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新しい世界、最初の一歩

 草原を歩き始めて、どのくらい経っただろう。

 三十分か、一時間か。前世なら通勤で歩き慣れた距離だけど、十歳の脚は二十八歳のそれとはだいぶ勝手が違う。歩幅が小さいし、足がすぐに疲れる。でも不思議と苦じゃなかった。

 だって——風が気持ちいいのだ。


 見上げるたびに目に飛び込んでくる青い空。耳をくすぐる鳥のさえずり。草を踏むたびにふわりと立ち上る、甘い緑の匂い。

 前世の通勤路といえば、排気ガスと工事現場の砂埃と、たまに漂う居酒屋の焼き鳥のにおい。それはそれで嫌いじゃなかったけど——比べちゃいけないな、さすがに。


 ——あ、見えてきた。


 草原の緩やかな丘を越えると、眼下に小さな町が広がっていた。

 レンガ色の屋根が寄り添うように並び、その隙間から煙突の煙がほそく立ち上っている。石造りの城壁が町をぐるりと囲んでいて、背の高い時計塔がひとつ、空に向かってすっくと伸びていた。

 城壁の手前には畑が広がっていて、麦わら帽子の農夫がのんびりと鍬を振っている。その向こうには風車がひとつ、ゆったりと回っていた。


 ——絵本みたい。


 思わず足を止めた。

 中世ヨーロッパの農村——いや、ファンタジーの町だ。映画やゲームでしか見たことのない風景が、今、目の前にある。しかも画面越しじゃなくて、風の匂い付き、日差しの温度付きで。


「……ここが、ハルモニア」


 呟いてみると、なんだか実感がじわりと湧いてきた。

 わたしの、新しい町。


 丘を下って城壁に近づくと、開け放たれた門が見えた。門番は——いない。いや、門の脇に椅子を置いて、おじさんが居眠りしている。なんとものどかだ。前世の会社のセキュリティゲートとは大違いである。


 門をくぐると、石畳の通りが真っ直ぐに伸びていた。

 道の両側に木造の家や店が並んでいる。パン屋の看板が風に揺れ、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。八百屋の店先には色とりどりの野菜が積まれ、向かいの雑貨屋のおかみさんが店先の掃除をしていた。


 ——うわ、生活感がすごい。


 当たり前だけど、ゲームの町みたいにNPCが同じ場所をぐるぐる歩いているわけじゃない。人々はそれぞれの生活を送っていて、笑ったり、話したり、怒鳴ったり——生きている。


 すれ違う人たちがこちらを見る。好奇の視線——というほど鋭くはなくて、「見慣れない子がいるな」くらいの、穏やかな関心。

 前世のオフィス街では、誰もすれ違う人の顔なんて見なかった。みんなスマホか足元を見て歩いていた。でもここでは——目が合うと、微笑みが返ってくる。


「お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子かい?」


 ふいに声をかけられて、びくっとした。

 振り返ると、白髪混じりのおじいさんが腰をかがめてこちらを覗き込んでいた。目尻に深い皺が刻まれた、人のよさそうな顔。


「あ、いえ、その……大丈夫、です」


 ——出た、条件反射の「大丈夫」。

 前世から全然変わってないじゃないですか、わたし。


「旅の子かい? 珍しいねぇ、こんな辺境まで。親御さんは?」

「えっと……一人で、来ました」


 嘘は言ってない。一人で転生してきたのは事実だし。


「一人? そりゃあ心細かったろう。宿を探してるなら、この通りをまっすぐ行った突き当たりに〈陽だまりの宿〉ってとこがあるよ。マルタのとこさ。あそこなら安心だから」

「陽だまりの宿……マルタさん」

「そうそう。困ったことがあったら何でも相談するといい。マルタは面倒見がいいからねぇ」


 おじいさんはにっこり笑って、ぽんと肩を叩いてくれた。

 その手のひらの温かさに、不意に胸がきゅっとなった。


 ——知らない子供に、こんなに親切にしてくれるんだ。


 前世では、道に迷った人に声をかける大人なんてほとんどいなかった。みんな忙しくて、目の前のことで手一杯で。わたしだってそうだった。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げると、おじいさんは「はっはっは、大げさだねぇ」と笑って手を振った。


