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町の人々と小さな冒険者

 ルーノと従魔契約を結んでから、五日が経った。


 朝は小鳥のさえずりで目が覚めて、階下に降りるとマルタさんの「おはよう!」が待っている。朝食を食べて、掃除をして、洗い物をして、お昼を食べて、ルーノと散歩して、夕食を食べて、星を見て、眠る。

 そんな毎日が、すっかり当たり前になりつつあった。


 ——前世なら考えられないんですけど。


 午前七時。わたしは宿の一階で、テーブルを布巾で拭いていた。

 前世の午前七時といえば、スマホのアラームを三回スヌーズしてようやく起き上がり、目の下のクマにファンデーションを塗りたくって出勤する時間だ。それが今や、朝日が差し込む食堂で鼻歌まじりにテーブルを磨いている。

 人間、環境が変わると変わるもんである。


「ユヅキ、その次は窓拭きお願いできるかい?」

「はい!」

「ボクもやるのだ! ボクもお手伝いするのだ!」


 肩の上からルーノが元気よく声を上げた。やる気だけは一人前——いや一匹前だが、手のひらサイズの身体で窓拭きは物理的に無理がある。


「ルーノ、ありがとう。でも窓拭きはちょっと——」

「任せるのだ!」


 ルーノが肩から飛び降りて、布巾の端をくわえた。小さな身体でずるずると布巾を引きずりながら窓に向かって突進する。

 結果、布巾に絡まって見事に転がった。


「あうっ!? む、むぅ……布巾が強すぎるのだ……」

「布巾に負ける従魔って、初めて見たよ」


 マルタさんが腹を抱えて笑っている。わたしも思わず吹き出してしまった。

 ルーノは耳をぺたんと伏せて、ぷくっと頬を膨らませている。反則的に可愛い。


「笑うなのだ! ボクだって本気を出せば——」

「はいはい、本気はとっておきな。ほら、ルーノにはこっちの仕事があるよ」


 マルタさんが小皿にミルクを注いで差し出した。ルーノの目が一瞬で輝く。


「わー! ミルクなのだ! おいしそうなのだ!」


 さっきまでの不満顔はどこへやら。しっぽをぶんぶん振りながらミルクに顔を突っ込むルーノ。切り替えが早すぎる。


「……食べ物で釣られるの、ちょっとどうかと思うんですけど」

「まあまあ、可愛いからいいじゃないか」


 マルタさんがにかっと笑う。うん、まあ、否定できない。


 窓拭きを終えて、次は薪割り——のはずだったのだが。


「ユヅキ、薪割りはあたしがやるよ。あんたにはこっちを頼みたいんだ」


 マルタさんが棚から買い物かごを取り出した。


「市場で買い物してきてくれないかい? 野菜と果物、あとパンを頼むよ。これが買い物リストね」


 木の札に書かれた品目を受け取る。にんじん、じゃがいも、たまねぎ、りんご、パン二斤。読める。この世界の文字、転生のおまけで読めるようになっていたのは本当にありがたい。


「はい、行ってきます!」

「ボクも行くのだ!」


 ルーノが肩にひょいと飛び乗った。ミルクの髭が口の周りについたままだ。


「ルーノ、口。ミルクついてる」

「え? ……あ。えへへ」


 ◇


 ハルモニアの市場は、町の中心にある広場に開かれていた。

 石畳の広場に木製の露店がずらりと並んでいる。色とりどりの野菜、積み上げられた果物、焼きたてのパンが並ぶ棚、干し肉やチーズ、それから布地や革製品。


 ——前世の駅ナカの百貨店みたい。いや、もっと活気がある。


 人々の声が重なり合って、賑やかなざわめきを作っている。値切り交渉をしているおじさん、果物を品定めしているおかみさん、駆け回る子供たち。どこを見ても生き生きしていて、見ているだけで元気をもらえる。


「いらっしゃい! あら、あんたマルタんとこの——」


 八百屋のおばさんが、こちらを見てぱっと顔を輝かせた。四十代くらいの、日に焼けたたくましい女性。エプロンの上から大きな声が飛んでくる。


「ユヅキです。マルタさんに頼まれて、買い物に来ました」

「ああ、聞いてるよ! 最近うちの宿で手伝いしてるって子だろ? マルタったら嬉しそうに話してたよ。『働き者の子が来た』ってさ」


 ——マルタさん、そんなこと言ってくれてたんだ。


 じわ、と胸が温かくなる。前世の会社では「佐藤がやって当然」みたいな空気だったから、「働き者」なんて褒められたの、もしかして初めてかもしれない。


「にんじんとじゃがいもとたまねぎ、お願いします」

「はいよ! ——おまけに、これも持っていきな」


 おばさんが袋の中に、リストにない赤い実を数個放り込んだ。


「これ……セイレーンベリー?」

「よく知ってるね! トマスのじいさんに教わったのかい? 森の手前で採れたやつだよ。そのまま食べてもおいしいからね」

「ありがとうございます!」


 おまけまでもらってしまった。この町の人は本当に温かい。


 パン屋に向かう途中、肩の上のルーノが通行人の視線を集めていることに気がついた。


「あら、この子可愛い! 何ていう子?」

「ルーノです。従魔なんです」

「従魔!? こんな小さいのに!」

「ボクはルーノなのだ! よろしくなのだ!」


 ルーノが胸を張って挨拶すると、通りすがりのおかみさんがきゃあきゃあと騒ぎ始めた。


「しゃべった! しゃべったわよ! 可愛い!」

「触っていい? ふわっふわ!」

「え、えへへ……そんなに撫でたら、毛並みが乱れるのだ……でも気持ちいいのだ……」


 ルーノが照れながらも気持ちよさそうに目を細めている。

 一分もしないうちに、ルーノの周りには五、六人のおかみさんと子供たちが集まっていた。完全にアイドル状態である。


 ——この子、町に溶け込むの早すぎない?


 パン屋の青年も「すげえ! 従魔持ちなんだ!」と目を丸くしていた。パンを二斤買ったら、こちらもおまけで小さなクッキーをつけてくれた。


 ——おまけ文化が根づいてるなぁ、この町。前世のコンビニとは大違いだ。


 買い物を済ませて、広場のベンチに座って一息つく。

 ルーノはようやくファンクラブ(仮)から解放されて、ぐったりと肩の上に寝そべっている。


「つ、疲れたのだ……みんな撫ですぎなのだ……」

「人気者は大変だね」

「ボクは人気者なのだ?」

「うん、間違いなく」

「……えへへ」


 嬉しそうにしっぽが揺れている。単純で可愛い。


 と——ベンチの向かいのテーブルで、革鎧を着た数人の男女が話しているのが聞こえた。冒険者、だろう。剣や杖を携えて、日焼けした顔に傷がちらほら。


「——最近さ、ハルモニアの森で変なの出るって聞いた?」

「ああ、フォレストウルフが妙に攻撃的だって話だろ。いつもの縄張りより手前に出てきてるらしいぜ」

「マジかよ。薬草採りのおっさんが追いかけられたって——」

「ギルドにも報告上がってるよ。注意喚起出てた」


 森の魔物が増えている。

 トマスさんも同じことを言っていた。「最近、森の奥で妙な気配を感じる」って。


 ルーノの耳が、ぴくっと立った。


「……ユヅキ」

「うん。聞こえてた」


 気のせい、ではないんだろう。町の冒険者たちも気づいている。


 でも——今のわたしに何ができるわけでもない。レベル1のブロンズランク未満、スキルは「お裾分け」だけ。森の異変がどうこうとか、そういうのは強い冒険者の仕事だ。


 ——そう思っていた、この時は。


 買い物かごを抱えて、宿への道を歩く。

 途中で会う人たちが「おはよう、ユヅキちゃん」「買い物? えらいねぇ」と声をかけてくれる。もう名前で呼ばれている。五日でこれだ。前世の会社では三年いたのに、別部署の人に名前を覚えてもらえなかったのに。


