弟の病と森の影
初依頼を達成してから、三日が経った。
朝はやっぱり小鳥のさえずりで目が覚めて、階下に降りるとマルタさんの「おはよう!」が待っている。それだけは何も変わらない。
でも——変わったこともある。
「はい、ユヅキ。今日の分」
マルタさんがカウンターの上に、湯気の立つスープ皿を置いた。こんがり焼けたパン、ゆで卵、それからりんごのスライス。いつもの朝食だ。
「ありがとうございます、マルタさん」
「あんたもすっかり板についてきたねぇ。冒険者らしい顔つきになってきたじゃないか」
マルタさんがにかっと笑う。
——冒険者らしい顔つき。
鏡は見ていないけど、確かに変わった気はする。初依頼であの異常個体フォレストウルフと戦ってからというもの、毎朝ギルドに通って依頼をこなすのが日課になった。薬草採集、荷物運び、農場の柵の修理——地味な依頼ばかりだけど、それでも「冒険者」としての日々を積み重ねている実感がある。
レベルは3になった。ステータスも少しずつ上がっている。
「ユヅキー! パン、パンなのだ!」
ルーノが肩からテーブルにぽんと降りて、焼きたてパンの前でしっぽを振っている。朝の食欲は毎度のこと、ブレない。
「ルーノ、わたしのパン取らないでね」
「取らないのだ! ……半分だけもらうのだ」
「それ取ってるじゃないですか」
「半分はもらうのだ。半分は残すのだ。だから取ってないのだ」
——詭弁だ。手のひらサイズの銀色の従魔が朝から詭弁を弄している。
「はいはい、半分あげるから大人しくしててね」
「わーい! ユヅキは最高なのだ!」
パンをちぎって渡すと、ルーノが両手——両前足?——で抱えて頬張った。幸せそうにもぐもぐしている姿に、こっちまで頬が緩む。
マルタさんがそれを見て、柔らかい目をした。
「……最近、顔つきが変わってきたって言ったけどさ。表情も、前より明るくなったよ。あんた」
その言葉が、不意に胸に沁みた。
——前より、明るくなった。
そうかもしれない。前世のわたしは、朝食をコンビニのパンで済ませて、誰とも話さずに出勤していた。今は、マルタさんの手料理を食べて、ルーノとくだらないやり取りをして、これからリオンさんと合流して——
仲間がいる。居場所がある。
それが、こんなにも人の表情を変えるものなのか。
「あ、そうだ。マルタさん、今日もリオンさんとギルドで待ち合わせしてるので、朝食食べたら行きますね」
「はいよ。気をつけてね」
「行ってきます!」
「行ってくるのだ!」
パンの最後のひとかけらを頬張りながら、ルーノが元気よく宣言した。
◇
冒険者ギルド。
朝の日差しが窓から差し込む受付ホール。
「おはようございます、ユヅキさん」
セリアさんが、いつもの穏やかな微笑みで迎えてくれた。銀緑色の髪が朝の光を受けてきらきらと光っている。
「おはようございます、セリアさん。今日も依頼を——」
そこまで言って——ふと、掲示板に目が止まった。
黄色い依頼書は前と同じ。でも——赤い依頼書が、明らかに増えている。
赤は魔物討伐の依頼だ。
***
【緊急】フォレストウルフ異常個体 目撃報告多数——注意喚起
【依頼】森林外縁部 ゴブリン群 討伐(異常個体含む)
【依頼】森林近郊 狂暴化ベアー 討伐(ランクC以上推奨)
【報告】農場周辺にて異常個体の痕跡確認——警戒を
***
三日前と比べて——赤い紙が、倍以上になっている。
「セリアさん、この掲示板……」
「ええ」
セリアさんの声が、ほんの少しだけ硬くなった。
「この三日間で、異常個体の目撃報告が急増しています。森の手前側にまで出没しているケースも報告されています」
翡翠色の瞳が、掲示板を見つめるわたしを静かに観察していた。
「先日、ユヅキさんたちが報告してくださったフォレストウルフの件も含め——森の異変は、確実に悪化しています」
セリアさんの言葉に、背筋がすっと冷たくなった。
あの時——森の奥から感じた、禍々しい気配。あれが、広がっているということだ。
「ギルドとしても対策を検討中ですが、正直なところ——人手が足りていません」
セリアさんが小さく溜息をついた。プロフェッショナルとしての冷静さの奥に、焦りが滲んでいる。
「……大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。——大丈夫、という言葉が使えるうちに、なんとかしたいですね」
セリアさんの笑顔に、いつもとは違う影が落ちた。
掲示板の前で腕を組んでいると——ルーノの耳がぴくっと動いた。
「ユヅキ、リオンがまだ来てないのだ」
言われて、時計を見た。ギルドのホールの壁にかかっている、大きな振り子時計。
約束の時間を、三十分過ぎている。
「珍しいな……リオンさん、遅刻なんて」
リオンさんは真面目な人だ。この三日間、毎朝きっちり時間通りにギルドに来ていた。むしろ早く来て、わたしを待っていることのほうが多かった。
——何かあったのかな。
もう十分待とう。そう思って、カウンター横のベンチに腰を下ろした。
五分。
十分。
十五分——。
ぎぃ、と。
ギルドの扉が開いた。
「——ごめん、遅れて……」
リオンさんの声だった。
でも——いつもの明るさがない。
顔を上げた瞬間、心臓がぎゅっと縮んだ。
リオンさんの顔が——蒼白だった。
砂色の髪は乱れていて、緑色の瞳は焦点が定まらない。日焼けした健康的な肌が、今日は病人みたいに青ざめている。そして右手に——くしゃくしゃになった封筒を握りしめている。
「リオンさん……? どうしたんですか?」
立ち上がって駆け寄った。リオンさんはベンチの前で立ち止まって、力なく首を振った。
「……手紙が」
かすれた声。喉が渇いているような、息が詰まっているような。
「故郷から——手紙が来て——」
リオンさんの右手が震えている。握りしめた封筒の端が、じっとりと汗で湿っていた。
セリアさんが受付カウンターから身を乗り出して、心配そうにこちらを見ている。周囲の冒険者たちも、何事かとちらちらと視線を向け始めた。
「リオンさん、まず座って。水、飲んで」
ベンチに座らせて、水筒を差し出した。リオンさんは機械的に受け取って、一口だけ含んだ。
——顔色が、本当に悪い。
何があったんだろう。故郷からの手紙。家族のこと——もしかして。
嫌な予感が、胸の底でざわついた。
「ユヅキ……」
リオンさんが、震える声で言った。
「弟が——レンが、やばいんだ」
レン——リオンさんの弟。
前にリオンさんが話していた、体が弱いという弟。
「手紙、見て……」
リオンさんが震える手で封筒を差し出した。受け取ると——中の便箋は涙の跡でにじんでいた。女性の筆跡。お母さんの字なんだろう。
