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旅立ちの前に

 訓練が始まって——最初に叩きのめされたのは、わたしのプライドだった。


 ◇


 準備期間、一日目。

 早朝。空がまだ薄紫色をしている時間。


 町の西外れにある訓練場は、城壁の内側にぽっかり開けた広場だった。砂利が敷き詰められた地面に、木製の打ち込み台が数本。隅には武器の棚と、使い古されたダミー人形。朝もやがうっすらと広場を包んでいて、空気がひんやりと冷たい。


 ——前世では通勤ラッシュの電車に揺られていた時間に、異世界で実戦訓練を受けようとしている。


 人生何が起こるかわからない。


「遅いぞ」


 ダリウスさんが、訓練場の端で腕を組んで待っていた。


 短く刈り上げた黒髪、鋭い灰色の瞳。腰には装飾の入った長剣。朝もやの中でも、その存在感は際立っている。Bランクの冒険者は、佇まいからして違う。


「す、すみません。約束の時間より早く来たつもりだったんですけど——」

「俺はもっと早く来た。訓練場に一番乗りするくらいの気概がなきゃ、森の奥じゃ生き残れんぞ」


 リオンさんはすでに素振りをしていた。砂色の髪に汗が滲んでいる。この人、一体何時から——。


「おはよう、ユヅキ。俺、夜明け前から来てた」


 にかっと笑うリオンさん。緑色の瞳に闘志が燃えている。弟のレン君のことが、リオンさんを駆り立てているんだろう。


「ボクだって早起きしたのだ。パンを三つ食べてから来たのだ」


 ルーノがわたしの肩の上で胸を張った。それは訓練の準備じゃなくて朝食の報告では。


「さて」


 ダリウスさんが、ゆっくりとこちらに歩いてきた。灰色の瞳が、わたしとリオンさんを順番に見る。査定するような、でもどこか温かみのある視線。


「一週間で、お前たちを使い物にする。甘えは許さん」


 ダリウスさんの声が、朝の冷たい空気に響いた。


「訓練メニューは三本柱だ。一つ、剣術と体力の基礎鍛錬。これはリオン、お前がメインだ。二つ、連携訓練。俺が前衛で仕掛ける。ユヅキ、お前はタイミングを見て『お裾分け』を使え。三つ——」


 ダリウスさんが、ルーノにちらりと視線を送った。


「お前の従魔と合わせた実戦想定の模擬戦。森の奥では三人で動く。息が合わなきゃ死ぬ」


 死ぬ。

 さらっと言われたけど——その言葉の重みは、確かに伝わった。


「質問はあるか?」


「あの——わたし、戦闘自体は得意じゃなくて。サポートに徹するつもりなんですけど、身体の鍛錬もやるんですか?」


「当然だ」


 ダリウスさんが即答した。


「サポートだからって立ち止まってていいわけがない。前衛が崩れた時、自力で逃げられるだけの体力がなきゃ話にならん。それに——」


 ダリウスさんの目が、ほんの一瞬、遠くを見た。何かを思い出しているような、痛みを堪えているような。


「サポート役が真っ先に倒れたら、パーティーは崩壊する。一番守らなきゃいけないのは——お前自身だ」


 その言葉に——重さがあった。

 経験から来る重さ。誰かを失った重さ。


 ——マルタさんの話を思い出す。アイリスさんのこと。サポートスキルを持っていた仲間が、自分の全てを分け与えて命を落としたこと。


 もしかして、ダリウスさんも——。


 考える間もなく、訓練が始まった。


「走れ! 訓練場を十周!」


 十周。

 訓練場は一周がだいたい三百メートルくらいだから——三キロメートル。


 前世のわたしなら絶対に無理だった。でも——レベル5になった今の身体は、前世の二十八歳の身体よりずっと動く。子供の身体の柔軟さと、レベルアップによるステータス向上が合わさって、思ったよりも走れた。


 ——思ったよりは。


 五周目でへたばった。


「ユヅキ、立て。あと五周だ」

「む、無理です……」

「無理って言葉は森の奥では通用しねえぞ。魔物は『無理です』って言ったら待ってくれるのか?」

「待ってくれませんかね……」

「くれねえよ」


 ダリウスさんの指導は、厳しかったけど理不尽ではなかった。的確に弱点を突き、限界の少し手前で止めてくれる。そこが——信頼できるところだ。


 リオンさんは七周で膝をついた。悔しそうに「くそっ」と呟いて、歯を食いしばって立ち上がる。この人は、本当に折れない。


 ルーノは——空中をふわふわ浮きながら応援していた。


「ユヅキ、がんばるのだ! ボクも応援してるのだ!」

「ルーノは走らないの……?」

「ボクは空を飛べるのだ。走る必要がないのだ」


 ——ずるい。



 午前中いっぱいを体力訓練と基礎的な連携の確認に費やして、昼食をはさんだ後——。


「ユヅキさん、お待ちしていました」


 午後はギルドの資料室だった。


 セリアさんが、受付カウンターではなく奥の小部屋に案内してくれた。壁一面の本棚に古びた書物がぎっしりと詰まっている。埃っぽい空気の中に、インクと羊皮紙の匂いが漂っている。


 ——前世の図書館を思い出す。試験勉強で通い詰めた、あの静かな空間。


「ここはギルドの資料保管室です。通常は閲覧制限がありますが——今回は特別に許可を取りました」


 セリアさんがテーブルの上に、数冊の古い書物を広げた。黄ばんだ紙に手書きの文字。古い言語で書かれているものもあるけれど、セリアさんが翻訳メモをつけてくれている。


「『お裾分け』——正確には『分かち合い系スキル』について調べた結果です」


 セリアさんが一冊の本を開いた。


「まず、基本的な特性として。分かち合い系スキルは、ステータスの共有を基盤としています。使用者のステータスが減少し、対象者のステータスが増加する。これはユヅキさんもご存知の通りです」