 ——わたし、この町に受け入れてもらえてるんだな。


 その実感が、一歩ごとに少しずつ、確かなものになっていった。



 買い物を終えて宿に戻り、食材をマルタさんに渡すと——ふと、思い出した。


「マルタさん、今日はトマスさんのところに寄ってもいいですか? 薬草のこと、もうちょっと教えてもらいたくて」

「もちろんだよ。あのじいさん、あんたが来るの楽しみにしてるみたいだからね」


 マルタさんがにやりと笑う。トマスさん、無愛想に見えて結構寂しがり屋なのかもしれない。


 町の東端、城壁のすぐ内側にあるトマスさんの家。相変わらず薬草の匂いが漂っている。扉を叩くと、今日は煙が噴き出してこなかった。進歩である。


「おや、ユヅキか。よく来たのう」


 トマスさんが扉を開けて、穏やかな笑みを見せた。丸い眼鏡の奥の目が、少しだけ嬉しそうに細まっている。


「こんにちは、トマスさん。今日も薬草のこと——」

「おお、もちろんじゃ。入りなさい。……おや、その肩の上のは」

「ルーノなのだ! 前に会えなかったのだ!」

「ほほう……」


 トマスさんがルーノをじっと見つめた。眼鏡を指で押し上げて、何か考え込むような表情。


「銀色の毛並みに、光る尻尾の先端……まさか、幻銀獣ファントムシルヴァか?」

「えっ、ルーノの種族、ご存知なんですか?」

「知っておるも何も——伝承にしか存在しないと思っておった。実物を見たのは初めてじゃよ」


 トマスさんの声が、明らかに上ずっている。知識人としての好奇心が抑えきれない、という感じだ。


「幻銀獣は『神に愛された獣』と呼ばれておってな。契約者を選ぶ目は非常に厳しいと言われておる。よほどユヅキの心が清いのじゃろう」

「えっ、いや、そんな——」


 清い心。前世でコンビニのおにぎりを毎晩頬張ってた元OLの心が清いとか言われると、ちょっと居心地が悪い。


「ボクの目に狂いはないのだ! ユヅキは最高なのだ!」


 ルーノが胸を張る。褒められるのは嬉しいけど、ハードルを上げないでほしい。


 薬草の勉強をしている最中に、トマスさんがふぅ、と溜息をついた。


「実はのう、ユヅキ。頼みがあるんじゃ」

「頼み、ですか?」

「最近、膝の具合が悪くてのう。森まで薬草を採りに行くのが辛くなってきたんじゃ。特に青葉草あおばそうが足りなくなっておる。解熱と鎮痛に使う基本的な薬草なんじゃが、町の薬棚の在庫がだいぶ心もとなくてな」


 トマスさんが申し訳なさそうに眉を下げた。


「そなたに、森で青葉草を採ってきてもらえんかのう。十本ほどあれば助かるのじゃが」


 ——「わたしが採ってきます!」


 口から出る前に、頭のブレーキが作動した。


 ——待て待て。前世の二の舞になるぞ。条件反射で「やります!」って言うの、前世でさんざん痛い目見たやつじゃないですか。


 でも。

 トマスさんの膝が悪いのは本当だし、薬草が足りなくなったら困るのは町の人たちだ。


「わたし、採りに行きたいです。でも——」


 ふと、疑問が浮かんだ。


「森って、勝手に入っていいんですか? 冒険者じゃないと危ないんじゃ——」

「むむ、そうじゃな。町の近くなら問題ないが、今は魔物が活発化しておるし……本来なら冒険者登録をしてからのほうが安全じゃろう」

「冒険者登録……」


 頭の中で、さっき市場で聞いた冒険者たちの会話がよぎった。


 トマスさんが頷いた。


「ギルドに登録すれば、正式に依頼として受けることもできるしのう。報酬も出る。薬草採集の依頼はよく出しておるんじゃ」

「なるほど……」


 宿に戻ってマルタさんに相談すると、案の定というべきか——


「冒険者登録? いいじゃないか! 行ってきな!」


 二つ返事だった。


「えっ、いいんですか? 危なくないですか?」

「薬草採集くらいなら大丈夫さ。それに、あんたにはルーノがいるだろ?」

「ボクがユヅキを守るのだ!」


 ルーノが肩の上で力こぶ(どこに?)を作るポーズをしている。頼もしいような、頼もしくないような。


「ギルドは町の中央通りを北に行ったところにあるよ。石造りの大きな建物だから、すぐにわかるさ」


 ◇


 冒険者ギルド。

 マルタさんの言う通り、それはすぐにわかった。


 町の中央通りを北に歩くこと数分。他の木造の建物に混じって、ひときわ立派な石造りの建物がどん、と構えていた。入口の上には鉄製の看板に剣と盾のエンブレムが掲げられている。


 ——ファンタジーの定番、冒険者ギルド。


 前世でプレイしたゲームや読んだ漫画で何度も見た場所だ。でも、本物を目の前にすると——正直、めちゃくちゃ緊張する。


 重厚な木の扉の前で立ち止まった。中からは話し声やら笑い声やらが漏れ聞こえてくる。


「……入ろう」

「ユヅキ、緊張してるのだ?」

「してないよ」

「してるのだ。手が震えてるのだ」


 ばれてた。


 意を決して扉を押し開けた。

 ぎぃ、と重い音がして——中の景色が飛び込んでくる。


 広い。

 思っていたより、ずっと広い。天井が高くて、窓から日差しが差し込んでいる。正面には受付カウンターがあって、左手の壁には大きな掲示板——びっしりと依頼書が貼ってある。右手にはテーブルと椅子が並んでいて、冒険者たちが食事をしたり談笑したりしている。