読む。
***
リオンへ
レンの具合が急に悪くなりました。高い熱が三日も下がりません。腕に黒い痣のようなものが広がってきて、村の薬師さんにも原因がわかりません。体力がどんどん落ちていて、食事もほとんど取れなくなりました。
できるなら、一度帰ってきてほしい。お母さん、レンを見ていると怖くてたまりません。
***
——黒い痣。高熱。体力低下。
手紙を読み終えた瞬間、リオンさんの声が聞こえた。
「レンは——八つなんだ。まだ、八つなんだよ」
その声は、怒りとも悲しみとも違う——ただ、どうしようもない無力感に塗れていた。
「前に話しただろ、弟の体が弱いって。でもここ最近は少し落ち着いてたんだ。だから安心して、冒険者としてやっていこうって——なのに」
リオンさんの拳が、膝の上で握りしめられた。
「黒い痣が広がってるって——そんなの、聞いたことない。村の薬師にもわからないなんて——」
声が、震えて途切れた。
わたしは手紙をそっとリオンさんに返した。何か言わなきゃいけない。でも——何を言えばいいのかわからない。
セリアさんが、静かにカウンターから出てきた。
「リオンさん」
セリアさんの声は穏やかだったが、芯がある。
「その症状——高熱、黒い痣、体力低下。もう少し詳しく聞かせていただけますか?」
リオンさんが顔を上げた。セリアさんの真剣な表情に、かすかに希望を見出したのか——ぽつり、ぽつりと話し始めた。
レンの症状は二週間ほど前から始まった。最初は微熱程度だったが、日を追うごとに悪化。一週間前から黒い痣が左腕に現れ始め、今では肩まで広がっている。食欲がなくなり、一日の大半を寝て過ごしている。村の薬師は「風邪」だと最初は言っていたが、黒い痣を見て首を傾げたきり、何もわからなくなった。
セリアさんの表情が、話を聞くうちに微妙に変わっていった。翡翠色の瞳に、確信に近い何かが宿っている。
「リオンさんの故郷の村は、ハルモニアの森に近い場所ですか?」
「え——ええ。森のすぐ南側にある小さな村です」
セリアさんが一瞬だけ目を閉じた。何かを考えている——いや、何かを確認しているような間。
「……この症状については、トマスさんに相談されることをお勧めします。町の薬草師で、この地方の病気や魔物に関する知識は誰よりも豊富です」
セリアさんの言葉は丁寧だったが——その奥に、何か言い切れないものがあった。知っているけど、自分の口からは言えない。そんな雰囲気。
「トマスさん……?」
「はい。ユヅキさんもご存知ですよね」
「はい。——リオンさん、行こう。トマスさんなら何かわかるかもしれない」
リオンさんが重い腰を上げた。封筒を革鎧の内ポケットに丁寧にしまう。大切な——でも受け入れたくない手紙を。
◇
トマスさんの家。
相変わらず薬草の匂いが漂う小さな家。扉を叩くと、すぐに開いた。
「おや、ユヅキか。それに——初めての顔じゃな」
トマスさんの丸い眼鏡の奥の目が、リオンさんを捉えた。
「トマスさん、こちらはリオンさんです。冒険者仲間の——」
「リオンです。よ、よろしくお願いします」
リオンさんが頭を下げた。声がまだ震えている。
トマスさんは何も聞かずに「入りなさい」と言って、中に通してくれた。薬草の棚に囲まれた作業部屋。温かい薬草茶が三つ出てきた。
「で——何があったんじゃ?」
トマスさんは、わたしたちが座るのを待たずに聞いた。長年の経験か、ただ事ではないことを瞬時に察したのだろう。
リオンさんが手紙の内容を語った。
弟レンの症状。高熱。黒い痣。体力低下。村の薬師には原因不明。
トマスさんの表情が——話を聞くうちに、少しずつ険しくなっていった。
穏やかな老人の顔に、鋭い影が落ちていく。
「……黒い痣が広がる。高熱が引かん。体力が日に日に奪われる」
トマスさんが眼鏡を指で押し上げた。その手が、わずかに震えていることに気づいた。
「リオン、と言ったかの。そなたの村は、ハルモニアの森のどちら側にある?」
「南側です。森の端から、歩いて半日くらいの——」
「森に近いか」
トマスさんの声が、低くなった。
「……もしやとは思ったが。その症状——『魔瘴病まきょうびょう』ではないかと、わしは疑う」
魔瘴病。
聞いたことのない言葉だ。でも——その響きが、背筋を凍らせた。
「ま、魔瘴病……?」
リオンさんの声が、掠れた。
「魔瘴とはのう——」
トマスさんが窓の外、森がある方角を見つめた。
「簡単に言えば、呪いのような力じゃ。森の奥深くから漏れ出す、黒い毒のようなもの。普通は森の結界に抑え込まれておるが——何らかの原因でそれが漏れ出した時、近隣の人間や動物を蝕む」
トマスさんが古びた本を棚から引き抜いた。黄ばんだページを繰って、一枚の挿絵を見せる。
——人間の腕に、黒い模様が蔓のように広がっている絵。
リオンさんが、息を呑んだ。
「これは……レンの腕の——」
「黒い痣は、魔瘴が体内に侵入した証じゃ。初期は微熱と倦怠感。やがて黒い痣が広がり、体力を根こそぎ奪っていく。放置すれば——」
トマスさんが言葉を切った。
でも——その先は、言われなくてもわかった。
放置すれば、命を落とす。
「あの異常個体の魔物たちも——目が赤く光り、狂暴化する。あれも魔瘴の影響じゃ。魔瘴は生き物の中に入り込んで、正気を奪い、狂わせる。人間の場合は——病として、じわじわと蝕んでいくんじゃ」
トマスさんの声は静かだったが、その静けさが逆に恐ろしかった。
リオンさんは——真っ白な顔で、拳を膝に押し付けていた。唇が、微かに震えている。
「……じゃあ、レンは。俺の弟は——」
「まだ、手遅れではないはずじゃ」
トマスさんが、はっきりと言い切った。
「黒い痣が全身に広がるまでには、まだ時間がある。症状を聞く限り——あと二、三週間は猶予があるじゃろう」
二、三週間。
それは——希望なのか、制限時間なのか。
たぶん、両方だ。
「治す方法は——あるんですか!?」
リオンさんが身を乗り出した。テーブルの上の薬草茶が揺れる。
トマスさんは、ゆっくりと頷いた。
「二つある」
二本の指を立てて、順に折っていく。
「一つ目は——高位の浄化魔法。魔瘴を体内から直接洗い流す方法じゃ。しかし」
トマスさんの表情が曇る。
「浄化魔法を扱えるのは、聖職者の中でも上位の者に限られる。王都の大聖堂ならば可能かもしれんが——この辺境に、そのような力を持つ者はおらん」
リオンさんの顔が、また暗くなった。王都は遠い。行くだけで何日もかかる。それにレンを連れていくだけの体力が、今のレンにあるとも思えない。
「二つ目は——」