「はい。身をもって体験済みです」


 HPが削れる感覚は、もう何度か味わっている。慣れたくはないけど、慣れてきたというのが本音。


「ですが——文献によれば、この共有には『段階』があるようです」


 セリアさんの翡翠色の瞳が、少し興奮した光を帯びた。知識を語る時のセリアさんは、いつもこうだ。


「第一段階は、単純なステータスの数値移動。これが基本です。第二段階は——効果の持続。一度分け与えた力が、一定時間維持される状態です」


「持続……ということは、戦闘中ずっと効果が続く?」


「理論上はそうです。ただし、持続時間は——」


 セリアさんが別のページを開いた。


「使用者と対象者の『絆の深さ』に比例するようです。信頼が深いほど、効果は長く、そして強くなる」


 絆の深さ。

 前に聞いた話の、より具体的な解説だ。


「そして——」


 セリアさんの声が、少し低くなった。


「第三段階。理論上は——複数の対象者への同時分配が可能かもしれません」


「複数同時——!」


 思わず声が出た。


「今まではリオンさん一人にしか分けられなかったけど、二人同時に?」


「はい。ただし、負担は当然大きくなります。消耗も二倍以上になるでしょう。慎重に試す必要があります」


 複数同時分配。もしそれができれば——ダリウスさんとリオンさんを同時に強化できる。パーティー全体の戦力が、一気に引き上がる。


「すごい……セリアさん、ありがとうございます」


「いいえ。——ただ」


 セリアさんの声のトーンが変わった。穏やかだけど、どこかに鋭さが混じる。


「一つ、気になる記述を見つけました」


 セリアさんが、一番古い書物のページを開いた。黄ばみを通り越して茶色くなった紙に、かすれた文字が並んでいる。


「ここです」


 指差された箇所を読む。セリアさんの翻訳メモが添えてある。


 ***


 『分かち合いの魔法には禁忌あり。己の全てを与えし時、魂は裏返り、与えられし者は喰らう者となる』


 ***


 ——裏返り。


「『裏返り』……? これは、何を意味しているんですか?」


「正直なところ、わたしにも詳細は不明です」


 セリアさんが眉を寄せた。


「おそらく、スキルの過度な使用に対する警告でしょう。自分の全てのステータスを分け与えた場合——何か恐ろしいことが起きる、ということのようですが」


「全てを与えた場合……」


 マルタさんの話が、脳裏をよぎった。

 アイリスさんは——自分の力を全部、分け与えた。そして魔瘴に飲まれた。


 あれは——「裏返り」だったのか?


「ユヅキさん」


 セリアさんが、真剣な目でこちらを見つめた。


「決して、自分のHP・MPを限界まで分け与えないでください。どんな状況でも——自分を守る余力を残すこと。それだけは、絶対に約束してください」


「……はい。約束します」


 セリアさんの声には、過去の転生者たちを知る者としての重みがあった。


 資料室を出ると、西日がギルドのホールを橙色に染めていた。


 今日一日で——身体は限界近くまで追い込まれ、頭にはスキルの新しい可能性と不穏な禁忌が詰め込まれた。


 ——まるで、繁忙期に新しいプロジェクトを同時に三つ任された時みたいだ。


 ルーノがわたしの肩の上で、くぅくぅと眠っている。訓練中は応援していたくせに、終わった途端に電池切れ。


「ルーノ、起きて。帰るよ」

「んぅ……シチュー……おかわり……」

「寝言がシチューなの、もはやブレないね」


 疲労困憊のまま、陽だまりの宿に帰る。


 マルタさんのシチューが——今日は、いつもの三倍おいしく感じた。

 疲れた身体に沁みる温かさが、文字通り命を繋いでくれている。


「食べな食べな。明日も大変なんだろ?」


「はい……ダリウスさん、鬼教官です」


「あはは! あいつの訓練はキツいからねぇ。——でもね」


 マルタさんが、カウンターの向こうから少しだけ真剣な顔をした。


「あいつが厳しくするのは、お前たちを死なせたくないからだよ」


 その言葉が——ダリウスさんの、あの遠い目と重なった。


 死なせたくない。

 もう——誰も。


 一日目が、終わった。

 あと六日。


 訓練三日目。


 連携訓練が本格化した。


「来い!」


 ダリウスさんが、長剣を構えたまま挑発する。灰色の瞳が鋭く光って、殺気というほどではないけど——本気に近い圧を放っている。


 リオンさんが、正面から突っ込んだ。


「おおおっ!」


 長剣を振り上げて斬りかかる。三日前の初日と比べれば、格段にマシな動きだ。腰が据わっていて、踏み込みも深い。


 でも——ダリウスさんには届かない。


 がきん、と。

 リオンさんの剣が弾かれた。


「足が止まってるぞ! 打った後に次の動きを考えろ!」


 ダリウスさんの反撃が来る。リオンさんが慌てて盾を構える——が、衝撃で後ろに三歩下がった。


「ユヅキ! 今だ!」


 リオンさんが叫んだ。


 ——タイミング。ここだ。


「『お裾分け』!」


 リオンさんに向けて、ステータスを分配する。攻撃力+5、防御力+3。自分のステータスが削れる感覚——慣れてきたけど、やっぱり少しふらつく。


 でも——リオンさんの動きが変わった。


 さっきまでの力不足が嘘みたいに、剣の一振りが重くなる。ダリウスさんの連撃を受け止めて——初めて、反撃を返した。


 がきいん!


「——おっ」


 ダリウスさんが、ほんの少しだけ目を見開いた。


「いいぞ。それだ」


 短い賞賛。でも——ダリウスさんの口角が、少しだけ上がっていた。


「連携のタイミングは悪くない。だが——まだ遅い。もう半呼吸早ければ、リオンの反撃がもっと活きる」


 半呼吸。

 言われてみれば、リオンさんが「今だ」と叫んでからスキルを発動するまでに、一拍のロスがあった。その一拍が——戦闘では致命的なのだろう。


「もう一回!」


 リオンさんが、汗を拭いながら構え直した。


「ああ——何度でも」


 ダリウスさんが、長剣を構え直す。


 繰り返す。何度も、何度も。


 走って、構えて、叫んで、分けて。走って、構えて、叫んで、分けて。


 三日目の終わりには——リオンさんが叫ぶ前に、わたしは動けるようになっていた。


 リオンさんの呼吸、足の位置、剣の角度。それを見て——「今だ」と叫ばれる前に、「お裾分け」を発動する。


「言葉じゃなく、目で合わせろ」


 ダリウスさんが言った。


「戦場で声は出せないこともある。目と呼吸で連携できてこそ、本物のパーティーだ」


 目と呼吸。

 リオンさんの緑色の瞳と、わたしの目が合う。

 一瞬の交差——そこに、「今」という合図がある。


 声がなくても、わかる。


 それが——連携の、第一歩だった。


 ルーノも負けていなかった。小さな身体でダリウスさんの周囲を飛び回り、光弾で牽制する。威力は大したことないけど、視界を遮り、タイミングをずらす。ルーノの動きが加わると、ダリウスさんの反応が一瞬だけ鈍る——その隙を、リオンさんが突く。


「三人の連携は、思ったより噛み合ってきたな」


 三日目の夕方、ダリウスさんがぽつりと言った。


 珍しく——褒め言葉に聞こえた。



 ◇


 訓練四日目の午後。トマスさんの家を訪ねた。


「おお、ユヅキか。ちょうどよい。入りなさい」


 トマスさんの家は、いつにも増して薬草の匂いが濃かった。作業台の上には、見たことのない紫色の液体が入った小瓶が並んでいる。


「これは——?」


「魔瘴除けの薬じゃ」


 トマスさんが、眼鏡を指で押し上げた。


「前に渡した薬草のお守りよりも、もう少し効きの強いやつを調合しておる。完全には防げんが——魔瘴の侵食を遅らせることができる」


 紫色の液体を小瓶に詰める手つきは、繊細で迷いがなかった。何十年もの経験が、その指先に宿っている。


「飲むタイミングが大事じゃ。森に入る前に一本。魔瘴の濃い場所に近づいた時にもう一本。一人につき三本ずつ用意するから——全員で十二本。それが限界じゃな。材料の在庫が厳しくてのう」