 ——あれ? 思ったよりオフィスっぽい。


 前世の会社の受付ロビーに似ている。もっとこう、薄暗くてガラの悪い酒場みたいなのを想像していたんだけど。


 でも——視線は確かに感じる。


「おい、子供が来たぞ」

「従魔連れてんな。珍しいな」


 テーブル席の冒険者たちがこちらをちらちらと見ている。好意的か敵意かは判断しにくい。とりあえず——怖い。


 足がすくみかけた、その時。


「いらっしゃいませ。冒険者ギルドへようこそ」


 涼やかな声が、正面のカウンターから響いた。


 見上げると——息を呑んだ。


 長い銀緑色の髪をひとつに結んだ女性が、カウンターの向こうに立っていた。白いブラウスに紺色のベスト。ギルドの受付制服をきちんと着こなしている。

 そして——耳が、尖っている。

 切れ長の翡翠色の瞳がこちらを見つめていて、柔らかな微笑みを浮かべている。


 エルフだ。


 前世のゲームや映画でしか見たことのない、正真正銘の、エルフ。

 美しい。もう、圧倒的に美しい。ファンタジー補正全開である。


「登録をご希望でしょうか?」


 ——しまった、見惚れてた。


「あ、は、はい! 冒険者登録をしたくて——」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 受付嬢——銀緑色のネームプレートには「セリア」とある——が、穏やかな笑顔で手招きしてくれた。


「お名前と、簡単なプロフィールをこちらの用紙にご記入ください」


 差し出された羊皮紙に、名前と年齢を書く。スキル欄に「お裾分け」と書いた瞬間——


「……まあ」


 セリアさんの目が、ほんの一瞬だけ大きくなった。

 すぐに穏やかな表情に戻ったが——確かに、何かに反応していた。


「『お裾分け』……珍しいスキルですね。自身のステータスを他者に分配する、サポートタイプのスキルでしょうか」

「は、はい。自分が弱くなっちゃうので、あんまり便利じゃないんですけど——」

「そんなことはありませんよ」


 セリアさんが、静かだけど確信のある声で言った。


「人を支えるスキルは、この世界では何より貴重です」


 その言葉に、マルタさんの「いつか必ず、誰かを救うことになるからさ」という声が重なった。


「ところで——そちらの肩にいらっしゃるのは、従魔さんですか?」


 セリアさんの翡翠色の瞳が、ルーノに向けられた。

 その目が——ほんの一瞬、鋭くなった。知的な光が走る。


「ルーノなのだ! よろしくなのだ!」


 ルーノが元気に挨拶する。セリアさんは微笑んだが——その微笑みの奥に、何か計りかねているような色があった。


「銀色の毛並み……光る尻尾……」


 セリアさんが小さく呟いた。唇が微かに動く。その声は、わたしの耳にぎりぎり届くか届かないかの音量だった。


「もしかして、あなたは——」


 セリアさんが何かを言いかけて——ぴたり、と止まった。

 一呼吸。


「いえ、なんでもありません」


 にこり、と完璧な笑顔。プロフェッショナルの仮面がすっと降りた感じだ。


「従魔契約を結んでいるのであれば、実力の証明として十分です。年齢は十歳前後ですので、通常は保護者の同意が必要ですが……身寄りがない場合は、従魔契約と適性テストの結果で代替できます」

「適性テスト?」

「ステータスの測定と、簡単な魔力適性のチェックです。痛いことはありませんのでご安心くださいね」


 セリアさんが奥から水晶のような球体を持ってきた。


「こちらに手を置いてください。あなたのステータスを読み取ります」


 おずおずと手を乗せると、水晶が淡く光った。数秒後、セリアさんの手元に半透明のウィンドウが浮かび上がる。わたしには見えないが、セリアさんは静かに数値を読み取っている。


「……なるほど」


 セリアさんが何かを書き留めた。表情は穏やかだが、翡翠色の瞳が一瞬——ほんの一瞬だけ——深い思索の色を帯びた気がした。


 ——何か気になることでもあるのかな。


 でも聞く勇気はない。相手はエルフの美人受付嬢だ。緊張で声が裏返る未来しか見えない。


「それでは、適性テストは問題ありませんので——しばらくお待ちいただけますか? 登録手続きを進めますので」


 セリアさんが奥の部屋へと姿を消した。

 残されたわたしは、カウンター前のベンチに腰を下ろした。


「ユヅキ、あのお姉さん、なんか変だったのだ」

「変?」

「ボクを見た時、目がきらーってなったのだ。何か知ってる目なのだ」


 ルーノの勘は鋭い。わたしも同じことを感じていた。

 セリアさんは——ルーノを見て何かに気づいた。幻銀獣のことを知っている? トマスさんは「伝承にしか存在しない」と言っていた。エルフは長命種だ。もしかしたら、伝承だけじゃない何かを知っているのかもしれない。


 ——考えすぎかな。


 でも、あの一瞬の視線は——忘れられそうにない。



 ベンチに座って手続きを待っていると、隣にどさっと誰かが座った。


「ふぅー……緊張した……」


 横を見ると——青年がいた。

 十八歳くらいだろうか。短く刈り込んだ砂色の髪と、日焼けした健康的な肌。体格は細身だけどしっかりした筋肉がついていて、農村の若者、という印象。深い緑色の瞳が印象的で、素朴だけど好感の持てる顔立ちをしている。