トマスさんが窓の外を見つめた。
「魔瘴の根源そのものを断つことじゃ。漏れ出している源を止めれば、体内に侵入した魔瘴も徐々に弱まり、自然治癒する。ただし——」
眼鏡の奥の瞳が、厳しい光を帯びた。
「根源は森の奥深くにある。そしてそこは——新米冒険者が踏み入れるような場所ではない」
沈黙が落ちた。
——どちらの道も、険しい。
わたしは——ふと、自分のスキルのことを考えた。
「トマスさん。わたしの『お裾分け』で、レン君の体力を支えることは——」
「む」
トマスさんが、鋭い目でこちらを見た。
「『お裾分け』で体力——HPを分け与えれば、一時的に症状を緩和することはできるかもしれん。しかし」
トマスさんの声が、重くなった。
「魔瘴が体内に残っている限り、分けた力は食い潰される。何度お裾分けをしても、根本的な解決にはならん。むしろ——そなたの方が消耗していくだけじゃ」
——やっぱり。
わかっていた、心のどこかで。「お裾分け」は応急処置にはなっても、病気そのものを治す力ではない。
「じゃあ——根本から、治すしかないんですね」
自分で言いながら、その言葉の重みに押し潰されそうだった。
魔瘴の根源を断つ。
森の奥深くにある何かを——止める。
ブロンズランクの、レベル3の新米冒険者に、そんなことができるのか。
「難しい話じゃ」
トマスさんが正直に言った。
「じゃが——方法がないわけではない。森の奥に何があるのか、まず調べる必要がある。いきなり根源に辿り着く必要はないんじゃ。一歩ずつ、じゃよ」
トマスさんの言葉に、かすかな温かみがあった。突き放すのではなく——道を示そうとしてくれている。
「ありがとうございます、トマスさん」
リオンさんが深く頭を下げた。声はまだ震えていたけど——さっきよりは、ほんの少しだけ持ち直した顔色だった。
薬草茶を飲み干して、トマスさんの家を出た。
◇
午後の陽光が、石畳の道を照らしている。
いつもと同じ町並み。いつもと同じ人々の声。でも——隣を歩くリオンさんの足取りは重い。
「……くそっ」
リオンさんが小さく呟いた。拳が、ぎゅっと握りしめられている。
「森の奥なんて——俺なんかじゃ、無理だ。ブロンズランクの新米が、何ができるって言うんだよ。レンが苦しんでるのに、俺は——何もできない」
その声は、自分を責めている声だった。
悔しさと、無力感と、恐怖が入り混じった——押し潰されそうな声。
——わたしは、この声を知っている。
前世の自分の声だ。
何もできない。自分なんかじゃ無理だ。どうせ何をやっても変わらない。そう言って、諦めて、逃げて——最後には、深夜の帰り道で力尽きた。
でも。
今は——違う。
「リオンさん」
立ち止まった。リオンさんが顔を上げる。
「わたし——前の人生で、諦めたことがあるんです」
なぜこんなことを言おうとしているのか、自分でもよくわからない。でも——言わなきゃいけない気がした。
「大切なことを、全部、他人任せにして。自分じゃどうにもならないって思い込んで。結局——何も変えられないまま、終わっちゃったんです」
リオンさんが、不思議そうな顔でこちらを見ている。前の人生、という言葉の意味はわからないだろう。でも、構わない。
「だから——今度は諦めたくないんです。方法がわからなくても、力が足りなくても。探すことはできる。一緒に探すことは——できるから」
リオンさんの緑色の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「諦めないで、リオンさん。一緒に方法を探そう。わたしも力になる」
ルーノがわたしの肩から降りて、リオンさんの膝の上にちょこんと座った。
「ボクもなのだ。ボクだって、レンを助けたいのだ」
リオンさんは——目を見開いて、わたしたちを交互に見た。
そして——ぐっと、唇を噛みしめた。
緑色の瞳に、涙が光った。
「……ユヅキ」
声が震えている。でも、さっきの無力感に塗れた声とは違う。
「ありがとう——ありがとう。俺、お前がそう言ってくれるだけで——」
言葉が詰まった。リオンさんは袖で乱暴に目を拭って、深く息を吸い込んだ。
「……諦めない。レンを、絶対に助ける。何があっても」
その目に、光が戻っていた。
決意の光。家族を守るという、覚悟の光。
「一緒に——やってくれるか。ユヅキ」
「もちろん」
笑って、頷いた。
「『お裾分け』でレン君の体力を支えることはできるかもしれない。一時的でも。その間に、根本的な方法を見つければいい」
「時間稼ぎってことか」
「そう。わたしたちの力で、まず時間を作る。そして——解決の道を探す」
——前世のビジネス脳が、こんなところで役に立つとは思わなかった。問題を分割して、一つずつ対処する。プロジェクトマネジメントの基本だ。
……いや、ちょっと格好よく言い過ぎた。やってることは、元OLが異世界で弟さんの病気を治す方法を手探りで探してるだけなんですけど。
「まず、ギルドに戻ろう。情報を集めないと」
「ああ——ああ、そうだな」
リオンさんが拳を握り直した。
さっきまでの震えは、もうない。
——大丈夫。
この人は、折れない人だ。家族のためなら、何度でも立ち上がれる人だ。
わたしにできるのは——その隣にいて、力を分けること。
それが「お裾分け」の使い方なのかもしれない、と思った。
ギルドに戻ると——空気が、朝とは変わっていた。
冒険者たちがテーブルを囲んで、声を低めて話し合っている。普段の陽気な雰囲気が消えて、どこか張り詰めたような緊張感。
「——赤い目のゴブリンが、群れで出たって話だぞ」
「マジかよ。ゴブリンまで異常個体かよ」
「農場のじいさんが畑で巨大なベアーの足跡を見つけたって——森から出てきたみたいだ」
「このままじゃ、町の周りも安全じゃなくなるぞ」
断片的に聞こえてくる会話が、朝よりもさらに深刻になっている。
セリアさんは受付カウンターで、複数の冒険者からの報告を同時に受け付けていた。いつもは落ち着いたペースの彼女が、羊皮紙にペンを走らせる手が忙しなく動いている。
「セリアさん——」
タイミングを見計らって声をかけると、セリアさんがこちらを見た。翡翠色の瞳に疲労の色が浮かんでいるが、笑顔は崩さない。
「おかえりなさい。トマスさんのところには行かれましたか?」
「はい。弟さんの病気は——魔瘴病かもしれないって」
リオンさんが、かすかに声を絞った。セリアさんは小さく頷いた。やはり、最初から察していたのだ。
「セリアさん、森の奥について——何かわかっていることはありませんか? 魔瘴の根源のことなんですけど」
「それについては——」