「十二本……ありがとうございます、トマスさん」


「礼なんぞいらん。わしにできるのは、こうして薬を作ることだけじゃ」


 トマスさんが、ふう、と小さく溜息をついた。


「もう少し若ければ、わしも一緒に行けたんじゃがのう。年は取りたくないもんじゃ」


「トマスさんが一緒に来てくれたら百人力なんですけど」


「やめてくれ。この腰じゃ森の中を半日歩くのがやっとじゃよ」


 トマスさんが苦笑した。でも——その目は真剣だった。


「ユヅキ。一つ、聞いておきたいことがある」


「はい」


「お前の『お裾分け』——魔瘴に対して、何か感じたことはあるか?」


「魔瘴に対して……?」


「この前、森で異常個体と戦った時。お裾分けを使った瞬間、何か——普段とは違う感覚がなかったかのう」


 言われて——思い出す。初依頼の時。フォレストウルフと戦って、リオンさんに力を分けた時。


「あの時は——必死で、細かいことは覚えてないんですけど。でも——」


 目を閉じて、記憶を辿る。


「力を分けた瞬間、リオンさんの身体の中に……何か黒いものが、ほんの少しだけ見えた気がしたんです。すぐに消えたんですけど」


「黒いもの」


 トマスさんが、眼鏡の奥で目を光らせた。


「それは——リオンがフォレストウルフから受けた傷に残っていた魔瘴の残滓かもしれん」


「魔瘴の残滓が、リオンさんの中に?」


「ほんの微量じゃ。健康な人間なら自然に排出される程度のもの。だが——お前のスキルは、それを『感知』した可能性がある」


 トマスさんが、調合の手を止めて、わたしの方を向いた。


「わしの仮説じゃが——お裾分けのようなスキルは、ステータスだけでなく、もっと深いレベルで対象者と繋がっているのかもしれん。その繋がりの中で、魔瘴を感知し——もしかすると、吸い取る力があるのやもしれん」


「吸い取る——」


「あくまで仮説じゃ! 仮説!」


 トマスさんが、慌てて両手を振った。


「無理に試すでないぞ。魔瘴を吸い取るということは、お前自身が魔瘴を引き受けるということじゃ。一歩間違えれば——」


 トマスさんの声が、重くなった。


「お前が魔瘴に侵されることになる」


 その言葉が——セリアさんの「裏返り」の警告と重なった。


 全てを与えれば、魂は裏返る。

 魔瘴を引き受ければ、自分が侵される。


 どちらも——同じ危険を指しているのかもしれない。


「わかりました。無茶はしません」


「ほんとうかのう。お前の目は、困っている人を見ると自分の安全を忘れる目じゃ」


 ——バレてる。


「否定できません……」


「はっはっは。まあ、そういう人間だから『お裾分け』が与えられたのかもしれんがのう」


 トマスさんが、完成した魔瘴除けの薬を箱に詰めた。


「持っていきなさい。出発前に取りに来ればいい」


「ありがとうございます、トマスさん。本当に——」


「礼は帰ってきてから。わしはまだまだお前さんに教えたい薬草があるんじゃ。途中でいなくなられちゃ困る」


 トマスさんの丸い眼鏡の奥に——笑顔と、少しの寂しさが混じっていた。



 ◇


 訓練五日目。

 この日が——大きな転機だった。


「リオン、準備はいいか」


 ダリウスさんが訓練場の端に立って、腕を組んでいる。今日の訓練は「お裾分け」に焦点を当てた特別メニュー。セリアさんも資料室から出てきて、効果の測定を手伝ってくれている。


