〗は土の円盾を造り出す魔法だ。
ありったけの魔力を込めて、とにかく分厚く、大きい土の円盾を造り出した。
直径二メートル近くになった。
ここまでのものを造り出せたことは練習でも一度もない。
「よし、これで……!」
私は杖を捨て、落ちてくる円盾を支えて、傘のように用いる。
押し潰されそうになったが、滑り込んできたメルティアさんが支えてくれた。
「ば、馬鹿者、ミリア! 私が遅れれば、そこの御老人諸共潰されていたぞ!」
「ごめんなさい……。でも、あの雨、とてもただごとには思えなくて……」
黒い水が豪雨の如く降り注ぐ。
跳ねた液体が、私の衣服や顔に掛かった。
掠めただけで、頭痛と吐き気がした。
「なに、この水……」
私は服に付着した黒い液体へと目をやった。
周囲から苦悶の叫び声が飛び交った。
直撃を受けた人達は、皆苦しげに喘ぎ、全身が黒ずんであっという間に動かなくなっていく。
直撃した人達が既に死んでいることは明らかだった。
身体が黒く、硬くなっている。
「こ、こんな……なんで……」
黒い雨は聖都中心の方が勢いが強いが、端の方まで降り注いでいる。
聖都の屋外にいた人間、その大半が今の雨によって命を奪われたのではなかろうか。
天使像の首の断面の上に浮かぶヨルネスは、私がこれまで見てきた常識の外にいる化け物だった。
「ミリア、建物の中に逃げ込むぞ! 〖クレイシールド〗もいつまで持つかわかったものではない! 盾は私が支える! 御老人を連れていけ!」
「は、はい!」
私はお婆さんの背を押さえながら移動し、建物の中へとどうにか逃げ込んだ。
黒い雨自体は数分の内に止んだ。
私は上がり込んだ建物の窓から、空に浮かぶヨルネスを睨んでいた。
外には、全身が黒くなり、身体が縮んだ亡骸が無数に転がっている。
今の黒い雨で……一体、何十人、何百人が亡くなったというのだろう。
あんな化け物がいたら、聖都はお終い……いや、リーアルム聖国に限らず、この世界が終わるのも時間の問題だ。
「クソ……! せめて、聖女リリクシーラと聖騎士団がいれば……!」
メルティアさんがそう言って壁を叩く。
「もし聖女リリクシーラがいても、今の攻撃に対抗できるかは……」
今のヨルネスの攻撃を見るに、彼女達がいてどうにかなる範疇をとっくに超えているように思う。
「な、何を言っている、ミリア。勇者や聖女は、元々魔物の王を討伐するために世界に生まれ落ちる存在なのだぞ。ただの人間一人、どうこうならないわけがない。それに聖騎士団長のアレクシオは、世界最強の武人と謳われている。私達がアルバンで見た、あの竜狩り以上の剣士だぞ! あんなヨルネスの紛い物……!」
自分を鼓舞するためか、メルティアさんは不安げに震える声を、大きく張ってそう口にした。
「あれは、本物のヨルネス様だよ。幾千年のときを経て……聖神の御許から、現世に帰って来られたんだ」
お婆さんの言葉に、メルティアさんが唇を噛む。
「まだ言っているのか! 本物の聖女であれば、何故こんなことをする! 御老人、外を見よ! あの亡骸の数を! 私達も、ああなるところだったのだ!」
「……旅の剣士様や、ヨルネス様は、歴代最強の聖女として名を遺している。彼女でなければ、一体誰にこんなことができると思いますか? 恐ろしい所業ではありますが……それこそが、彼女がヨルネス様であることの証明のようなものです」
お婆さんも蒼褪めた表情をしていた。
彼女とて、今なおあの空に浮かぶ怪人を崇めているわけではないのだ。
ただ、怪人の圧倒的な規模の魔法を目にして、ヨルネス以外の誰かであるとは考えられないだけで。
外を見れば、ヨルネスが手を組んで目を瞑っていた。
また何かをするつもりなのだ。
「これ以上……いったい、何を……」
「〖ニルヴァーナ〗」
ヨルネスを中心に赤い光が広がっていく。
カーテンを閉めるのは間に合わなかった。
私は眩い光を前に、手で顔を隠すのがせいぜいだった。
そうして急いで目を開いたとき……外には、地獄のような光景が広がっていた。
「ミ、ミリア、大丈夫か! 今、何か……魔法を受けて……!」
「そ……外の、人達が……」
「外? 外にはもう、生存者はほとんどいなかったはずだ。いったい、何を……」
メルティアさんは慌てて窓へと近づいてきて、外の様子を見て言葉を失った。
黒くなった亡骸の背を引き裂き、奇怪な化け物が中から這い出ていたのだ。
これまで目にしたことのある魔物とも明らかに違う、異様な風貌をしていた。
全身は白く、体表は硝子のようにつるりとしている。
輪郭としては人間に似ているのだが、人間の姿とは明らかに異なる。
細かい特徴は個体によって異なるようで、顔が崩れていたり、頭部が四角であったり、腕が異様に細長かったり、目が六つあったりする。
その姿は人の面影を持ってこそいるものの、存在そのものが現実離れしている。
どこか人工的で、まるで抽象画から抜け出してきたかのようだった。
顔は仮面を付けているかのように全く表情が変化しない。
「嘘、こんな……あ、有り得ない……夢……」
目前の状況に、頭が追い付かない。
私は頭を押さえ、その場にしゃがみ込んでしまった。
メルティアさんもまた、外を眺めたまま茫然と立ち尽くしている。
「ど、どうなっている……? 外の人の死体が、全てあの化け物になったというのか?」
恐らくはあの〖ニルヴァーナ〗という魔法が、範囲内に存在する全ての人の亡骸を化け物に変えてしまう力を有しているのだ。
だとしたら、この聖都で数百もの数の化け物が、今の瞬間に誕生したことになる。