セリアさんが言いかけたその時。
「おっと、その話なら——俺が詳しいぜ」
低くて落ち着いた声が、背後から割り込んできた。
振り返ると——ダリウスさんが立っていた。
前に初依頼の報告の時に見た、あのベテラン冒険者。がっしりした体格に短く刈り上げた黒髪、鋭い灰色の瞳。腰の装飾入りの長剣は、ただの飾りじゃないことがひと目でわかる。
「ダリウスさん——」
リオンさんが警戒するように身構えた。知らない人間に対する、当然の反応だ。
ダリウスさんはそれを気にした様子もなく、にやりと笑った。
「前に言っただろ? 森の奥がきな臭いって。——俺は独自に調べてるんだ。お前たちの話を聞いてて、色々と繋がるものがあってな」
「ダリウスさん」
セリアさんが口を挟んだ。声は穏やかだが、僅かに慎重な色を含んでいる。
「この方は信頼できる方です。ランクBのベテラン冒険者で——森の調査を独自に進めてくださっています」
——ランクB。
ブロンズの遥か上だ。そんな人が、わたしたちに声をかけてくる理由は何だろう。
ルーノの耳が、ぴくっと動いた。前にも「ボクの毛並みがざわざわする」と言っていた相手だ。でも——セリアさんが信頼できると言うなら。
「話がある。ちょっと来てくれないか? ここだと人目につくからな」
ダリウスさんが顎でギルドの裏口を示した。
リオンさんとわたしは目を合わせた。一瞬の躊躇。でも——今は情報が欲しい。どんな手がかりでも。
「行きましょう」
わたしが先に答えた。リオンさんが頷いて、ダリウスさんの後に続いた。
ギルドの裏口を出ると、小さな中庭があった。荷物の搬入用らしい石畳のスペースに、木箱がいくつか積まれている。人通りはない。
ダリウスさんが木箱に腰を下ろして、こちらを見た。
「まず聞くが——お前たち、森の奥で何かを感じたことがあるか?」
単刀直入だ。
「はい。初依頼の時に——森の奥から、禍々しい気配を感じました。黒い何かが滲み出しているみたいな」
わたしが答えると、ダリウスさんの目が光った。
「やっぱりな。お前たちも感じてたか」
ダリウスさんが腕を組んで、少し考え込むような間を置いた。
「いいか、これはギルドの公式見解じゃない。俺が独自に調べた情報だ。鵜呑みにするなよ——でも、嘘じゃない」
前置きをしてから、ダリウスさんは語り始めた。
「ハルモニアの森の最奥部に——古代の遺跡がある」
——古代の遺跡。
「大昔の戦争の時代に造られたものだ。もう何百年も前の話だけどな。その時代、強大な魔法使いたちが禁忌の魔法を使った。戦争に勝つために、何でもありの時代だったらしい。その結果——『魔瘴』が生まれた」
ダリウスさんの声が低くなった。
「魔瘴ってのは、禁忌魔法の残滓——残りカスみたいなもんだ。だが、そのカスが恐ろしく厄介でな。生き物を蝕み、狂わせ、土地を汚染する。戦争が終わった後も、魔瘴は消えなかった」
「それで——遺跡に封印したんですか?」
わたしが聞くと、ダリウスさんが頷いた。
「古代の賢者たちが遺跡に結界を張って、魔瘴を封じ込めた。何百年もの間、それでうまくいってた。——しかし」
灰色の瞳が、鋭くなった。
「最近、その封印が弱まっている。理由はわからん。自然劣化か、あるいは——」
ダリウスさんが、言葉を切った。
その目が——一瞬だけ、遠くを見た。森の方角を。
「あるいは——意図的に封印を破ろうとしている者がいるのか」
意図的に。
誰かが、わざと封印を壊そうとしている?
背筋がぞわりとした。
「封印が弱まったから、魔瘴が漏れ出して——異常個体が増えたり、魔瘴病が発生したりしてるんですね」
「飲み込みが早いな」
ダリウスさんが感心したように口角を上げた。
「その通りだ。このまま封印が崩壊すれば——町どころか、この地域全体が魔瘴に飲まれる。人も獣も、全部だ」
リオンさんが、ぐっと拳を握った。
「だったら——遺跡に行って、封印を修復すればいいんですか? それで魔瘴が止まれば——レンも——」
「理屈の上ではな」
ダリウスさんが腕を解いて、膝に肘をついた。こちらを真っ直ぐに見つめる。
「だが遺跡の正確な場所はわからん。森の奥は地図もなく、迷いやすい。それに強力な魔物がうろついてる。俺一人で何度か偵察に入ったが——奥に行くほど魔瘴が濃くなって、長居はできなかった」
ダリウスさんが、ふう、と息を吐いた。
「正直——一人じゃ限界だ。だからお前たちに声をかけた」
「わたしたちに——ですか?」
思わず聞き返した。ランクBの冒険者が、ブロンズランクの新米に助けを求める?
「お前のスキル——『お裾分け』。あれはサポートタイプとしては破格だ。前衛の俺を強化してくれれば、もっと奥まで進める」
ダリウスさんの目が、真剣だった。計算している——でも、単なる利用とは違う何かが、あの灰色の目の奥にある気がした。
「それに——」
ダリウスさんがルーノにちらりと視線を送った。
「お前の従魔。あの銀色の毛並み——只者じゃないだろう。魔瘴の濃い場所で、何か感じ取れるんじゃないか」
ルーノが、ぴくっと耳を立てた。
「……ボクのことが、わかるのだ?」
「見当はつくさ。長年やってりゃな」
ダリウスさんの声に、ほんの一瞬——温かみが混じった。
でもすぐに、いつもの気さくだけど押しの強い口調に戻る。
「具体的な提案だ。一週間後——俺と一緒に、森の奥への調査に行かないか。遺跡の手がかりを探す。見つかれば、封印の修復に繋がるかもしれない」
「一週間後……」
「その間に、準備しろ。装備を整えて、最低限の実戦経験を積め。ブロンズランクのままじゃ、森の奥で生き残れん」
ダリウスさんの言葉は厳しかったが——甘やかしではない、本気の忠告だった。
「ただし——感情だけで動くな」
それはリオンさんに向けられた言葉だった。
「お前の弟を救いたい気持ちはわかる。だが、焦って死んだら元も子もない。準備は徹底しろ」
リオンさんが、歯を食いしばった。悔しそうに——でも、納得はしている顔。
「……わかりました」
「よし」
ダリウスさんが立ち上がって、懐から木の札を取り出した。
「これは俺の連絡先だ。準備ができたら、ギルドの掲示板に伝言を貼れ。連絡する」
木の札を受け取った。「ダリウス」と彫り込まれた、シンプルな名刺のようなものだ。
ダリウスさんが踵を返して——一歩、立ち止まった。
「……ああ、そうだ。一つ聞いとく」
振り返らずに、低い声で。
「お前たち、陽だまりの宿に泊まってるんだろ。あの宿の女将に——よろしく言っといてくれ」
その声に——ほんの一瞬だけ、何かが混じった。
懐かしさ、みたいなもの。
——マルタさんに、よろしく?