「いつでも」


 リオンさんが剣を構えた。


「ユヅキ。今日は『お裾分け』の効果がどれだけ持つか試す。発動した後、俺と模擬戦をしろ、リオン。効果が切れたと感じたら言え」


「わかりました」


 深呼吸をした。


 リオンさんに手を向ける。


 ——リオンさんを助けたい。弟のレン君を救いたいリオンさんの力になりたい。


 その気持ちを——スキルに乗せる。


「『お裾分け』!」


 光がリオンさんを包む。攻撃力+5、防御力+3。自分のステータスが削れる——でも今日は、いつもより温かい感覚が残った。


 模擬戦が始まった。


 ダリウスさんとリオンさんの剣がぶつかる。がきん、がきん。火花が散る。リオンさんの動きが明らかに強化されている。


 一分。

 二分。

 三分——。


「まだ効いてる!」


 リオンさんが叫んだ。五分が経過しても——効果は持続していた。


「すごい……」


 セリアさんが、測定用の魔道具を確認して目を見開いた。


「通常なら、この程度の分配は二分程度で効果が切れるはずです。五分以上持続しているということは——」


 セリアさんの翡翠色の瞳が、わたしを真っ直ぐに見つめた。


「仮説通りです。絆の深さが、効果時間を延長している」


 絆。

 リオンさんとの信頼が——スキルの力を、引き上げている。


 七分が経過したところで、効果が薄れ始めた。リオンさんの動きが徐々に元に戻り、ダリウスさんの攻撃を受けきれなくなる。


「切れた——ここまでだ」


 リオンさんが膝をつく。でも——その顔には、驚きと喜びが浮かんでいた。


「七分も持つなんて。ユヅキ、お前のスキル——すげえよ」


「わたしのスキルじゃなくて、リオンさんとの絆のおかげですよ」


「なんだよそれ、恥ずかしいこと言うなよ!」


 リオンさんが真っ赤になって目を逸らした。十八歳男子の照れ方。


 ダリウスさんが、少し離れたところで訓練場の柵に寄りかかっていた。灰色の瞳が——また、あの遠い目をしている。


 口元にはかすかな微笑み。でも——その奥に、何かを堪えているような影があった。


「……絆か」


 ダリウスさんが小さく呟いた。独り言なのか、誰かに向けた言葉なのか——聞き取れなかった。


 その時、ダリウスさんが森の方角をちらりと見た。一瞬だけ——表情が歪んだ。怒り、悲しみ、後悔——いろんな感情が混ざった、複雑な顔。


 でもすぐに——いつもの気さくな顔に戻った。


「よし。次のメニューに行くぞ。今度は——」


 何もなかったように。


 ——あの表情は、何だったんだろう。


 ルーノがわたしの耳元で、ぽそっと呟いた。


「……あのお兄さん、森のことを考えると苦しそうな顔をするのだ」


 ルーノは、やっぱりよく見ている。



 ◇


 訓練六日目の夕方。


 町の広場に足を向けた。最終日を前に装備の確認をしようとしたら——驚くことが待っていた。


「ユヅキちゃん! これ、持っていきな!」


 八百屋のおばさんが、大きな布袋をどんと押しつけてきた。


「えっ、これ——」


「干し肉と、木の実と、乾燥させた果物。日持ちするから、森の中でも食べられるよ」


「こんなにたくさん——」


「いいのいいの! うちの子がユヅキちゃんに憧れてるんだから。冒険者になりたいって言い出してさぁ、困っちゃうよ」


 続いて、パン屋の青年が駆け寄ってきた。


「はい、特製の堅焼きパン! 五日はもつ保存食バージョン!」


「ありがとうございます、でもお代が——」


「いらないっての! あんたらが森の魔物をどうにかしてくれるんだろ? それが一番の報酬だよ」


 鍛冶屋の親方が来た。


「リオン、お前の剣、研いどいたぞ。刃こぼれも直してある。無料だ」


「えっ、親方——そんな、悪いですよ」


「うるせえ。お前たちが死んだら誰がうちの剣を使うんだ。いい冒険者は鍛冶屋の宝だからな」


 子供たちが走ってきた。


「ユヅキお姉ちゃん!」

「お花、摘んできたの! お守りにして!」

「ルーノちゃーん! がんばってね!」


「任せるのだ! ボクは最強なのだ!」


 ルーノが胸を張って、子供たちの前でくるくる回った。しっぽが光って、子供たちから歓声が上がる。


 次々と、町の人たちが集まってくる。


 荷物運びを手伝ってくれた商人さんが、ロープと火打ち石を。

 洗濯屋のおばあちゃんが、清潔な包帯を。

 花屋の店主が、虫除けの効果がある花束を。


 気がつけば——両手で抱えきれないほどの支援物資が、広場の真ん中に積み上がっていた。


「みんな……」


 涙が——溢れそうだった。


 前世では——こんなこと、なかった。


 会社を辞める日、送別会はなかった。デスクを片づけて、最後に「お疲れ様でした」と言われて——それだけ。わたしがいなくなっても、会社は何も変わらなかった。


 でもここでは——こんなにたくさんの人が、わたしたちのために手を動かしてくれている。


「ありがとうございます……本当に……」


 声が震える。リオンさんも横で鼻をすすっていた。


「すげぇな、この町。俺、故郷の村とはまた違う温かさがあって——」


 リオンさんの言葉が途切れた。弟のレン君のことを思い出したのかもしれない。


「……レンにも、見せたいな。この町」


「うん。きっと見せられるよ」


 わたしがそう言うと、リオンさんは少し笑った。


「ああ。——絶対に」


 マルタさんが、宿の二階の窓からこちらを見ていた。


 にこにこと笑っている。

 でも——その目は、少しだけ赤かった。


 訓練六日目の夜。


 ベッドの上で、ルーノが突然苦しみ始めた。


「ルーノ!?」


 枕元で丸くなっていたルーノの身体が、ぶるぶると震えている。小さな前足がこめかみを押さえて、金色の瞳が見開かれていた。


「ぅ……頭が……」


「どうしたの、ルーノ! 大丈夫!?」


 慌ててルーノを両手で包んだ。銀色の毛並みが——いつもよりずっと熱い。


「映像が——ボクの中に——」


 ルーノの瞳が一瞬——鮮烈な銀色に光った。


 その瞬間——。


 わたしの脳裏にも、何かが流れ込んできた。


 ——古代の神殿。白い石で造られた巨大な建造物。中央に浮かぶ、光り輝く祭壇。そこに佇む——巨大な銀色の狼。


 美しい。

 神々しい。

 銀色の毛並みが月の光を受けて煌めき、金色の瞳に深い叡智が宿っている。


 ——「守護者よ。汝の献身が、この封印を守る」


 厳かな声が響いた。誰の声かはわからない。でも——古い。とても古い声だ。


 銀色の狼が——「ルーノ」が——静かに頭を下げた。


 ——「我が生命をもって、封印を維持する。何百年、何千年でも」


 低く力強い声。通常モードのルーノとはまるで違う、威厳に満ちた声。


 映像が——途切れた。


「ルーノ!」


 わたしの声で、ルーノの瞳が元の金色に戻った。銀色の毛並みの発光も消えて、いつもの手のひらサイズの姿に戻る。


 でも——ルーノは震えていた。


「ユヅキ……今の……見えたのだ?」


「うん。神殿と——大きな銀色の狼。それが——ルーノ?」


「わからない……わからないのだ」


 ルーノが、わたしの掌の中で小さく丸まった。


「でも——あの狼はボクなのだ。ボクにはわかるのだ。あれは——ボクの本当の姿」


 本当の姿。

 「昔はもっと大きかった」——ルーノが最初に漏らした、あの一言。


「それと——封印。あの声が言ってた『封印を守る』って——」


「……ボクは、封印の守護者だったのだ」


 ルーノの声が、震えていた。恐怖と、困惑と、そして——なぜか、安堵。


「守護者。何かを——とても大切な何かを守っていたのだ。でも——どうして今、こんなにちっちゃくなってるのだ。どうして記憶がないのだ。何があったのだ——」


「わからないことだらけだね」


 わたしはルーノの頭を、そっと撫でた。


「でも——一つだけ、はっきりしたことがある」


「なんなのだ?」


「ルーノの過去は、あの森の封印に繋がってる。森の奥に行けば——もっとわかるかもしれない」


 ルーノが、顔を上げた。涙で濡れた金色の瞳が——月明かりの中で揺れている。


「怖いのだ」


「うん」


「でも——知りたいのだ。ボクが何者なのか」


「一緒に行こう。約束したでしょ」


 ルーノが——こくん、と頷いた。


「……ユヅキ」


「ん?」


「さっきの映像——ユヅキにも見えたのだ?」


「うん。ルーノの瞳が光った瞬間、わたしの頭にも映像が流れてきた。従魔契約の繋がりで——共有されたのかも」


「でも——あの声。『汝の献身が封印を守る』って。あれ——」


 ルーノが小首を傾げた。


「ボクだけじゃない気がするのだ。あの言葉は——ユヅキにも、向けられてた気がするのだ」


 わたしに?


