後
形成は逆転した。これでタケルたちの負けだ。──そう思われたのは、タケルが口を開くまでの束の間の夢であった。
「おいハヤト、いつまでそうしているつもりだ? いい加減動け」
タケルがそう言うと、ハヤトは双眸を爛々と輝かせた。
そして目にも見えぬ速さで、背後に立つ敵の身体に触れた。
「あ……っ」
かすかに呻いた男は、そのまま脱力し倒れ込んだ。
あの大男が、いとも容易く。
リーダーは信じられぬ思いで「一体どういうことだ」と呟いた。
「ハヤトは究極のマッサージ法を得た男。あいつの手にかかれば、どんな人間も一瞬で昇天だ」
「……なるほどな」
男は得心すると、一つ質問をした。
「あんたら、どうしてそんな懇切丁寧に説明するんだ? 大事な情報をよォ……」
愚問だな。
声にしなくとも、タケルの顔にはありありとそう書かれていた。
「決まってるだろ? それは俺たちが人一倍──」
「親切だからっす」
タケルの台詞を継いで、ハヤトがにかっと笑う。
「ふん、その甘さが命取りなんだよ!」
男はミユの首に腕を回し、彼女の身を捕らえた。
「ミ、ミユ……! そういやお前もいたんだった!」
後半の言葉は小声で、タケルはここに来て初めて焦った様子を見せた。
「くくく、そうだこの女もいるんだぜ! ……戦いに夢中になっていて、俺もこいつの存在を忘れてはいたが、最初からこうしておけばよかったな」
「卑怯だぞ、女を人質に取るなんて! ……確かに俺も戦っている内にミユの姿すら見えなくなったけど……」
「てめえ! 俺の女に汚い手で触るな! ……タケルさん、俺も応援に熱中してて途中からちょっとミユのこと忘れてたから大丈夫っすよ」
男たちは当初の目的すら忘れるほど闘志を燃え上がらせていたのだった。
「さあ観念しろ!」
ミユは非力な女。ハヤトのように自ら抜け出すこともできない。
まさしく今度こそ、絶体絶命だった。
タケルは静かな声で告げる。
「ミユを離すんだ」
「誰に物を言っていやがる!」
大きく口を開けて笑う男。
タケルは、煙草を咥えるように、おしゃぶりを口にした。落ち着かないときに行う癖だ。
そんな彼を嘲笑うように、男は叫んだ。
「タケル! お前はもう終わ──ッ」
りだ、と最後まで続くことはなかった。
男が地に伏せる。
「ミユ!」
ハヤトが解放されたミユに駆け寄り、二人はひしっと抱き合った。
倒れたままぴくりとも動かない男に視線を移し、不安げに尋ねた。
「た、タケルさん、こいつ……」
「安心しろ、死んじゃいねえ。気を失っているだけだ」
そばに落ちたおしゃぶりを拾うタケルを見て、はっと気付いた。
──そうか。タケルさんは、このおしゃぶりを弾丸のように口から放ち、男の頭に命中させたんだ。
凄まじい威力と精度を兼ねた攻撃。それをやすやすと行うタケルに、ハヤトはぶるりと震えた。
一方、やられた側の男らは、立ち尽くしたままであった。
「そんな……あの人が負けただと……?」
リーダーの敗北。
その現実に愕然とし……やがて湧き上がってきたものは、純然たる怒りであった。
「クソガキ! よくも高橋さんをッ!!」
「馬鹿っ、高橋じゃなくて高梨だよ!」
「……よくも高梨さんをッ!!」
彼らは一様に皆、憤りに顔を紅潮させると、
「ポコポコ(※2)にしてやる!!」
襲いかかった。
ハヤトが慌ててタケルの加勢に入るが、人数差はどうしようもない。
今までの戦いによる疲弊か、タケルのハイハイも随分とスピードを落としてしまっている。
せめて身を呈して庇おうとしたハヤトが見たのは、あとほんの少しでタケルに届きそうな、敵の手。
──間に合わない。
やけに動きが遅く鈍く見えたのは、自分も疲れているからだろうか。
ハヤトの胸に淡い絶望が滲み出たと同時に……白い雑巾が視界に入った。
……雑巾?
呆然としていると、ハヤトよりも先に男たちの方が動揺した。
「うわあ! 何かが張り付いて剥がれねえ!」
「何だこれ!」
「目が見えねえ!」
雑巾によって両目を覆われた男たちは、間抜けな動きで慌て始める。
その雑巾を投げた者、それは。
「──お掃除の時間です」
叫んでいるわけでもないのに、轟くような深い声。
ハヤトは言葉を失った。
ここに居るはずのない人物が、今、目の前に──立っている。そんな光景に、ただただ驚く他なかった。
タケルも声を上げる。
「お、大田……! なぜお前がここにっ」
「ある組織から、お掃除を頼まれましたので」
彼女はこちらを見ることなく、雑巾とハンディクリーナーを手に構えた。
長年、激しい清掃をくぐり抜けてきた者だけに許された構えだった。
「清掃中は埃が立ちます。さあ、今すぐ退去して下さい」
タケルたちは、強く頷いた。
「恩に着る!」
三人が走り去るその足音を耳にしつつ大田は呟く。
「掃除屋に礼など……物好きな人たちですね」
だが、案外嫌いじゃない。
次に息を吸ったとき、彼女の掃除が始まった──。
※
「分別組の奴ら、大田を雇えるほどのでかい組織に狙われるとは……何かやらかしたな」
「タケルさん……ミユは大丈夫なんすか?」
「心配するな。大田が出てきた以上、もう暴れようなんて思わないさ」
その言葉にほっとハヤトが吐息をこぼすと、ミユが足を止めた。
「タケルくん……ううん、タケルさん、私……」
安心したのだろう。ぽろぽろと涙を落とし、彼女は俯いた。
「私、今まであなたのこと、ちゃんとわかってなくて……今まで、失礼なこと……」
言葉を詰まらせてしまう彼女に、タケルはやれやれとため息をついた。
ふわり。柔らかな感触を頭に感じたミユは、ゆっくりと顔を上げた。
「これ……」
「よだれ拭き(未使用)だ。涙を拭きな。……それからミユ」
タケルは、ミユの目を真っ直ぐに見つめ、優しい声音で語りかけた。
「勝ち気な女に俯く姿は似合わねえ。謝罪の言葉もだ。こういうときは──」
「ありがとう」
はっきりと言ったミユに、タケルは目を瞬いた。
「でしょ?」
「……わかってるじゃないか」
夕日を背景に、三人が笑い合う。
そう、勝利の後に待っているのは、明るくあたたかい笑顔なのだ。
この日のことを決して忘れまい。
タケルはそう胸に誓い、爽やかな心地で帰路を歩くのだった──。
もちろんベビーカーは置き忘れた。
―完―
(※2)ポコポコ……ボコボコ《boko-boko》をちょっと柔らかくした擬音語。相手が赤ん坊なので手加減するつもりだった。