ダリウスさんとマルタさんは知り合い? いや、小さな町だし、知り合いでもおかしくない。でも——今の声のトーンは、ただの知人に向けるものじゃなかった。
「……わかりました」
答えると、ダリウスさんは軽く手を上げて——ギルドの裏口から中に戻っていった。
残されたわたしとリオンさんは、中庭で顔を見合わせた。
「……すごい情報だったな」
リオンさんが呟いた。声には驚きと、そしてかすかな希望が混じっている。
「古代遺跡と封印。魔瘴の根源。それを断てば——」
「レン君も治る」
わたしが続けると、リオンさんが強く頷いた。
「一週間。一週間で準備する。絶対に——間に合わせる」
リオンさんの目が燃えていた。
ルーノがわたしの肩の上で、ぽそりと呟いた。
「……あのお兄さん、やっぱりボクの毛並みがざわざわするのだ。でも——悪い人じゃない気もするのだ」
「どっちなの、それ」
「わからないのだ。でも……悲しい目をしてたのだ」
——悲しい目。
ルーノは、よく見ている。
ダリウスさんの灰色の瞳に宿っていた——あの、遠い何かを見つめるような眼差し。あれは——何を見ていたんだろう。
考える間もなく、ギルドの中に戻った。やるべきことが山積みだ。
一週間。
森の奥への調査。
魔瘴の根源を断つ手がかりを、探しに行く。
——前世のわたしなら、「危険すぎる」と断っていたかもしれない。
でも今は——断る理由がない。
リオンさんの弟を救うため。町の異変を止めるため。そして——ルーノの過去の謎を解くため。
全部が、森の奥に繋がっている。
リオンさんが「少し頭を冷やしてくる」と先にギルドを出た後——夕方のギルドは、だいぶ静かになっていた。
冒険者たちの多くは依頼に出発し、残っているのは数人だけ。窓から差し込む西日が、ホールを橙色に染めている。
「ユヅキさん」
セリアさんが、受付カウンターから小さく手招きした。他の受付係に引き継ぎを済ませたらしく、カウンターの端のスツールに座っている。
「少し、お話ししませんか?」
セリアさんの翡翠色の瞳には——いつもの穏やかさに加えて、何か特別な光が宿っていた。
カウンターの端に腰掛ける。セリアさんが温かいお茶を出してくれた。
「今日は、大変な一日でしたね」
「はい……でも、やっと道が見えてきた気がします」
「ダリウスさんの話を聞いて、ですね」
セリアさんが微笑んだ。でも——その微笑みの奥に、何かを測っているような色があった。
「ユヅキさん」
セリアさんの声のトーンが、ほんの少し変わった。いつもの受付嬢の声から——もっと個人的な、静かな声に。
「あなたは——普通の子供ではありませんよね」
心臓が、跳ねた。
「え——」
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね。でも——わたしは、気づいています」
セリアさんの翡翠色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えた。穏やかだけど、深い。何百年も生きてきた者の瞳。
「わたしはエルフです。二百年以上、生きています。その中で——あなたのような『特別な存在』に、何度か出会ったことがあります」
特別な存在。
——もしかして。
「あなたの知識、判断力、精神の成熟度——十歳の子供のそれではありません。それに『お裾分け』というスキル。あれは——神様から直接授かった力でしょう」
否定できなかった。
セリアさんは——わたしが転生者であることに、気づいている。
「驚かないでください。わたしは、あなたを責めているわけではありません」
セリアさんが、お茶のカップを両手で包んだ。温かさを確かめるように。
「過去に出会った転生者たちは——皆、この世界に必要な役割を持っていました」
セリアさんの目が、少し遠くなった。
「ある転生者は勇者として魔王を倒しました。また別の転生者は革新的な魔道具を発明して、人々の暮らしを変えました。そして——」
セリアさんの声が、わずかに低くなった。
「ある転生者は、誰も気づかないところで——多くの命を救いました。その人も、サポートタイプのスキルを持っていた。あなたと、同じように」
サポートタイプのスキルを持つ転生者。
——マルタさんが言っていた、「お裾分けに似たスキルを持つパーティーメンバー」のことだろうか。
「その人は……」
「とても優しい人でした」
セリアさんの目に、深い敬意と——悲しみが浮かんだ。
「でも——優しすぎたのかもしれません」
それ以上は語らなかった。でも——その沈黙が、多くを語っていた。
「セリアさん——わたし、どうすればいいんでしょうか」
気がつけば、弱音が口をついていた。
「魔瘴を止めなきゃいけない。リオンさんの弟を助けなきゃいけない。でもわたしは——ブロンズランクの新米で、スキルは自分が弱くなるだけの『お裾分け』だけで。本当に力になれるのか、わからなくて——」
セリアさんが、静かに目を閉じた。
そして——小さく微笑んだ。
「ユヅキさん。一つだけ、お伝えしてもよいですか」
「はい」
「『お裾分け』のようなスキルは——単なるステータスの共有以上の力を秘めている可能性があります」
わたしの目が、大きくなった。
「古い文献によれば、『分かち合い』系のスキルは——使う者と受ける者の絆の深さに応じて、その効果が増幅されると言われています」
「絆で——効果が変わる?」
「ええ。信頼関係が深ければ深いほど、分けた力は大きくなる。さらに——」
セリアさんの声が、ほんの少し低くなった。まるで秘密を打ち明けるように。
「これはまだ仮説ですが——魔瘴のような『負の力』を、吸収し、浄化する力があるかもしれません」
——魔瘴を、浄化する?
「まだ実証されてはいません。ですが——もしそれが本当なら」
セリアさんの翡翠色の瞳が、夕日の光を受けて金色に煌めいた。
「あなたのスキルは、封印の修復にも——魔瘴病の根本治療にも、役立つかもしれません」
心臓が、大きく打った。
「お裾分け」に——そんな可能性があるなんて。
「あくまで可能性です。過信は禁物ですよ」
セリアさんが、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「でも——あなたの力は、あなたが思っているよりも大きいかもしれない。それだけは、覚えていてくださいね」
温かい言葉。
わたしは——神様の「使い方次第だよ」という言葉を思い出した。
「セリアさん、ありがとうございます」
「いいえ。——あなたらしく生きてください、ユヅキさん。それが、きっと答えになります」
セリアさんが席を立った。
その背中を見送りながら——肩の上のルーノが、ぽそりと呟いた。
「あのお姉さん、すごいのだ。全部わかってるのだ」
「うん……。でも、嫌な感じはしなかったでしょ?」
「しなかったのだ。あの人は——味方なのだ」
わたしも、そう思った。
陽だまりの宿に戻ったのは、日が沈み始める頃だった。
扉を開けると——マルタさんが、食堂のテーブルに腰かけて待っていた。
いつもなら「おかえり!」と明るい声で迎えてくれるのに——今日は違った。
マルタさんの表情が、深刻だった。
「マルタさん——?」
「座りな」
短い言葉。でも、拒否できない重みがあった。
テーブルを挟んで向かい合う。マルタさんの前には、飲みかけの薬草茶が一杯。とっくに冷めている。ずっとここで、待っていたんだ。
「森の奥に行くつもりなんだって?」
——知っている。
「どこから——」
「ダリウスから聞いたよ。さっき、ここに顔を出してね」
ダリウスさんが、この宿に来た? 「女将によろしく」と言っていたのは、伝言だけの話じゃなかったのか。