 腰には使い込まれた長剣を携えていて、革鎧は所々擦り切れている。新品じゃない——でも大切に手入れされているのがわかる。


 青年がこちらに気づいて、ぱちくり、と目を瞬かせた。


「あ——君も登録?」


 人懐っこい笑顔。初対面のはずなのに、まるで近所の兄ちゃんみたいな気さくさ。


「は、はい。さっき適性テストを受けて、今手続き待ちです」

「おお、同じだ! 俺も今日登録したんだ。リオンっていうんだ、よろしく!」


 リオンさんが右手を差し出した。握手。前世の名刺交換より何倍もシンプルで、何倍も温かい。


「ユヅキです。よろしくお願いします」

「ユヅキか。いい名前だな! ——って、あれ? その肩にいるの……」

「ルーノなのだ! ボクはユヅキの従魔なのだ!」


 ルーノが胸を張る。リオンさんは目を丸くした。


「すげえ! 従魔持ちなんだ! しかもしゃべるのか!」

「しゃべるのだ! しゃべれるのだ!」


 ルーノが得意げに鼻(鼻?)を膨らませている。


「ボクを撫でてもいいのだ! 一回だけなのだ!」

「お、おう。じゃあ……うわ、ふわっふわだな!」


 リオンさんがルーノの頭を撫でると、ルーノは気持ちよさそうに目を細めた。一回だけ、の約束は速やかに破棄されそうな雰囲気だ。


「リオンさんは、どうして冒険者に?」

「ああ……」


 リオンさんの表情が、ふっと真面目になった。


「俺、辺境の農村の出身なんだ。両親と、弟と妹がいて……家は、その、あんまり裕福じゃなくて」


 視線が一瞬、自分の手に落ちた。日焼けして、マメの痕がある手。


「冒険者になって稼いで、家族に仕送りしたいんだ。特に弟が……ちょっと体が弱くて、薬代もかかるし」


 ——弟さんが病気。


 その一言が、妙に引っかかった。理由はわからないけど——何か、大事なことのような気がして。


「大変なんですね……。でも、家族のために頑張るって、すごいことだと思います」


 わたしが言うと、リオンさんは照れくさそうに頭をかいた。


「すごくはないよ。普通だろ、家族なんだから。——ユヅキは? どうして冒険者に?」


「えっと……」


 どう答えよう。「異世界に転生してきたんで、とりあえず冒険者登録してみようかなと」では身も蓋もない。


「困ってる人の、役に立てたらいいなって思って」


 半分本音で半分建前。でも——嘘じゃない。トマスさんの薬草採集だって、根っこにあるのはそういう気持ちだ。


「いいな、それ。俺もさ、強くなって、誰かを守れる冒険者になりたいんだ」


 リオンさんの緑色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

 その目に、嘘がない。打算がない。ただ純粋に「誰かを守りたい」という想いだけがある。


 ——前世のわたしには、こういう目はできなかったな。


 いつも余裕がなくて、自分のことで精一杯で。でもリオンさんは、自分だって大変なのに、まっすぐ前を見ている。


 少し、眩しかった。


「ユヅキさん、リオンさん」


 セリアさんの声が響いた。カウンターに戻ってきた彼女の手には、金属製のプレートが二枚。


「登録が完了いたしました。こちらが冒険者カードになります」


 差し出されたプレートを受け取る。ずしり、と手のひらに重い。銅色の金属板に、文字が刻まれている。


 ***


 名前:ユヅキ

 ランク:ブロンズ(初心者)

 スキル:お裾分け

 従魔:ルーノ


 ***


 ——冒険者に、なった。


 実感がじわじわと込み上げてくる。前世のわたしが「冒険者」になるなんて、夢にも思わなかった。社員証をぶら下げてオフィスを行き来するのが精一杯だったのに。


「ブロンズランクは初心者ランクになります。受けられる依頼は低難度のものに限定されますが、実績を積めばランクアップも可能ですよ」


 セリアさんが丁寧に説明してくれる。


「また、『お裾分け』はサポートタイプのスキルですので、パーティーを組んで活動されることをお勧めします」


「パーティー……」


 一人では何もできないのは自覚している。攻撃力も低いし、自分を弱くするスキルだし。でも、パーティーを組んでくれる人なんているんだろうか。初心者の、しかも子供と——


「じゃあさ、俺と組もうよ!」


 リオンさんが身を乗り出した。


「え?」

「俺もブロンズランクだし、一人より二人のほうが安全だろ? それに——ユヅキのスキル、すごいと思うんだ。俺が前衛で戦って、ユヅキが後方からサポートしてくれたら、最強じゃん」


 ——最強は言い過ぎだと思うんですけど。


 でも、リオンさんの目は本気だった。打算じゃない。純粋に「一緒にやろう」と言ってくれている。


「……わたしでよければ。足手まといにならないように頑張ります」

「足手まといなんかじゃないって! サポートしてくれる仲間がいるってだけで心強いんだよ」


 リオンさんがにかっと笑う。太陽みたいな笑顔だ。この人、根っからの好青年なんだろう。


「ボクもいるのだ! ボクも戦うのだ!」


 ルーノが負けじと主張する。三人——いや、二人と一匹のパーティーだ。


「それでは、初めての依頼を選んでみましょうか」


 セリアさんが掲示板の方へ案内してくれた。

 壁一面に貼られた依頼書。護衛依頼、魔物討伐、素材採集、配達任務——さまざまな依頼が色分けされたカードで掲示されている。


 その中に——見覚えのある依頼があった。


「あ、これ——」


 黄色いカードに書かれた文字。


 ***


 【依頼:薬草採集】

 依頼者:薬草師トマス

 内容:ハルモニアの森にて青葉草を10本採集

 難易度:ブロンズ

 報酬:銀貨3枚


 ***


「トマスさんの依頼だ! ちょうどよかった!」


 さっきトマスさんに頼まれた青葉草の採集。ギルドに正式な依頼として出してあったんだ。


「薬草採集か。安全そうだし、ちょうどいいな!」


 リオンさんも乗り気だ。


 依頼書をカウンターに持っていくと、セリアさんが受付処理をしてくれた。


「薬草採集の依頼ですね。——お二人とも、気をつけてくださいね」


 セリアさんの声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。穏やかだけど、真剣さが滲む。


「最近、ハルモニアの森で魔物の活動が活発化しているという報告があります。森の手前側は問題ないと思われますが、奥には絶対に入らないでください」


 また、森の異変。

 市場の冒険者も、トマスさんも、そしてセリアさんも。みんな同じことを言っている。


「わかりました。気をつけます」

「俺が守りますから、大丈夫です!」


 リオンさんが拳を胸に当てて宣言した。頼もしいけど——本人もブロンズランクの新人だということは、たぶん本人が一番わかっている。その宣言には、自分を奮い立たせるような響きがあった。


「ルーノも守るのだ!」


 ルーノも負けじと宣言。ただしルーノの場合、手のひらサイズなので迫力は控えめである。


 ギルドの外に出ると、午後の日差しが眩しかった。


「よっし、装備を整えよう。ユヅキ、武器は持ってる?」

「あ、えっと……何も——」

「ないのかよ!?」


 リオンさんが素っ頓狂な声を上げた。まあ、そうなりますよね。


「ちょっと待ってて。ギルドの販売所に初心者用の装備があったはずだ」


 リオンさんが小走りでギルドに戻り、数分後に小さなナイフを持って出てきた。


「はい、これ。護身用の短剣。ブロンズランク向けの安いやつだけど、ないよりはマシだろ。——あっ、お金は報酬から引いてくれればいいから」

「あ、ありがとうございます。お金、ちゃんと返します」

「いいって。仲間だろ?」


 仲間。

 その一言が、胸にじんわりと沁みた。


 短剣を腰に差す。ずっしりとした重みが、「冒険者になったんだ」という実感をくれた。


 リオンさんは腰の長剣に手をかけて、にっと笑った。


「さて、行こうか。初めての依頼だ!」

「はい!」

「出発なのだ!」


 午後の陽光の中、わたしたちは——ハルモニアの森へ向かって歩き出した。



 ハルモニアの森。

 五日ぶりだ。ルーノと出会った、あの森。


 木漏れ日が地面にまだら模様を落としていて、鳥のさえずりが枝から枝へと渡っていく。空気は湿っていて、土と緑の匂いが混ざった独特の香り。前世のオフィスビルの循環空気とは比べものにならない——生きた空気だ。


「いい天気だな。森の入口付近なら、青葉草はそこそこ見つかるはずだ」


 リオンさんが歩きながら言った。


「リオンさん、薬草のこと詳しいんですか?」

「いや、全然。ギルドでもらった簡易図鑑があるんだ。えーっと……青葉草は『やや湿った日陰の地面に群生、葉が特徴的な青緑色で、手で触ると冷たく感じる』……って書いてある」