「お裾分け」——献身の力。

 封印を守る——守護者の力。


 もしかして——この二つには、何か深い繋がりがあるのだろうか。


 考え込むわたしの肩に、ルーノがちょこんと乗った。


「今は考えても答えは出ないのだ。明日が最終日なのだ。寝るのだ」


「……そうだね。おやすみ、ルーノ」


「おやすみなのだ」


 でも——眠れなかった。


 あの映像が、まぶたの裏にこびりついている。


 巨大な銀狼。白い神殿。古い声。


 そして——「契約者よ、汝の献身が封印を守る」という言葉。


 わたしは——何者なのだろう。

 「お裾分け」は——本当は、何のために与えられたのだろう。


 神様の声が、遠く響いた気がした。


 「使い方次第だよ」


 ——まだ、答えは見えない。



 ◇


 訓練最終日——七日目の午後。


 町の外で最終確認の訓練をしていた時だった。


 突然——町の方角から、鐘の音が鳴り響いた。


 がらんがらんがらん——。


 鋭く、切迫した音。普段の時報とはまるで違う。


「警報だ!」


 ダリウスさんの表情が一瞬で変わった。気さくさが消えて、ベテラン冒険者の戦闘モードに切り替わる。


「町の方角——魔物が来たか!」


 訓練を中断して、全員が走った。リオンさんが剣を抜く。わたしは短剣の柄に手をかける。ルーノが肩から飛び上がって、空中で耳を立てた。


「ユヅキ——すごく嫌な気配がするのだ! 前に森の奥で感じたやつと同じ——いや、もっと濃いのだ!」


 町の東門に駆けつけると——門番が青ざめた顔で叫んでいた。


「魔物だ! 大型の魔獣が町に向かって来てる! 冒険者を呼べ!」


 門の向こう——町の外に広がる草原の先に、それは見えた。


 巨大だった。


 体長三メートルはあるだろう。熊型の魔獣——だが、通常のベアーとは決定的に違う。


 全身が、黒い靄に包まれていた。


 赤黒い毛皮の間から、魔瘴の煙のようなものが立ちのぼっている。目は真紅に光り、口の端からは黒い涎が滴り落ちている。


 ——ステータスを確認する。


 ***


 【コラプトベアー(魔瘴汚染個体)】

 レベル:18

 HP:450/450

 攻撃力:42

 防御力:30

 状態:魔瘴侵食(完全)


 ***


 レベル18。攻撃力42。


 わたしたちのレベルは——わたしが5、リオンさんが7。


 桁が違う。


「なんだ、あれ……」


 リオンさんの声が掠れた。恐怖ではない——圧倒的な力の差を前にした、本能的な警戒だ。


「魔瘴に完全に侵された個体だ」


 ダリウスさんの声は低く、落ち着いていた。でも——灰色の瞳に、鋭い緊張が走っている。


「ここまで町に近い場所に出てくるとは。封印の劣化が、想像以上に進んでいる」


 町の冒険者たちが駆けつけてきた。シルバーランクの冒険者が三人、剣と盾を構えて門の前に展開する。


「あの大きさは——ランクB級の個体だぞ!」

「シルバーじゃ厳しい!」

「でもやるしかねえ! 町に入れるわけにいかない!」


 シルバーランクの冒険者たちが突撃した。


 一人目が盾を構えて突進——コラプトベアーの腕が唸りを上げて振り下ろされた。


 ずどん、と。


 盾ごと、冒険者が吹き飛んだ。


「がっ——!」


 一撃で。盾が砕けて、冒険者が十メートルほど転がった。


 二人目が横から斬りかかるが——剣が黒い靄に触れた瞬間、バチッ、と弾かれた。魔瘴が鎧のように熊を覆っている。


「効かねえ! 魔瘴の膜がある!」


 三人目が弓を射る。矢が刺さった——が、コラプトベアーはまるで痛みを感じていないかのように、矢を振り払った。


 圧倒的だった。


「こりゃ、俺が出なきゃだめだな」


 ダリウスさんが、長剣を抜いた。


 装飾の入った刀身が、午後の日差しを受けて煌めく。——その瞬間、空気が変わった。


 Bランクの冒険者が、本気を出した。


 ダリウスさんが地面を蹴った。砂利が飛び散る。一瞬で距離を詰めて——コラプトベアーの横腹に、裂帛の一撃を叩き込んだ。


 ずがん、と。


 黒い靄が裂けて——コラプトベアーが初めて、咆哮を上げた。


 ——効いた。


「おおっ、ダリウスさんの剣が通った!」


 周囲の冒険者たちから声が上がる。


 でも——ダリウスさんの顔は厳しかった。


「膜は切れるが、中身が硬い。何度も叩かないと倒せん——時間がかかりすぎる」


 コラプトベアーが体勢を立て直して、ダリウスさんに向き直った。真紅の瞳が——殺意で燃えている。


 巨大な腕が振り上げられる。


 ダリウスさんがサイドステップで躱す——が、地面が砕けるほどの衝撃波が走って、バランスを崩した。


「ちっ——力が違いすぎる。一人じゃ——」


 リオンさんが、一歩前に出た。


「俺も行きます!」


「待て、リオン。お前のレベルじゃ——」


「わかってます。でも、ダリウスさん一人じゃ危ない。——ユヅキ」


 リオンさんが、わたしを振り返った。


 緑色の瞳が、真っ直ぐにわたしを見つめている。


 言葉はいらなかった。


 ——目と呼吸で、連携する。


 リオンさんの目が言っている。「頼む」と。


「行って、リオンさん。わたしがサポートする」


 リオンさんがにかっと笑って——剣を構えた。


「『お裾分け』!」


 リオンさんにステータスを分配する。攻撃力+7、防御力+5、HP+20。訓練の成果で、初日よりずっと多くの力を渡せるようになっていた。


 リオンさんの身体が光を帯びる。動きが加速し、剣が風を切る音が鋭くなった。


「行くぞ!」


 リオンさんとダリウスさんが、二人でコラプトベアーに挑む。


 ダリウスさんが正面から斬りかかり、コラプトベアーの注意を引く。リオンさんが側面に回り込んで、脚を狙う。


 がきん! がきん!