マルタさんの目が——いつもの温かさの奥に、鋭いものを宿していた。
「事情は聞いたよ。リオンの弟のこと。魔瘴病のこと。森の奥の封印のこと——全部」
「マルタさん、わたし——」
「あたしはね」
マルタさんが、わたしの言葉を遮った。静かだけど、有無を言わせない声。
「行くなとは言わないよ。あんたがそういう子だってことは、もうわかってるからさ」
その言葉に——安堵と、緊張が同時に走った。
「でもね——一つだけ、あんたに話しておきたいことがある」
マルタさんが、テーブルの上の薬草茶に視線を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
沈黙が長くて——ルーノでさえ、黙ってわたしの肩に座っていた。
「昔——あたしにも、仲間がいたんだ」
マルタさんの声が、変わった。いつもの豪快さが消えて——静かで、遠い声。
「冒険者パーティーを組んでてさ。四人。あたしは盾役——タンクってやつ。仲間を守るのが、あたしの仕事だった」
マルタさんの手が——テーブルの上で、ぎゅっと握りしめられた。調理の傷跡だらけの手。
「その中に——アイリスって子がいた」
——アイリス。
「あの子は、『分かち合い』って名前のスキルを持ってたんだ。あんたの『お裾分け』と——よく似た力」
やっぱり。
前にマルタさんが言っていた「お裾分けに似たスキルを持つ仲間」。その人の名前が——アイリス。
「アイリスは若かった。あたしより若くて、でも——とても優しい子だった。誰かが困ってると、すぐに自分の力を分けてしまう。自分が弱くなるのも構わずに」
マルタさんの声が、かすかに震えた。
「ある日——あたしたちは、この森の奥で大きな任務を受けた。魔瘴の調査。今起きてることと——たぶん、同じようなことだよ」
森の奥の調査。魔瘴の調査。それを——マルタさんたちのパーティーが、昔やっていた。
「結果——」
マルタさんの目が、赤くなった。
「仲間の一人が、魔瘴に侵された。正気を失いかけて——暴走した。アイリスは、その仲間を救おうとして——自分の力を全部、分け与えたんだ」
全部。
「魔瘴に蝕まれた仲間を浄化しようとして——でも、魔瘴は強すぎた。アイリスは……自分も魔瘴に飲まれて——」
マルタさんの声が、途切れた。
一つ、二つ、涙がテーブルに落ちた。
「最期に——あの子、笑ったんだよ」
マルタさんの声が、震えていた。でも——笑おうとしていた。泣きながら。
「『誰かを救えるなら、わたしは幸せ』って——そう言って、笑って——」
わたしは——何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
「……森の魔瘴はね、ユヅキ」
マルタさんが涙を拭って、わたしの目を真っ直ぐに見た。
「体だけじゃなく、心まで侵すんだ。恐怖を増幅させて、判断力を奪って、人を絶望させる。優しい子ほど——魔瘴に飲まれやすい」
優しい子ほど。
——わたしのことだ。
マルタさんは、わかっている。わたしが「断れない性格」で、自分を犠牲にしがちな人間だということを。
「あたしは——アイリスを守れなかった。あの時、もっと強ければ。もっと賢ければ。あの子は——」
マルタさんの手が、テーブルの上で震えていた。
わたしは——その手に、自分の手を重ねた。
小さな——十歳の子供の手を。
「マルタさん」
「……ユヅキ」
「わたし、約束します。必ず——生きて帰ってきます」
マルタさんの目が、大きくなった。
「わたしは、アイリスさんのことは知りません。でも——わたしは、一人じゃないです。ルーノがいて、リオンさんがいて。ダリウスさんもいて。一人で全部背負い込んだりしません」
——前世のわたしは、一人で全部背負い込んだ。
でも今は、違う。
「だから——必ず帰ってきます。マルタさんのシチューを食べに」
マルタさんが——ぷっ、と吹き出した。
「あんたねぇ……こういう時にシチューの話かい」
「だって、マルタさんのシチュー、おいしいんですもん」
「ボクもおいしいと思うのだ! 帰ってきたらおかわりするのだ!」
ルーノが肩の上から元気よく宣言した。タイミングが完璧すぎる。
マルタさんが——目を赤くしたまま、からりと笑った。
「……そうかい。じゃあ——約束だよ」
マルタさんが立ち上がって、わたしの頭に手を置いた。温かくて、大きな手。
「必ず帰ってきな。帰ってこなかったら——あたしが森に乗り込むからね」
「えっ、マルタさんが?」
「元冒険者なめんなよ。あたしの体術、まだまだ現役だからね」
マルタさんがにやりと笑った。その笑顔に——少しだけ、かつての冒険者の影が見えた気がした。
「……あたしはね、この子を見てると——アイリスを思い出すんだよ」
マルタさんが、独り言のように呟いた。
「同じ目をしてるんだ。誰かを助けたいって、真っ直ぐな目。——だからこそ、怖いんだよ。あたしは」
その言葉の重さが——胸にずしりと響いた。
「大丈夫です、マルタさん。わたしは——わたしは、自分も大切にします。約束します」
マルタさんがじっと、わたしの目を見つめた。
そして——小さく頷いた。
「……信じるよ。あんたを」
その夜の夕食は、いつもより少しだけ量が多かった。
マルタさんなりの——「たくさん食べて、強くなれ」というメッセージなんだと思う。
シチューを三杯おかわりした。ルーノはミルクを五杯。
夜。二階の部屋。
窓から差し込む月明かりが、ベッドの上にぼんやりと模様を描いている。
長い一日だった。
リオンさんの手紙。魔瘴病。トマスさんの診断。ダリウスさんの提案。セリアさんの告白。マルタさんの過去。
情報量が多すぎて、頭がパンクしそうだ。前世の繁忙期の会議続きを思い出す——いや、あの時は誰かの命がかかってたわけじゃないから、比較にならない。
ベッドに腰かけて、ため息をついた。
「ユヅキ」
枕元で丸くなっていたルーノが、顔を上げた。
「……起こしちゃった? ごめんね」
「起きてたのだ。眠れないのだ」
ルーノが、ぴょこんとわたしの膝の上に移動してきた。銀色の毛並みが月明かりに光って、しっぽの先端がぼんやりと明滅している。
「ユヅキ——ボク、話したいことがあるのだ」
ルーノの声が——いつもの甘えた口調と、少し違った。真剣で、でも怯えたような。
「どうしたの?」
「……森の奥のこと。みんなが話してる——魔瘴とか、封印とか。それを聞いてたら——」
ルーノが、金色の瞳を伏せた。
「なんか——ボクの中で、何かが引っかかるのだ。知ってるような、知らないような。すごく——もどかしいのだ」
「引っかかる?」
「うん。さっきダリウスが『封印』って言った時——ボクの頭の中で、何かがちらっと光ったのだ」
ルーノが、小さな前足でこめかみを押さえた。
「……封印。結界。銀色の光。それから——『守護者』って言葉」
守護者。
「ボクは——何かを守っていた気がするのだ。とても大切な何かを。でも——思い出せないのだ」
ルーノの声が、震えた。
「どうしてだろう。どうして思い出せないのだ。ボクは……ボクは何者なのだ?」
金色の瞳に——涙が浮かんでいた。
手のひらサイズの小さな身体が、かすかに震えている。
トマスさんが言っていた。ルーノは「幻銀獣」——伝承にしか存在しないと思われていた、神に愛された獣。
でもルーノ自身は、自分の過去を覚えていない。「昔はもっと大きかった」という言葉だけが、唯一の手がかり。
「ルーノ」
わたしは、そっとルーノを両手で包んだ。ふわふわの銀色の毛並みが、掌に温かい。
「わからなくても、大丈夫だよ」
「でも——」