「あ、トマスさんにもらった紙にも同じこと書いてありました!」


 二人で紙を見比べながら、森の小道を歩いていく。


「あった! これじゃないですか?」


 道端の日陰に、青緑色の葉をつけた草が群生していた。触ってみると——ひんやりする。


「おお、これだこれだ! すげえ、あっさり見つかったな」


 リオンさんが嬉しそうに膝をつく。


「採り方は……根元から丁寧に引き抜くのがいいって書いてある。根っこも薬効成分があるから、切らないようにって」


 二人で黙々と青葉草を抜いていく。一本、二本、三本。思ったより簡単だ。薬草採集って、ピクニックみたいで楽しい。


「ユヅキ、そっちにもあったのだ!」


 ルーノが地面を嗅ぎ回りながら、少し離れた場所を指差した。


「お、ルーノ鼻がいいな! 従魔って便利だなぁ」

「便利って言うな! ボクは便利グッズじゃないのだ!」


 ぷんすか怒るルーノを撫でて宥めながら、採集を続ける。


 七本目を抜いたところで、リオンさんが水筒を差し出してくれた。


「休憩しようか。あと三本だし、急ぐことないだろ」


 木の根元に並んで座って、水を飲む。木漏れ日がきらきらと揺れていて、鳥のさえずりが心地いい。


「……なんか、ピクニックみたいだな」


 リオンさんがぽつりと言った。わたしもちょうど同じことを考えていた。


「同じこと思ってました」

「あはは、そりゃ平和な初依頼だ」


 リオンさんが笑って——それから、ふっと遠い目をした。


「こういうの、弟にも経験させてやりたいな。あいつ、外で走り回るのが好きだったんだ。でも最近は、体がきつくて家からあんまり出られなくて」


 弟さんの話。さっきギルドで聞いた時と、同じ——少しだけ暗い影が落ちる表情。


「病気って、どういう——」


 聞いていいのか迷ったけど、リオンさんは首を横に振った。


「町の薬師にも診てもらったんだけど、原因がはっきりしないんだ。ただ、だんだん体力がなくなっていって……。まだ十二なんだぜ。元気に走り回ってるはずの歳なのに」


 リオンさんの拳が、膝の上でぎゅっと握られた。


「だから——俺は強くならなきゃいけないんだ。稼いで、もっといい薬師を探して。弟を、治してやりたい」


 その声に、覚悟があった。

 家族のために戦う。その想いが、リオンさんの全身から滲み出ている。


「……きっと、大丈夫です」


 気づいたら、言っていた。


「リオンさんみたいに一生懸命な人は、きっといい道が見つかります。わたしも——何か力になれることがあったら、力になりたいです」


 前世のわたしなら、こういう時に「大丈夫」なんて無責任なことは言えなかった。でも今は——「お裾分け」というスキルがある。何かの役に立てる可能性がある。根拠はないけど、不思議とそう信じられた。


 リオンさんが目を丸くして——それから、照れくさそうに笑った。


「……ありがとう。なんか、ユヅキに言われると信じられるな」


 ルーノがわたしとリオンさんの間に割り込んできた。


「ボクも力になるのだ! ボクだって強いのだ!」

「はは、ルーノもな。頼りにしてるぜ」


 リオンさんがルーノの頭を撫でる。ルーノがしっぽをぶんぶん振る。

 穏やかで、温かい時間。

 初めての依頼が、こんなに楽しいものだとは思わなかった。


 ——でも。


 その平穏は、唐突に終わった。


 ルーノの耳が、ぴん、と立った。

 しっぽの光が——不規則に明滅する。


「……ユヅキ」


 ルーノの声のトーンが、がらりと変わった。甘えた「なのだ」口調が消えて、低く、鋭い声。


「何か来る。——変な気配がするのだ」


 リオンさんが反射的に立ち上がった。腰の剣に手をかけて、周囲を見回す。


「変な気配って——魔物か?」

「わからない。でも、普通じゃないのだ。嫌な感じがするのだ……」


 ルーノの銀色の毛が、逆立っている。


 風が止まった。

 鳥のさえずりが、消えた。


 森が——静まり返った。


 がさっ。


 茂みが揺れた。

 目の前の藪の奥から——何かが、こちらを見ている。


 赤い。

 赤い目だ。


 暗い茂みの中に、二つの赤い光が浮かんでいる。獣の目。だが——普通の獣の目じゃない。あれは——狂気の色だ。


 茂みを突き破るように、それが姿を現した。


 狼だった。

 だが——普通の狼じゃない。通常のフォレストウルフよりも一回りは大きい。灰色の毛皮はところどころ黒ずんでいて、口からは唾液が糸を引いている。そして何より——目が赤い。血のように赤く、禍々しく光っている。


 ステータスを確認する。


 ***


 名前:フォレストウルフ(異常個体)

 レベル:8

 HP:120/120

 状態:狂暴化


 ***


 レベル8。HP120。

 わたしたちはブロンズランクの新人だ。レベル1と2の二人組。


 ——まずい。


「ユヅキ、下がれ!」


 リオンさんが叫んで、わたしの前に立った。剣を抜く。鋼の刃が木漏れ日を反射して光る。

 でも——手が震えている。


 当然だ。初めての実戦で、異常個体。相手のレベルは自分の四倍。


 フォレストウルフが、低い唸り声を上げた。

 赤い目がリオンさんを捉える。


 そして——跳んだ。


「っ!」


 リオンさんが剣で受け止める——が、衝撃が凄まじい。体勢が崩れる。ウルフの爪がリオンさんの革鎧をかすめ——


「がっ!」


 左肩。

 爪が革鎧の隙間を抉り、赤い線が走った。血が飛び散る。


「リオンさん!!」


 悲鳴が出た。

 リオンさんが膝をつく。左肩を押さえて、顔を歪めている。剣は手放していない——でも、明らかにダメージを受けている。


 ステータスを見る。


 ***


 リオン HP:45/60 → 28/60

 状態:出血


 ***


 一撃で17も削られた。あと一、二回喰らったら——


 ウルフが態勢を立て直す。赤い目がぎらぎらと光っている。次の攻撃の体勢に入っている。


「くそっ……!」


 リオンさんが歯を食いしばって立ち上がろうとする。でも左肩の傷から血が流れ続けていて、剣を構える腕が震えている。


 ルーノが飛び出した。


「こっちだ!」


 小さな身体で、ウルフの鼻先に向かって突進する。ウルフの注意を逸らすための牽制。ルーノの小さな爪が空気を切り裂いて——


 その瞬間。

 ルーノの身体が、ばっ、と白い光を放った。


 一瞬だけ——ほんの一瞬だけ。

 ルーノの身体が大きくなった——ように見えた。手のひらサイズだったはずの身体が、一回りも二回りも膨れ上がって、銀色の毛並みが鋭い光を帯びて——


 でも、すぐに元に戻った。

 光が消えて、ルーノはまた小さな姿に。


「……っ」


 ルーノ自身も驚いた顔をしている。金色の瞳が一瞬見開かれて——すぐに表情を引き締めた。


 牽制は成功した。ウルフがルーノに気を取られた隙に、リオンさんが距離を取った。

 でも、ルーノの攻撃自体は——小さな身体では、ウルフに傷一つつけられていない。


 ——今の、何だったの?