 連携が噛み合う。訓練の成果が——ここで発揮される。


 でも——コラプトベアーは、想像以上に強かった。


 ダリウスさんの攻撃を受けて一歩下がっても、すぐに反撃してくる。黒い靄が修復されて、切った傷がみるみる塞がっていく。


「再生してやがる——魔瘴が傷を治してるのか!」


 ダリウスさんが舌打ちした。


 コラプトベアーが吼えた。衝撃波のような咆哮が広がって、リオンさんが耳を押さえて膝をつく。


 ——このままじゃ、じり貧だ。


 二人同時に助けないと。


 二人同時に——。


 セリアさんの言葉が蘇る。


 「理論上は——複数の対象者への同時分配が可能かもしれません」


 ——やるしかない。


 でも——一度も成功したことがない。訓練でも、複数同時分配は試す前にここまで来てしまった。ぶっつけ本番。


 ——前世のわたしなら、「無理です」と言っていた。


 でも今は——リオンさんが危ない。ダリウスさんも。目の前で、大切な仲間が戦っている。


 わたしにできることは——力を、分けること。


 それが——わたしの役割だ。


 深く息を吸った。


 目を閉じる。


 ——リオンさん。ダリウスさん。二人のことを思う。


 リオンさんは、弟を救うために剣を取った。まっすぐで、不器用で、折れない人。


 ダリウスさんは、何かを償うように森の調査を続けている。厳しいけど、わたしたちを死なせないために全力を尽くしてくれる人。


 二人とも——わたしの、大切な仲間だ。


 その二人に——力を。


 両手を広げた。右手をリオンさんに、左手をダリウスさんに向けて。


「お願い——届いて!」


 心の底から——叫んだ。


「『お裾分け』ーーーー!」


 光が——溢れた。


 今までと、全然違う。


 わたしの身体から放たれた光が——二つに分かれた。右手から放たれた光がリオンさんを包み、左手から放たれた光がダリウスさんを包む。


 その瞬間——。


 全身から力が抜けた。


 膝が折れる。地面に手をつく。視界がぐらぐらと揺れる。


 ステータスが——一気に削られた。


 ***


 【お裾分け:複数同時分配】

 リオンへ:HP+20、攻撃力+5、防御力+3

 ダリウスへ:HP+20、攻撃力+5、防御力+3

 ユヅキ残ステータス:HP 28/120、MP 15/80


 ***


 HPが半分以下に。MPも大幅に減少。


 身体が——重い。鉛みたいに。


 でも——。


「なんだこれは——!」


 ダリウスさんの驚愕した声が聞こえた。


「身体が軽い——力が湧いてくる!」


 リオンさんが叫んだ。


 二人の身体が、金色の光を帯びている。二人同時に——強化が成功した。


 ——やった。


 複数同時分配——成功。


「ユヅキ! お前——!」


 ダリウスさんがこちらを振り返った。灰色の瞳が大きく見開かれている。驚き——そして、何かを思い出したような表情。


「……そうか。これが——」


 何かを言いかけて——首を振った。


「後でだ! 今は——こいつを倒す!」


 ダリウスさんとリオンさんが、同時にコラプトベアーに襲いかかった。


 圧倒的だった——今度は、こちらが。


 ダリウスさんの剣速が格段に上がっている。黒い靄を一撃で両断し、コラプトベアーの胴体に深い傷を刻む。


 リオンさんの攻撃も効いている。強化された剣が、コラプトベアーの脚を的確に捉える。


 ルーノが空中から光弾を叩き込み、視界を奪う。


 三人の——いや、四人の連携。


 コラプトベアーが、じりじりと押されていく。


 でも——。


 魔瘴に侵された魔獣は、まだ諦めていなかった。


 追い詰められたコラプトベアーが——最後の力を振り絞るように、全身の魔瘴を爆発させた。


 黒い衝撃波が広がる。


 ダリウスさんとリオンさんが吹き飛ばされ——。


 その波が——わたしにも向かってきた。


「ユヅキ!」


 ルーノが叫んだ。


 小さな身体が——わたしの前に飛び出した。


「ルーノ、だめ!」


 黒い衝撃波がルーノに直撃する——。


 その瞬間。


 ルーノの身体が——眩い銀色の光に包まれた。


 光の中で——ルーノの姿が、変わった。


 手のひらサイズだった身体が——膨張する。大きくなる。もっと大きくなる。


 光が晴れた瞬間——そこにいたのは。


 体長五メートルはある、巨大な銀色の狼。


 銀色の毛並みが月光のように煌めき、金色の瞳には太古の叡智が宿っている。展開された翼が大きく広がり、全身に光の紋様が浮かび上がっている。


 ——昨夜の映像と、同じ姿。


 封印の守護者——ルーノの、本来の姿。


「これが——ルーノの……」


 圧倒的な存在感。神々しい威厳。小さくてふわふわだったルーノの面影は、微塵もない。


 銀狼が——大きく咆えた。


 光の障壁が展開され、黒い衝撃波を真っ向から弾き返した。


 衝撃波が散り、コラプトベアーが怯んだ。


 そして——銀狼がわたしを振り返った。


 金色の瞳が——わたしを見つめた。


 低く、力強い声が響く。


「——大丈夫か、ユヅキ」


 ルーノの声だ。通常モードの甘えた声ではない。戦闘モードの——あの凛々しい声。だけど今はそれ以上に深い、太古を感じさせる声。


「ルーノ——すごい——」


 言葉が出なかった。


 だけど——その瞬間は、一瞬だけだった。


 銀狼の身体が——ぐらりと揺れた。


 光が急速に薄れていく。巨大な身体が縮んでいく。翼が消え、光の紋様が薄れ、五メートルの銀狼が——あっという間に、手のひらサイズの小さなルーノに戻った。


