可能性論
可能論議
やればできる、という言葉がある。対義語はやってもできない、類義語は僕はまだ本気出してないだけ、である。対偶はやらないからできない、といったところか。
良い言葉だ。対象の可能性を信じる言葉である。今出来ていないのは、やっていないからであって、できるだけの能力がないわけではない、という意味だ。それが何割程度真であるかはともかく。
声援として、発破をかける意味で言う言葉として、これより相応しい言葉はそうそうないだろう。お前はやればできる、やれば成功出来る、やる気になればどうにかなる。無責任に保証のない未来を決めつける。まあ、別に悪いことじゃない。そうやって行動したら、本当に成功するかもしれないし。行動しない内は可能性はゼロなんだから、万が一でも可能性がある方に動くべきだ。
だが、これを自分に対して使う奴は大体屑だ。特に、行動しないで言う奴。実際行動して出来ないって証明されるのが嫌で動かない奴。まあ、実際程度の差はあっても結構ある事だと思う。明日やるって言ってその明日が今日にならない奴と同じ。よくいるだろ、明日からダイエットする、とかいってスイーツ()貪ってる豚とか。痩せたら可愛くなるvとか。そういう奴って大体痩せないんだよな。
まあ、己の可能性をどれだけ浪費してもそれはそいつの勝手だし、他人に迷惑をかけてる訳じゃなきゃ別にいいと思う。己に可能性なんてない、って卑屈になるよりはマシなんじゃないか、多分。
ところで、ルナってやつはルナシーの願望を叶えるものだ。ある程度具体的な形がないと上手い事叶えられないこともあるが、ルナは狂気であり夢であり安心毛布みたいなものだ。
此処で問題。俺はやればできる、と言いながら心の奥底でやっても出来ない事を危惧してる奴がルナシーになったらどうなるでしょう?
まあ、基本的にはその願望は叶う。具体的なビジョンがあって自己完結してるものならほぼ確実に。でも、その願いが自己完結していない場合はわからない。努力じゃどうにもならない事ってのもある。人の感情ってやつがその代表格。簡単に言うと、どんなイケメンでも好みじゃないって振られる可能性はあるって事。別に俺の実体験ってわけじゃないが。
ルナシーの願望を叶えられないルナというのは、あんこの入ってない鯛焼きみたいなものである。腹は満たせるかもしれないが、鯛焼きとしてのアイデンティティに疑問符がつく。その狂気を具現化し精神を安定させても、ルナシーの望みを叶えられないルナは存在意義の半分を喪っているようなものだ。だから、ルナもルナシーも安定性に欠ける事が多い。まあ、中には願望が叶わない事に安住してる変態もいるわけだが。
ルナシーの可能性というのは、即ちソウゾウリョクだ。想像力であり創造力。ルナは、ルナシーの想像力が追い付けばある程度のことはできる。欠片持ちであれば神に至ることさえ可能だと言えばわかるだろうか。まあ、欠片はそう簡単に手に入るものでもないが。
だから、本来その人間が持ちえない可能性さえ、ルナはその手を届かせることができる。やればできる。やはり良い言葉だ。その根拠のない自信が素晴らしい。いや、言ってる側にはあるのかもしれないが、現実に観測されていない事象の成否なんて決めようがないのだ。未来は不定でも過去は固定だけれども。
ルナシーは、出来ないと思っていることはできない。致命的にできない。出来ないと思っている内は絶対にできない。だからある意味、根拠もなく出来ると思っている位の方がいい。そうすれば実際出来るかもしれない。出来ないかもしれないが、出来ない事が出来ないのは当然だから仕方ない。信じることは大切だ。
昨今の物語は愛と勇気と信じる心だけじゃどうにもならない事が多いが、そして現実でもおよそ実的な力の方が重要だったりするが、それでも信じるという事は大切だ。夢のない物語はつまらない。物語に現実に即したリアリティなんて必要ない。必要なのは説得力だ。そこを混同してはいけない。現実に即していれば説得力があるわけではないし、逆もまた然りだ。ただ、現実に即している方が普通の人間と共通の認識を作りやすいというだけのことである。幻想が常識の振りをしているようなことであれば、幾ら真実を訴えても響かない。