 ルーノの身体が光ったこと。一瞬大きくなったこと。

 あれは——何?


 でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。


 ウルフが再びリオンさんに照準を合わせた。低い唸り声。口から唾液が垂れている。赤い目が——異様だ。普通の魔物の目じゃない。何かに侵されているような、正気を失ったような——


 リオンさんが剣を構え直す。でも、左腕がほとんど動いていない。出血が止まらない。


 ——このままじゃ、やられる。


 頭の中が、一瞬で冴え渡った。

 恐怖はある。手足が震えている。でも——それ以上に、強い気持ちがある。


 ——わたしに、できることがある。


 お裾分け。

 わたしのステータスを、リオンさんに。


 前回——ルーノを助けた時は、HPだけを分けた。でも今回は違う。戦闘中だ。HPだけじゃ足りない。リオンさんが戦えるようにするには——


 攻撃力。防御力。そしてHP。


 ステータス画面を開く。


 ***


 ユヅキ

 HP:80/80

 MP:100/100

 攻撃力:8

 防御力:6


 ***


 ——五日間の宿暮らしで少しだけステータスが上がっていた。レベルも2になっている。でも、それでも低い。


 分配する。


 HPを30。攻撃力を5。防御力を3。


 それだけ分けたら、わたしのHPは50になる。攻撃力は3。防御力は3。——前回よりはマシだ。前回はHP5まで減らしたけど、今回はまだ余裕がある。


 ——でも、もし失敗したら。もしウルフがわたしに向かってきたら。


 足が震える。


 ——怖い。


 でも。

 リオンさんの背中が見える。血を流しながら、それでもわたしを守ろうと剣を構えている背中。


 ——この人を、助けたい。


 前世のわたしなら、たぶん怯んでいた。

 でも——今のわたしには、選択する力がある。


「リオンさん!」


 叫びながら、駆け寄った。リオンさんの背中に手を触れる。


「ユヅキ!? 何を——」

「お裾分け!」


 叫んだ。

 頭の中で、明確にイメージする。


 ——HP30を。攻撃力5を。防御力3を。リオンさんに!


 胸の奥から、何かが引っ張り出される感覚。

 前回よりも大きい。三つのステータスを同時に分配するのは初めてで、身体の中を何本もの糸がするすると抜けていくような——不思議な感覚。


 温かい光がわたしの手のひらから溢れた。

 金色の、柔らかな光。それがリオンさんの背中を包み込んでいく。


 ***


 ユヅキ HP:80 → 50 攻撃力:8 → 3 防御力:6 → 3


 リオン HP:28/60 → 58/90 攻撃力:15 → 20 防御力:10 → 13


 ***


 ——効いた。


 リオンさんの左肩の傷口から、血が止まった。

 切り裂かれた肉が——完全には塞がっていないけど、出血がぴたりと止まっている。HPが回復した証拠だ。


 そして——リオンさんの全身から、微かな光が溢れている。力が漲っているのが、見ただけでわかる。


「これは——!?」


 リオンさんが驚愕の声を上げた。自分の手を見つめている。剣を握る右手が——さっきまでとは、まるで違う。震えが止まっている。筋肉に力が満ちている。


「ユヅキ……君が、これを……?」

「今なら戦えます! お願い、リオンさん!」


 わたし自身は、ふらりと膝が揺れた。HP50。攻撃力3。防御力3。身体が重い。でも——前回のHP5よりはずっとマシだ。立てる。見ていられる。


 リオンさんが——目を見開いた。

 そしてその目が、ぐっと引き締まった。驚きが、決意に変わる瞬間。


「——ああ!」


 リオンさんが剣を構え直した。

 今度は、重心が違う。足の踏み込みが違う。目の光が違う。


 フォレストウルフが、もう一度跳んだ。

 赤い目。剥き出しの牙。全力の突撃。


 リオンさんが半身をずらした。

 さっきは受け止めるのが精一杯だった攻撃を——今度は、正確に見切った。ウルフの爪がリオンさんの革鎧をかすめるが、ダメージにならない。防御力が上がっているから。


 そして——カウンター。


 リオンさんの剣が、弧を描いた。


 ウルフの横腹に、深い一撃。


「がうっ!?」


 ウルフが吹き飛ばされるように地面を転がった。HP120の異常個体に、確かなダメージが通っている。攻撃力が上がったから——さっきまでの倍以上の威力が、剣に宿っている。