「一緒に探そう。森の奥に行けば——ルーノの過去のことも、何かわかるかもしれない」
ルーノが、顔を上げた。涙で濡れた金色の瞳が、月明かりの中でゆらりと揺れている。
「本当に——?」
「うん。ダリウスさんも言ってた。ルーノは『只者じゃない』って。魔瘴の濃い場所で何か感じ取れるんじゃないかって」
「ボクが——役に立てるのだ?」
「役に立つとか立たないとか、そういう話じゃないよ」
わたしは、ルーノの頭を撫でた。
「ルーノは——わたしの大切な仲間だよ。ルーノの過去も、ルーノの真実も——わたしにとっては大切なこと。だから一緒に探すの。それだけ」
ルーノが——ぐす、と小さく鼻を鳴らした。
「ユヅキ……」
「泣かないで」
「泣いてないのだ。目から水が出てるだけなのだ」
——それを泣いてるって言うんですけど。
でもツッコむのはやめておいた。
「……ボク、怖いのだ」
ルーノが、わたしの掌の中で小さく丸まった。
「森の奥の——あの気配。あれを感じると、ボクの中の何かがざわざわするのだ。知ってるような。恐ろしいような。——でも、懐かしいような」
「懐かしい?」
「うん……変なのだ。怖いのに、懐かしいのだ」
怖くて、懐かしい。
それは——もしかして。ルーノの過去と、あの森の魔瘴が、何かしらの形で繋がっているということなのか。
「……一緒に行こう。どんな真実が待ってても」
「ユヅキ……うん」
ルーノが、顔をわたしの掌にすりすりと押し付けた。
「ボク——ユヅキと出会えて、よかったのだ。一人だったら、きっと何も思い出せないまま——ずっと、ちっちゃいままだったのだ」
「ルーノ、小さくても可愛いよ」
「可愛いのはわかってるのだ! でもそういう話じゃないのだ!」
ぷんすか怒りながらも、しっぽはぱたぱた揺れている。
「……ユヅキ。ボクは、怖くても——行くのだ。ユヅキと一緒なら」
「うん。わたしも、ルーノがいるから行ける」
月明かりの下、小さな銀色の従魔と向き合って——二人で、静かに誓い合った。
怖い。正直、怖い。
でも——一人じゃない。それだけで、十分だ。
翌朝——空は、昨日と同じように青かった。
マルタさんの朝食を食べて、宿を出る。いつもの日課だ。でも今日は——待ち合わせ場所がいつもと違う。
町の西の外れ。城壁の近くにある、小さな広場。
リオンさんが、もう来ていた。
朝日を背に立つリオンさんの顔は——昨日とは別人のようだった。蒼白な顔色は、まだ完全には戻っていない。でも——目が違う。
「おはよう、ユヅキ」
リオンさんの声には、決意があった。
「おはようございます、リオンさん。よく眠れましたか?」
「正直——あんまり。でも、頭はすっきりしてる」
リオンさんが、わたしの前に立った。真っ直ぐに、緑色の瞳を合わせて。
「ユヅキ。昨日は——ありがとう。お前がいなかったら、俺、一人で暴走してたかもしれない」
「わたしは何も——」
「してくれたよ」
リオンさんが、はっきりと言い切った。
「諦めるな、って。一緒に探そう、って。あの言葉がなかったら——俺、今頃一人で森に飛び込んでたかもしれない」
——それは、確かに危なかった。
「改めて言う。俺はレンを助ける。そのために——森の奥に行く。危険なのはわかってる。でも、逃げるわけにはいかない」
リオンさんが、右手を差し出した。
「ユヅキ。——一緒に行ってくれるか。パーティーとして」
わたしは——その手を、しっかりと握った。
「もちろん。最初から、そのつもりです」
リオンさんがにかっと笑った。いつもの——太陽みたいな笑顔。
「ボクもなのだ! ボクも行くのだ!」
ルーノがわたしの肩からリオンさんの肩に飛び移って、ぺたぺたと頬を叩いた。
「お前もか、ルーノ。頼りにしてるぜ」
リオンさんがルーノの頭を撫でる。ルーノが目を細める。
三人——いや、二人と一匹の決意。
「さて——一週間、全力で準備しよう。まずはギルドに行って、セリアさんに相談だ」
「ああ。——行こう」
◇
ギルドで、セリアさんに準備計画を相談した。
「森の奥への調査ですか。——わかりました。いくつかご提案があります」
セリアさんがテキパキと準備リストを作ってくれた。
「まず装備。お二人とも、今の防具では森の奥には耐えられません。革鎧の強化と、魔瘴対策のクロークが必要です。ギルドの備品庫にいくつか在庫がありますので、手配しましょう」
「それから——回復薬の備蓄。トマスさんに相談されるのが一番です。あとは保存食と、簡易テント。一日で往復は難しいかもしれませんので」
「最後に——実戦経験です。ブロンズランク向けの戦闘訓練クエストがあります。この一週間で、できるだけこなしてください」
セリアさんが複数の依頼書を渡してくれた。
「フォレストウルフ討伐(手前エリア)」「ゴブリン偵察」「訓練用ダンジョン走破」——ランクが一つ上の、シルバー級の依頼もいくつか含まれている。
「シルバー級の依頼も入ってますが……」
「ダリウスさんの推薦があれば、ランク外の依頼も受けられる特例があります。ダリウスさんには、すでに許可をいただいています」
——ダリウスさん、手回しが早い。
「あと——これを」
セリアさんが、一枚の古びた地図を差し出した。
「ハルモニアの森の概略図です。古い資料で正確ではありませんが、手がかりにはなるかと」
「セリアさん、ありがとうございます」
「いいえ。——お二人が無事に帰ってくることを、心から祈っています」
セリアさんの微笑みに、静かな覚悟が宿っていた。
◇
準備を始めると——町の人たちが、次々と手を差し伸べてくれた。
まず、トマスさん。
「持っていきなさい。特製の回復薬じゃ。通常のものより効きが早い」
小瓶に入った回復薬を五本。さらに——
「これは、魔瘴除けの薬草を詰めたお守りじゃ。気休めかもしれんが——身につけておれば、魔瘴の侵入を多少は遅らせることができる」
小さな布袋に、強い匂いの薬草が詰め込まれている。嗅ぐとスッとする——前世でいうハッカみたいな。
「トマスさん……」
「礼は帰ってきてからでいい。——必ず帰って来るんじゃぞ」
トマスさんの丸い眼鏡の奥の目が、珍しく潤んでいた。
市場に行くと——八百屋のおばさんが。
「ユヅキちゃん、森に行くんだって? ほら、これ持っていきな!」
保存のきく干し肉とドライフルーツを、袋いっぱいに詰めてくれた。
「お代は——」
「いいのいいの! あんたにはいつも助けてもらってるんだから」
パン屋の青年も。
「はい、日持ちするパン! 森では温かいもの食べられないかもしれないけど、これなら三日はもつぜ」
子供たちまでもが。
「ユヅキお姉ちゃん、がんばって!」
「ルーノちゃん、お姉ちゃんを守ってね!」
「任せるのだ! ボクが守るのだ!」
ルーノが胸を張って——また布巾に引っかかりそうになったが、ぎりぎりで踏みとどまった。
両手に溢れるほどの物資を抱えて、宿に戻る。
そして——マルタさん。
「ユヅキ。これ」
マルタさんが差し出したのは——深い緑色の外套だった。厚手の生地で、裏には柔らかい毛皮が縫い付けてある。
「森の奥は冷えるからね。これを着ていきな」
「マルタさん、これ——」
「あたしが昔使ってたやつさ。サイズはちょっと大きいけど……まあ、成長の余地があるってことで」
外套を広げると——たしかに大きい。十歳の子供にはブカブカだ。でも——温かい。そしてどこかに、マルタさんの匂いが残っている。シチューと、薬草と、太陽の匂い。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
——泣きそうだ。