 ぽとり、と。


 ルーノが地面に落ちた。気を失っている。


「ルーノ!」


 駆け寄って抱き上げた。息はある。でも——ぐったりしている。一瞬の覚醒で、力を使い果たしたのだ。


 ——でも、ルーノが作ってくれた隙がある。


 コラプトベアーは、銀狼の咆哮と光の障壁に怯んで、動きが止まっている。


 ダリウスさんとリオンさんが——同時に動いた。


「今だ! リオン!」


「ああ!」


 二人の剣が——交差するように、コラプトベアーの首元に叩き込まれた。


 強化された二本の刃が——魔瘴の膜を貫き、深く食い込む。


 コラプトベアーが——最後の咆哮を上げた。


 黒い靄が散り——巨体が、ゆっくりと崩れ落ちた。


 地響きが鳴った。


 そして——静寂が訪れた。


 ***


 戦闘終了。


 わたしは——地面に座り込んだまま、動けなかった。


 HPが危険水域。体中から力が抜けている。でも——ルーノは腕の中にいる。ちゃんと息をしている。


「ユヅキ! 大丈夫か!」


 リオンさんが駆け寄ってきた。膝をついてわたしの顔を覗き込む。


「大丈夫……ちょっと、ステータスが削れすぎたけど」


「無茶しやがって——二人同時にお裾分けなんて、聞いてないぞ」


「わたしも初めてだったんですけどね……」


 苦笑するリオンさんの横で、ダリウスさんが立ち尽くしていた。


 コラプトベアーの遺体を見下ろしている。

 でも——その目は、遺体ではなく、何か遠くを見ていた。


「……よくやった」


 ダリウスさんの声は、いつもより低く、静かだった。


「特にお前だ、ユヅキ。複数同時分配を実戦でやるとは思わなかった」


「無茶は自覚してます……」


「だがな——あれがなければ、負けてた。俺一人じゃ、あの魔瘴の再生速度に追いつけなかった」


 ダリウスさんが、わたしの前にしゃがみ込んだ。灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。


「お前のスキルは——本物だ。この一週間で、確信した」


 それは——ダリウスさんから聞いた、初めてと言っていい、全面的な信頼の言葉だった。


「それと——お前の従魔」


 ダリウスさんの視線が、わたしの腕の中のルーノに向いた。


「あの銀狼の姿——見間違いじゃないよな」


「はい。ルーノの——本来の姿だと思います」


「……やっぱりな。あれは——封印の守護者だ。間違いない」


 ダリウスさんの声に——確信があった。


「俺が森の奥を調べていた時、古い壁画を見つけたことがある。銀色の巨狼が、結界の中心に佇んでいる絵だ。あれと同じ姿だった」


 ルーノが——封印と直接繋がっている。


「明日の調査は——予定通り決行する」


 ダリウスさんが立ち上がった。


「だが、今日の戦いでわかったことがある。封印の劣化は、俺の想定以上だ。町のすぐ近くまで、この規模の魔瘴汚染個体が出てくるということは——猶予は少ない」


 ダリウスさんの表情が引き締まった。


「今夜、しっかり休め。装備の最終チェックも忘れるな。——明日の朝、夜明けと同時に出発する」


「はい」


「わかりました」


 リオンさんとわたしが頷く。


 ルーノは——まだ、気を失ったまま。でも、穏やかな寝息を立てている。小さな身体に、とてつもない力が眠っていることを——今日、目の当たりにした。


 町の冒険者たちが駆けつけてきて、「助かった!」「すげえ!」と口々に声をかけてくれた。


 セリアさんも息を切らせて走ってきた。


「ユヅキさん! ルーノさんは——」


「大丈夫です。気を失ってるだけで」


「あの銀狼の姿……あれは、封印が一部解けたのかもしれません」


 セリアさんの翡翠色の瞳が、学究的な興奮と心配の狭間で揺れていた。


「ルーノさんの本来の力が——森の魔瘴に反応して、一瞬だけ戻った。つまり——森の封印とルーノさんは、確実に繋がっています」


 確実に繋がっている。

 森の奥に、答えがある。


 わたしは自分の手を見つめた。

 力を分けた手。二人を同時に強化した手。


 この手はまだ小さい。十歳の子供の手だ。

 でも——今日、この手が仲間を救った。


 まだまだ足りない。もっと強くならないと。

 でも——確実に、成長している。


 それだけは——確かだった。


 出発前夜。


 陽だまりの宿は——今夜だけ、特別だった。


 マルタさんが、とんでもない量の料理を食卓に並べていた。


「あんたたち、明日から大変な旅になるんだからね。今日はたっくさん食べなさい!」


 テーブルの上に所狭しと並ぶ皿。マルタさん特製のビーフシチュー、焼きたてのパン、チーズの盛り合わせ、季節の野菜のグラタン、果物のコンポート、蜂蜜のかかったパンケーキ。


 ——もはや宴会だ。


「マルタさん、作りすぎじゃないですか……」


「作りすぎなわけないだろ。あんたが二杯、リオンが三杯、ルーノが五杯おかわりする計算だよ」


「五杯は無理なのだ。……四杯にするのだ」


「減ってないよ、ルーノ」


 ルーノは夕方に目を覚まして、最初の一言が「おなかすいたのだ」だった。銀狼に覚醒した直後にこれである。安心した。


 ダリウスさんが、宿の入り口に姿を見せた。


「……ずいぶん派手にやってるな」


「あら、ダリウス。あんたも座りな。食べるだけなら得意でしょ」


「……まあな」


 ダリウスさんがテーブルにつく。マルタさんとダリウスさんは——やっぱり、昔からの知り合いなんだろう。呼び捨てで、気安くて。でも——二人の間に時折、沈黙が落ちる。あの——何も言わなくても通じ合うような、長い時間を共有した者同士の沈黙。