「もう一撃!」


 リオンさんが踏み込んだ。

 ウルフが起き上がろうとする。赤い目がぎらりと光る。でも——動きが鈍い。さっきの一撃のダメージが残っている。


 リオンさんの剣が、上段から振り下ろされた。

 ウルフの首筋に、渾身の一撃。


 鋼が肉を断つ、嫌な音がした。


 フォレストウルフが、どさり、と地面に崩れ落ちた。

 赤い光が——瞳から消えていく。狂気の色が抜けて、ただの獣の目に戻って——そして、動かなくなった。


 ***


 フォレストウルフ(異常個体)を討伐しました。


 ***


 静寂が、森に戻った。

 鳥のさえずりが、遠くから少しずつ聞こえてくる。


 リオンさんが剣を下ろした。肩で息をしている。額から汗が滴り落ちる。


「……倒した」


 その声には、信じられないという響きがあった。


 わたしも——膝から力が抜けて、地面にへたり込んだ。

 HP50。身体はだるい。でも、意識はしっかりしている。


「……やった」


 小さく呟いた。


 リオンさんが振り返った。

 その瞬間——わたしたちの視線の向こう、森の奥の暗がりから。


 ぞわ、と。


 禍々しい気配が、一瞬だけ吹き抜けた。


 黒い——黒い何かが、森の奥深くから滲み出ているような。生命を拒絶するような、冷たくて重い空気。


 ルーノの毛が、逆立った。


「……あれは」


 ルーノの声が、低い。通常モードの甘えた声じゃない。


「近づくな。あの奥には——何か、とてもよくないものがあるのだ」


 わたしにも感じた。身体の芯がぞくりと冷える、原始的な恐怖。


 でも、次の瞬間——その気配は霧のように消えた。

 まるで最初からなかったかのように。森はまた、穏やかな姿を取り戻した。


「……気のせい、じゃないよね」

「気のせいじゃないのだ」


 ルーノが断言した。


 リオンさんは剣を鞘に納めながら、森の奥を凝視していた。


「……あの狼、普通じゃなかった。目が赤く光ってた。何かに——操られてるみたいだった」


 異常個体。

 目が赤く光る、狂暴化した魔物。

 そして、森の奥から漂う禍々しい気配。


 繋がっている。全部、繋がっている。


 でも——今のわたしたちには、それ以上踏み込む力がない。


「……帰ろう。ギルドに報告しないと」

「ああ」


 リオンさんが頷いた。


 残りの青葉草三本を手早く採集して、わたしたちは森を後にした。

 帰り道、誰も口を開かなかった。さっきまでのピクニック気分は、跡形もなく消えていた。



 森を出てすぐ、リオンさんが立ち止まった。


「ユヅキ」


 振り返ったリオンさんの表情は——真剣で、少しだけ困っていた。


「さっきの——あの光。君のスキルだろ? 俺の身体に力が流れ込んできて、傷まで治って——」


 言葉を探しているようだった。口を開いては閉じて、また開く。不器用な人だ。


「……ありがとう」


 ようやく出てきた言葉は、シンプルだった。でも——その声には、万感の想いが詰まっていた。


「ユヅキのおかげで助かった。お裾分けって——自分のステータスを俺にくれたんだろ? 自分が弱くなるのに、それでも——」


「だって、リオンさんが怪我してたから」


 わたしは笑った。


「放っておけなかったんです。それだけですよ」


 前世と同じ言葉。でも——前世とは意味が違う。

 前世では、「断れなかった」から助けていた。今は、「助けたかった」から助けた。

 その違いが——わたしにとっては、何よりも大きい。


「……君のスキル、すごいよ。損するスキルだなんて、とんでもない。俺一人じゃ絶対に勝てなかった」


 リオンさんが拳をぐっと握った。


「俺、もっと強くなりたい。——でも、一人じゃ限界がある。ユヅキ、これからも——一緒に、やってくれるか?」


 その目が、まっすぐだった。

 打算じゃない。利用でもない。ただ純粋に——仲間として、一緒に歩きたいという気持ち。


「……もちろんです」


 頷くと、リオンさんがほっとしたように笑った。


「ボクもずっと一緒なのだ!」


 ルーノがわたしの肩からリオンさんの肩に飛び移って、ぺたぺたと頬を叩いた。リオンさんが「ふわふわだ」と笑う。


 ——仲間、か。


 前世では得られなかったもの。

 今、確かに手の中にある。


 ◇


 ギルドに戻ると、セリアさんが出迎えてくれた。


「おかえりなさい。——あら、お二人とも少し疲れた顔ですね」


 セリアさんの目が、リオンさんの左肩に止まった。革鎧に残った爪痕と、乾いた血の跡。


「何かありましたか?」


 わたしたちは、森で起きたことを報告した。

 異常個体のフォレストウルフ。赤く光る目。狂暴化した行動。そして——森の奥から感じた禍々しい気配。


 セリアさんの表情が、徐々に真剣なものに変わっていった。


「目が赤く光っていた……。やはり、異常個体が発生しているのですね」


 セリアさんの声が低くなった。


「以前から報告は上がっていましたが、実際にブロンズランクの冒険者が遭遇したのは初めてです。詳細を記録させてください」


 羊皮紙にペンを走らせるセリアさんの手は正確で迷いがなかったが、翡翠色の瞳の奥に——懸念の色が浮かんでいた。


「森の奥から禍々しい気配を感じた、とのことですが——」


 セリアさんが、一瞬だけ言葉を切った。何かを言いかけて、やめたような。


「……上層部に報告いたします。貴重な情報をありがとうございます」


 報告が終わって、セリアさんが依頼完了の処理をしてくれた。


「薬草採集の依頼、達成です。青葉草十本、確認しました」


 報酬の銀貨三枚が、カウンターの上に並べられた。


「お二人とも、初依頼お疲れ様でした。——そして、異常個体との戦闘を無事に切り抜けたこと、素晴らしいと思います」


 セリアさんが微笑んだ。その笑顔には、プロフェッショナルとしての冷静さと——僅かだけど確かな温かさがあった。


「初依頼で異常個体に遭遇するなんて、運が悪かったな」


 ふいに、背後から低い声がした。


 振り返ると——テーブル席に座っていた一人の男が、こちらを見ていた。

 三十代前半。がっしりした体格。短く刈り上げた黒髪と、鋭い灰色の瞳。上質だけど派手さのない革鎧。腰には装飾の入った長剣。


 一目で——強い人だとわかった。


「でも無事に帰ってこれたんだ。実力はあるってことだろ」


 男がぐい、と果実酒のジョッキを傾けた。こちらを値踏みするような目で見ている。


「ダリウスさん」


 セリアさんが、少しだけ硬い声で呼びかけた。


「新人さんが疲れているところですので——」

「わかってるよ。ただ、ちょっと気になってな」


 ダリウスと呼ばれた男が立ち上がった。こちらに近づいてくる。


「異常個体の話、聞いてたよ。最近、森の奥がきな臭いって話だろ。——気をつけたほうがいい」


 それだけ言って、ダリウスさんはテーブルに戻っていった。

 その背中を見送りながら——なぜか、少しだけ引っかかるものがあった。


 「気をつけたほうがいい」。その言葉自体は親切だ。でも——あの目。値踏みするような、計算するような目。


 ——考えすぎ、かな。


 ルーノが小声で呟いた。


「あのお兄さん、なんかボクの毛並みがざわざわするのだ」

「……ルーノの毛並みセンサー、結構当てにしてるよ」


 ◇


 ギルドを出て、次はトマスさんの家へ。


 青葉草を差し出すと、トマスさんの目がぱあっと輝いた。


「おお! これは見事な青葉草じゃ。状態もいい。さすがじゃのう」

「リオンさんと一緒に採ったんです」

「リオン? おお、新しい仲間か。それは心強いのう」


 トマスさんが嬉しそうに青葉草の状態を確認している。

 でも——森の魔物の話をすると、その表情が一変した。


「異常個体が出たか……。目が赤く光っておったと?」


 眼鏡の奥の目が、鋭くなった。


「やはりのう。最近の森の気配の変化——ただの気のせいではなかったか」


 トマスさんが窓の外を見つめた。森がある方角。


「何十年もこの町に住んでおるが、こんなことは初めてじゃ。森の奥で——何かが起きておるのかもしれん」


 その言葉の重みは、五日前に聞いた時よりも、ずっと増していた。

 だって今は——わたし自身が、あの気配を感じたから。


「気をつけるんじゃぞ、二人とも。——いや、三人とも」


 トマスさんがルーノにもちらりと視線を送った。


「ほれ、これを持っていきなさい。初心者用の回復薬じゃ。あと薬草茶も。冒険の後はこれが一番じゃ」


 小瓶に入った回復薬三本と、温かい薬草茶を二杯。

 トマスさんの優しさに、胸が温かくなる。


「ありがとうございます、トマスさん」

「礼には及ばんよ。困った時はお互い様じゃ」


 ——マルタさんと同じことを言う。この町の人は、みんな同じ言葉を持っている。


 ◇


 宿に戻ったのは、夕方近くだった。


「おかえり! ——って、その顔。何かあったね?」


 マルタさんは、扉を開けた瞬間にわたしたちの表情を読み取ったらしい。さすがの観察眼だ。


 事情を話すと、マルタさんは最初こそ心配そうな顔をしたが——報酬の銀貨三枚を見せた途端、ぱあっと表情が変わった。


「すごいじゃないか! 初依頼達成おめでとう!」


 がばっ、とわたしを抱きしめた。ふわふわのマルタさんに包まれると、戦闘の緊張がどっと解ける。


「リオンって子も一緒だったのかい?」

「はい。リオンさんに助けてもらいました。——わたしも、少しだけ力になれて」

「少しだけ? あんたのスキルがなきゃ帰ってこれなかったんだろ? 大したもんだよ」


 マルタさんがにっと笑った。


「今日は祝杯だ! リオンって子も呼んできな。夕飯、ごちそうにするよ!」


 リオンさんを呼びに行くと、最初は「いいのかな……」と遠慮していたが、「マルタさんの料理、おいしいですよ」と言ったら一瞬で決まった。この町に来たばかりの彼にとっても、手料理は魅力的らしい。