前世では——会社を辞める時、送別会もなかった。「佐藤さん、お疲れ様でした」の一言だけ。
でも今は——こんなにたくさんの人が、わたしのために手を差し伸べてくれている。
「みんな……ありがとうございます」
町の人々の温かさが——胸いっぱいに、溢れた。
これが——わたしの居場所。
守りたい、場所。
リオンさんが横で、鼻をすすっていた。
「なんか……すげえな、この町」
「うん」
「ボク、この町が大好きなのだ」
ルーノが、わたしの肩の上で——珍しく静かに、町並みを見つめていた。
その夜——二度目の夜。
ベッドに横たわって、天井を見つめていた。
準備の初日が終わった。明日から本格的に訓練が始まる。一週間後には——森の奥へ。
窓の外には、相変わらずの星空。エルステアの夜空は、前世の東京では絶対に見られないほど星が多い。天の川がくっきりと見えて、星の光が降り注いでいるみたいだ。
「……すごいことになっちゃったなぁ」
小さく呟いた。
転生して——まだ二週間くらいしか経っていない。それなのに、もう「森の奥に古代遺跡の封印を修復しに行く」という話になっている。
——前世のわたしが聞いたら、「マジですか?」って三回くらい聞き返すと思う。
でも、不思議と——逃げたいとは思わない。
前世のわたしは、いつも逃げていた。面倒なこと、責任のあること、自分で決めなきゃいけないこと。全部、流れに任せて。「断れない性格」を言い訳にして、自分の意志で何かを選ぶことを——避けていた。
今は違う。
森の奥に行くのは——わたしが選んだことだ。
リオンさんの弟を助けたいから。町の人たちを守りたいから。ルーノの過去を知りたいから。
そして——「お裾分け」の真の力を、試してみたいから。
セリアさんが言っていた。分かち合いのスキルは、絆の深さで効果が増幅する。もしかしたら、魔瘴を浄化する力さえあるかもしれない、と。
神様が言っていた。「使い方次第だよ」と。
今なら——少しだけ、その意味がわかる気がする。
「お裾分け」は、自分が弱くなるスキルじゃない。
仲間を強くするスキルだ。
自分の力を分けることで、誰かが立ち上がれる。誰かが戦える。誰かが笑える。
それは——「損」じゃない。
前世のわたしは、「断れないこと」で搾取されていた。でも今は——「分け与えること」で、誰かの力になれている。
同じように見えて、全然違う。
前世の「断れない自分」は、他人に支配されていた。
今の「分け与える自分」は、自分で選んでいる。
その違いが——全てだ。
「……神様。わたし、少しだけわかった気がします」
天井に向かって呟いた。返事はない。当たり前だ。
でも——なんとなく、どこかで聞いてくれている気がした。あの飄々とした笑顔で、「そうかい」とだけ言ってくれている気がした。
枕元のルーノが、寝返りを打った。
「んぅ……ユヅキ……」
寝ぼけている。でも——前みたいに「シチューおかわり」とは言っていない。
「……ユヅキと一緒に……行くのだ……」
夢の中でも、森の奥に行こうとしている。
くすりと笑って、ルーノの頭を撫でた。
「うん。一緒に行こうね」
ルーノが目を開けた。金色の瞳が、暗がりの中でぼんやりと光っている。
「……ユヅキ。起きてたのだ?」
「起きてたよ。考え事」
「考え事なのだ? 何を考えてたのだ?」
「んー……前の人生のこととか。これからのこととか」
ルーノが、わたしの枕元から膝の上に移動してきた。
「ユヅキは、よく考えるのだ。ボクは——あんまり難しいこと考えないのだ」
「ルーノは、それでいいよ」
「でも——一つだけ、考えたことがあるのだ」
ルーノが、わたしを見上げた。金色の瞳が真っ直ぐで——いつもの甘えた表情ではなかった。
「ボク——ユヅキと出会って、生きる意味を思い出せた気がするのだ」
——生きる意味。
「ボクは、自分が何者かわからない。過去も思い出せない。ちっちゃくて、弱くて、布巾にも負けるのだ」
「布巾は関係ないと思う」
「関係あるのだ! ……でも」
ルーノが、小さな前足でわたしの手を握った。肉球がぷにぷにして、温かい。
「ユヅキのそばにいると——ボクは、自分がここにいていいんだって思えるのだ。誰かのためにがんばれるのだ。それが——ボクの生きる意味なのだ」
胸が——じわ、と温かくなった。
「ルーノ……」
「だから——ボクは、ユヅキを守るのだ。ユヅキが誰かを助けるなら、ボクはユヅキを助けるのだ。それが——ボクの役目なのだ」
小さな従魔の、大きな決意。
わたしは——ルーノを両手で包んで、額を合わせた。
「ありがとう、ルーノ。わたしも——ルーノがいるから、怖くない」
「嘘なのだ。ユヅキ、さっきまで怖そうな顔してたのだ」
「……ばれてた」
「ボクには何でもお見通しなのだ」
得意げに鼻を膨らませるルーノ。でも——その金色の瞳も、少しだけ潤んでいた。
「怖くていいのだ。怖いのに進むから、勇気なのだ」
——この子は時々、とんでもなくいいことを言う。
「……そうだね。怖くていい」
わたしは笑って——ルーノを枕元に戻した。
「おやすみ、ルーノ」
「おやすみなのだ。明日からがんばるのだ」
◇
翌朝——三日目の朝。
目が覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。
鳥のさえずり。温かい光。マルタさんの声が、階下から聞こえてくる。
「ユヅキ! 朝ごはんだよ! 今日は特製オムレツ!」
「わーい! オムレツなのだ!」
ルーノが弾丸のように枕から飛び出して、扉に突進した。朝の食欲は健在である。
着替えをして、マルタさんの外套を羽織った。大きい。ブカブカだ。でも——温かい。
鏡に映る自分の姿。十歳の少女。茶色のセミロングヘア、ちょっとくたびれた白と青のワンピースの上に深緑の外套。腰には護身用の短剣。肩には——空席。ルーノはもう階下に行った。
——冒険者っぽく、なってきたかもしれない。
前世の自分が見たら笑うだろう。グレーのスーツを着たOLが、異世界で外套を羽織って森の調査に行こうとしてる。なんの冗談だ。
でも——鏡の中の自分の目は、前世より生きている。
「さて」
深呼吸をした。
「訓練、始めますか」
階下に降りると、マルタさんが特製オムレツを並べていた。ふわっふわの黄金色。ルーノが既にかぶりついている。
「食べて、力つけな。今日から忙しくなるよ」
「はい!」
オムレツを頬張る。おいしい。卵とチーズとハーブの、シンプルだけど完璧な味。
食べ終わって、宿を出る。
外の空気が——澄んでいた。
石畳の道を歩くと、町の人たちが「おはよう、ユヅキちゃん」「今日もがんばってね」と声をかけてくれる。
ギルドの前で、リオンさんが待っていた。
砂色の髪、緑色の瞳。腰の長剣に手をかけて、こちらを見ている。
昨日までの蒼白な顔色は消えて——闘志に燃えた、冒険者の目。
「遅いぞ、ユヅキ」
「リオンさん、早すぎです」
「ボクのほうが早いのだ!」
ルーノがわたしの肩から飛び上がった。
三人——いや、二人と一匹。
パーティー「陽だまり」。勝手に命名した。
ギルドの扉を押し開ける。朝の光が差し込む受付ホール。セリアさんが微笑んで迎えてくれる。掲示板には、赤い依頼書が並んでいる。
一週間。
準備する。鍛える。強くなる。
そして——森の奥へ。
リオンさんの弟を救うため。
町の異変を止めるため。
ルーノの真実を探すため。
そして——「お裾分け」の本当の意味を、見つけるために。
「さあ——行こうか」
リオンさんが笑った。
「行こう」
わたしも笑った。
「行くのだ!」
ルーノが元気よく叫んだ。
朝日が、ギルドの窓から差し込んでいる。
新しい一日が——新しい挑戦が、始まる。