 セリアさんも来た。


「お邪魔します。——わあ、すごい量ですね」


「セリアさんも座って座って! たくさんあるから!」


 セリアさんが微笑んでテーブルにつく。ギルドの制服ではなく、今日は私服——淡い緑のワンピースだった。


「乾杯しましょう」


 マルタさんが果実酒のグラスを配った。わたしとルーノにはりんごジュース。


「何に乾杯する?」


 ダリウスさんが聞いた。


「決まってるだろ」


 マルタさんが、グラスを高く掲げた。


「無事に帰ってくることに——乾杯」


「乾杯!」


 全員の声が重なった。


 グラスがぶつかる、軽い音。


 果実酒の甘い香りが、食堂に広がった。


 食事が始まると——不思議なほど、和やかだった。


 明日、危険な森の奥に向かうというのに。もしかしたら帰ってこられないかもしれないのに。


 でも——今この瞬間は、温かかった。


「リオン、お前パンの食い方汚いぞ」


「う、うるせえ! これが俺の食い方です!」


「ダリウスさんのほうが汚いのだ。ボク見てたのだ」


「おい、チビ。余計なこと言うな」


「チビじゃないのだ! 今日はおっきくなったのだ! 五メートルくらいあったのだ!」


「五メートルの姿でシチューおかわりしてたら宿が壊れるな」


「それは困るのだ……」


 笑い声が絶えなかった。


 セリアさんが、穏やかに微笑みながら食事をしている。


「こういう時間は、大切ですね」


「ええ。本当に」


「ユヅキさん——皆さんが帰ってくるのを、ギルドで待っていますね」


「はい。必ず」


 リオンさんが、シチューのおかわりを三杯平らげた後——ふと、箸を置いた。


「……俺さ、こんな仲間ができるなんて思わなかった」


 突然の言葉に、みんなの手が止まった。


「村を出る時、すげえ怖かった。一人で冒険者になって、稼いで、レンを助ける。全部一人で背負い込むつもりだった」


 リオンさんの緑色の瞳が、テーブルの上のシチューの皿を見つめている。


「でも——ユヅキがいて、ルーノがいて、ダリウスさんがいて。みんながいて。一人じゃなかった」


 リオンさんが、顔を上げた。


「絶対にレンを助ける。そして——みんなで帰ってくる。約束だ」


「当然だろ」


 ダリウスさんが、さらりと答えた。


「俺の訓練を一週間受けた奴らが、簡単にくたばるわけがないだろ」


「くたばらないのだ! ボクは強いのだ!」


「ルーノ、口にシチューがついてるよ」


「!? どこなのだ!?」


 また笑い声が上がった。


 マルタさんが、カウンターの奥からゆっくりと戻ってきた。その手に——小さな布製のお守りを握っている。


「ユヅキ」


「マルタさん?」


「これを——持っていきな」


 差し出されたのは——手のひらに収まるくらいの、小さなお守り。淡い青色の布に、繊細な刺繍が施されている。花と星が絡み合うような、美しい模様。


「これは……」


「昔——あたしの大切な仲間がくれたものなんだ。ずっと大事に持ってた。でも——あんたに持っていてほしい」


 マルタさんの声が——静かだった。いつもの豪快さが消えて、大切なものを手渡す時の、壊れ物を扱うような声。


 アイリスさんのお守り。


「こんな大切なもの……わたしがもらっていいんですか」


「いいんだよ」


 マルタさんが微笑んだ。泣きそうな笑顔だった。


「あの子もきっと喜ぶ。あんたみたいな子を——守ってくれる」


 お守りを受け取った。手の中で——不思議と、温かかった。ただの布のお守りなのに、まるで誰かの手のひらに包まれているような。


「ありがとうございます。大切にします」


「……ああ」


 マルタさんが、わたしの頭にそっと手を置いた。大きくて、温かい手。


「必ず帰ってきな。——あたしの娘みたいなもんなんだから、あんたは」


 胸が——熱くなった。


 前世では——母親とは疎遠だった。忙しさにかまけて、連絡もろくにしなかった。


 でも——マルタさんは。

 こんなに温かく、こんなに真っ直ぐに、「帰ってこい」と言ってくれる。


「帰ってきます。絶対に」


 声が震えた。でも——今日は泣かない。明日のために、笑っておく。



 食事が終わって、皆が帰っていった。


 ダリウスさんが最後にドアの前で振り返った。


「明日、門前に夜明けと同時だ。遅れるなよ」


「はい」


「……ユヅキ。お前のスキルは——誰かの力になれるスキルだ。でも、自分の限界を超えるな。いいな」


「わかってます」


「……そうか」


 ダリウスさんが——一瞬だけ、わたしの後ろのマルタさんを見た。そしてすぐに視線を外して、夜の闇に消えていった。


 あの一瞬の視線に込められた感情を——わたしはまだ読み取れなかった。



 ◇


 深夜。


 二階の部屋。窓辺に腰掛けて、星空を見上げていた。


 ルーノは、ベッドの上で丸くなって眠っている。今日は覚醒で体力を使い果たしたから、ゆっくり休ませてあげたい。


 マルタさんのお守りを、胸元のポケットに入れた。布越しに伝わる温かさが——心を落ち着けてくれる。


 明日——森の奥へ行く。


 魔瘴の根源を探す旅。


 リオンさんの弟を救うため。町の異変を止めるため。ルーノの真実を見つけるため。


 そして——わたし自身が、何者なのかを知るため。


 エルステアの星空を見上げる。天の川がくっきりと見えて、無数の星が瞬いている。


 前世の東京では——こんな星空は見られなかった。


 前世の自分は——こんな夜を過ごしたことがなかった。


 疲れ切って帰宅して、コンビニ弁当を食べて、テレビも見ずに寝る。明日もまた同じことの繰り返し。誰かのために頼まれた仕事をこなして、自分のために生きることなんて考えもしなかった。


 今は——違う。


 ここには、守りたいものがある。帰りたい場所がある。一緒に歩いてくれる仲間がいる。


 わたしは「脇役」だ。主人公じゃない。勇者でもない。


 でも——それでいいんだ。


 脇役だからこそ、誰かを支えられる。誰かの力になれる。誰かの物語を、少しだけ明るくできる。


 「お裾分け」は——自分が弱くなるスキルじゃない。


 仲間を信じるスキルだ。


 わたしが力を分ければ、リオンさんが戦える。ダリウスさんがもっと奥まで進める。ルーノが守護者の力を取り戻せるかもしれない。


 わたし一人では——何もできない。


 でも、わたしが分けた力で——みんなが、前に進める。


 それが——「脇役」の意味だ。


 神様が言ってた。「君みたいな人が、あの世界には必要なんだ」って。


 今なら——その意味が、少しだけわかる。


 この世界に——わたしは繋がっている。


 マルタさんのシチューの温かさ。トマスさんの薬草の匂い。セリアさんの穏やかな微笑み。リオンさんの真っ直ぐな瞳。ダリウスさんの厳しい指導。そしてルーノの——ふわふわの毛並み。


 全部が——わたしの「居場所」だ。


 脇役でも——世界と繋がっている。


 脇役だからこそ——誰かの力になれる。


 それが——わたしの、第二の人生の意味。


「……神様。わたし、ちゃんと生きてます」


 天井に向かって——いや、空に向かって呟いた。


「脇役なりに。でも——前世よりずっと、ちゃんと」


 返事はない。


 でも——星がひとつ、瞬いた気がした。


 枕元のルーノが、寝返りを打った。


「……ユヅキ……一緒に……行くのだ……」


 寝言が、今日も変わらない。


 くすりと笑って——わたしもベッドに入った。


 お守りの温かさが、胸元にある。マルタさんの言葉が、心にある。仲間の笑顔が、まぶたの裏にある。


 明日——旅に出る。


 怖い。正直、怖い。


 でも——怖いのに進むから、勇気なのだ。


 ルーノが、そう教えてくれた。


「おやすみ、ルーノ」


 そっと目を閉じた。



 ◇


 夜明け。


 空が薄紫に染まる、あの時間。


 訓練初日と同じ色の空。でも——今日は、訓練場に向かうんじゃない。


 陽だまりの宿の階下に降りると、マルタさんがもう起きていた。温かい朝食と、携帯用の弁当が用意してある。


「食べな。しっかりね」


「はい」


 マルタさん特製のオムレツと、厚切りのパン。ルーノはミルクを三杯。


「マルタさん」


「ん?」


「行ってきます」


「……ああ。行っておいで」


 マルタさんが——わたしをぎゅっと抱きしめた。


 大きくて、温かい。シチューと薬草と太陽の匂い。


「帰ってきたら——特別メニューのシチュー作ってあげるからね」


「楽しみにしてます」


 宿を出た。


 町の東門。夜明けの光が、石造りの門を金色に染めている。


 リオンさんが、もう来ていた。砂色の髪を朝風に揺らして、腰の長剣に手をかけている。研ぎ上げられた刃が、朝日を反射して光った。


「おはよう、ユヅキ」


「おはようございます、リオンさん」


「今日は——遅刻しなかったな」


「むしろリオンさんが早すぎるんです」


 ダリウスさんが門の前に立っていた。背嚢を背負い、長剣を腰に。準備万端。


「揃ったな。——行くぞ」


 門の前に——町の人たちが集まっていた。


 八百屋のおばさん、パン屋の青年、鍛冶屋の親方、洗濯屋のおばあちゃん、子供たち。早朝だというのに——たくさんの人が、見送りに来てくれている。


「頑張ってね!」

「無事に帰ってきてよ!」

「ルーノちゃーん!」

「ユヅキお姉ちゃん!」


 セリアさんがギルドの前に立っていた。


「皆さん、ご武運を」


 穏やかだけど——深い祈りを込めた声。


 トマスさんも来ていた。


「魔瘴除けの薬、飲むタイミングを忘れるでないぞ」


「はい、トマスさん。ありがとうございます」


「礼は帰ってきてからじゃ。何度も言わせるな」


 ——みんな、同じことを言う。「帰ってこい」と。


 それが——どれほど嬉しいことか。


 マルタさんが、宿の前に立って手を振っていた。大きな笑顔。でも——目が赤い。


 手を振り返した。


「行ってきます!」


「行くのだ!」


 ルーノがわたしの肩の上から、元気いっぱいに叫んだ。覚醒の疲れはもう取れたらしい。復活の早さは相変わらずだ。


 四人が——町の門をくぐった。


 東に広がる草原の先に、ハルモニアの森が見える。深い緑が朝もやに煙って、その奥は——まだ暗い。


 あの奥に——封印がある。魔瘴の根源がある。ルーノの過去がある。


 そして——わたしたちの答えがある。


「さあ——行こう」


 ダリウスさんが、先頭を歩き始めた。


「ああ」


 リオンさんが続く。


「行くのだ!」


 ルーノがぴょんと跳ねた。


「行こう」


 わたしも——一歩を踏み出した。


 朝日が背中を押す。

 町の人々の声援が、風に乗って追いかけてくる。


 マルタさんのお守りが、胸元でほんのりと温かい。


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