 夕食は、マルタさんの特製シチューと焼きたてのパン、それにサラダと——果実酒。


「ただし、子供はジュースだからね!」


 マルタさんがユヅキの前にりんごジュースを置いた。リオンさんの前には果実酒。


「え、俺は飲んでいいんですか?」

「十八だろ? この世界じゃ立派な大人さ」


 乾杯。


「初依頼達成、おめでとう!」

「ありがとうございます!」

「かんぱいなのだ!」


 ルーノがミルクの入った小皿に鼻を突っ込む。もはや定番の光景だ。


 シチューは相変わらず絶品で、リオンさんは三杯おかわりしていた。


「うまい……。こんなにうまいもの、初めて食べたかもしれない……」

「あはは、あんたもユヅキと同じこと言うね。嬉しいよ」


 マルタさんが嬉しそうに笑って、さらにシチューを盛る。


 食事が進んで、リオンさんが少し酔いが回ったのか、素朴な笑顔で話し始めた。


「ユヅキと出会えてよかった。一人で冒険者やろうとしてたけど、正直——不安だったんだ」

「わたしこそ。リオンさんがいなかったら、今日は大変でした」

「お互い様だな」


 リオンさんが照れくさそうに頭をかく。


 マルタさんがそれを見ていて、ふっと遠い目をした。


「……いいねぇ、仲間ってのは」


 その声に、懐かしさが混じっていた。


「マルタさんにも、仲間がいたんですか?」


 ふと聞いてしまった。


 マルタさんが一瞬、目を細めた。笑顔のまま——でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ影が落ちた。


「昔はねぇ、あたしも冒険者だったんだよ」

「えっ!?」


 わたしとリオンさんの声が重なった。


「まあ、大した冒険者じゃなかったけどさ」


 マルタさんがからりと笑う。でも——調理で傷だらけになった手を見下ろすその目は、どこか遠い過去を見ているようだった。


「『お裾分け』みたいなスキル……昔、あたしのパーティーにもいたなぁ。仲間を支える、そういうスキルを持ってる人が」


 ——え。


 マルタさんのパーティーに、お裾分けに似たスキルを持つ人がいた?


 聞きたい。もっと聞きたい。でも——マルタさんの目に浮かんだ影を見て、それ以上は聞けなかった。


「……まあ、昔の話さ。今はこうして、若い冒険者にご飯を作るのが生きがいだよ」


 マルタさんが手を叩いて、場の空気を切り替えた。


「さ、おかわりはまだあるよ! たっぷり食べて、明日に備えな!」


 ◇


 リオンさんが宿を出た後——夜。

 二階の部屋のベッドに横たわって、天井を見つめていた。


 枕元では、ルーノがまるくなって眠っている。今日は疲れたのか、いつもより早く寝息を立て始めた。しっぽの先端の光が、ゆっくりと明滅している。


 窓の外には、星空。

 エルステアの夜空は、何度見ても圧倒される。


「……今日は、いろいろあったなぁ」


 小さく呟いた。


 冒険者登録。セリアさんとの出会い。リオンさんとの出会い。初めての依頼。森での薬草採集。フォレストウルフとの戦闘。そして——お裾分けの、二度目の使用。


 前回は、ルーノを助けるためにHPを分けた。

 今回は、リオンさんを救うためにHP・攻撃力・防御力を分けた。


 どちらも——自分が弱くなった。自分のステータスが減った。


 でも。


「……損するだけじゃ、なかったんだ」


 神様が言っていた。「使い方次第だよ」って。

 マルタさんが言っていた。「いつか必ず、誰かを救うことになるからさ」って。


 今日——わたしは、リオンさんを救った。

 わたしのスキルがなければ、リオンさんはあの狼に負けていたかもしれない。最悪の場合——


 考えたくないけど。


 でも、「お裾分け」があったから。わたしが自分の力を分けたから。リオンさんは戦えた。勝てた。帰ってこれた。


 損するスキル?

 違う。

 これは——誰かを支える力だ。


 「お裾分け」の本当の価値が、少しだけわかった気がする。


 自分が弱くなる代わりに、誰かを強くする。自分が削られる代わりに、誰かが立ち上がれる。

 それは損じゃない。それは——


 投資だ。


 ——あ、いや。前世のビジネス用語が出てきちゃった。


 苦笑しながら、寝返りを打った。


 でも——間違ってはいないと思う。

 わたしが力を分ければ、仲間が強くなる。仲間が強くなれば、一緒に困難を乗り越えられる。乗り越えた先に——きっと、もっと大きなものがある。


 マルタさんの過去。セリアさんの意味深な視線。森の奥の禍々しい気配。リオンさんの弟の病気。ルーノの、あの一瞬の光——


 まだわからないことだらけだ。

 でも——ひとつだけ、確かなことがある。


 わたしは、一人じゃない。


 ルーノがいる。リオンさんがいる。マルタさんがいる。トマスさんがいる。セリアさんがいる。


 前世では——一人で全部背負い込んでいた。一人で頑張って、一人で疲弊して、一人で倒れた。


 でも今は違う。

 仲間がいる。支えてくれる人がいる。そして——わたしが支えられる人がいる。


 「脇役」の冒険者生活は、まだ始まったばかりだ。


 枕元のルーノが、寝返りを打った。


「んぅ……ユヅキぃ……シチュー、おかわりなのだ……」


 また食べ物の夢。この子の食い意地は、異世界でもブレない。


 くすっと笑って、ルーノの頭を撫でた。


「おやすみ、ルーノ」


 窓の外の星空が、穏やかに瞬いている。

 明日はまた、マルタさんの「おはよう!」で一日が始まる。

 掃除をして、買い物をして、ルーノと遊んで——そしてきっと、リオンさんと一緒にギルドに行く。


 新しい日常。

 冒険者としての、新しい毎日。


「……明日はどんな依頼があるかな」


 小さく呟いて、目を閉じた。


 エルステアの夜は静かで、星空は遠くて、温かかった。

 小さな銀色の光が、枕元でぼんやりと灯っている。


 ——脇役の冒険者ユヅキ。ブロンズランク。スキル「お裾分け」。従魔ルーノ。


 そして、仲間——リオン。


 物語は、まだ始まったばかりだ。


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