 教えてもらった通りに石畳の通りを歩いていく。

 町は小さい。端から端まで歩いても十分くらいだろうか。でも、小さいぶんだけ温かい。すれ違う人がみんな顔見知りみたいに挨拶を交わしていて、まるで——そう、大きな家族みたいだ。


 前世のオフィスビルは四十階建てだった。何百人もの社員が同じビルで働いているのに、隣の部署の人の名前すら知らなかった。廊下ですれ違っても会釈すらしない。あれに比べたら——


 ——ああ、だめだ。前世と比べてばかりだな。


 苦笑しながら歩いていると、通りの突き当たりに一軒の建物が見えてきた。

 二階建ての木造の建物。壁は白い漆喰で塗られていて、窓枠は茶色。軒先には色とりどりの花が植えられたプランターが並んでいる。

 そして——看板。

 木彫りの看板に、温かみのある書体で書かれている。


 『陽だまりの宿』


 ——ここだ。


 立ち止まって、看板を見上げた。

 まだ知らない場所。まだ知らない人。不安がないと言えば嘘になる。

 でも、あのおじいさんが「安心だ」と言ってくれた。それだけを頼りに——わたしは扉に手をかけた。


 ぎぃ、と木の扉が軽い音を立てて開いた。


 中に入ると、ふわりと温かい空気に包まれた。

 薪の燃える匂いと、何かの煮込み料理のいい香り。奥の暖炉では赤い炎がぱちぱちと弾けていて、木のテーブルと椅子がいくつか並んでいる。壁には色とりどりの花の絵が飾られていて——なんていうか、おばあちゃんの家に来たような安心感がある。


 ——あ、いい匂い。おなか空いてたの忘れてた。


 そう。よく考えたら、転生してから何も食べていない。前世の最後の食事はコンビニのおにぎり二個だったような気がする。


「いらっしゃい!」


 カウンターの奥から、明るい声が飛んできた。

 ぬっ、と現れたのは——ふくよかな、という表現がこれ以上ないほどぴったりな女性だった。

 五十代くらい。赤みのあるほっぺた。茶色いエプロン。薄い栗色の髪をひとつにまとめていて、にかっと満面の笑みを浮かべている。手には木のおたまを持ったまま。


 ——お母さんだ。


 会った瞬間、そう思った。

 自分の母親に似ているとか、そういう話じゃない。もっと根本的な——「この人は安全だ」という本能的な安心感。太陽みたいに温かくて、大きくて、包み込んでくれそうな存在感。


「あら、見ない顔だね。旅の子かい?」


 カウンターから身を乗り出して、こちらを見る。その目には好奇心と、心配と、それからたっぷりの優しさが混ざっていた。


「あ、はい。その……えっと」


 どう説明したらいいんだろう。「異世界から転生してきました」とか言ったら通報される? この世界に警察があるのかは知らないけど。


「記憶が、ちょっと曖昧で……気がついたら一人で、この町の近くにいて」


 半分本当で半分嘘の説明を絞り出す。

 マルタさん——たぶんこの人がマルタさんだ——は、一瞬だけ目を細めた。何かを察したような、でも詮索はしないと決めたような、そんな表情。


「そうかい、そりゃあ大変だったねぇ」


 それだけ言って、すぐにカウンターの裏に引っ込んだ。ガチャガチャと食器の音がして、すぐに戻ってきた。手にはスープの入った器と、ずっしりしたパンが乗ったお皿。


「はい、まずはこれ食べな。話はそれからさ」


 ——え。


「あの、でも、わたし、お金が」

「いいからいいから。こんなにおなかぺこぺこの顔してる子からお金なんか取れないよ」


 マルタさんはからからと笑って、どん、とテーブルの上にお皿を置いた。


 ——ぺこぺこの顔してたんだ、わたし。


 スープは野菜がたっぷり入った、黄金色のコンソメ。パンはずっしり重くて、切ると中からほわっと湯気が立ち上る。


 一口。

 スープを口に含んだ瞬間——じわあ、と身体の芯まで温かさが染み渡った。


「……おいしい」


 思わず声が漏れた。

 コンビニのスープとは全然違う。野菜の甘みと、じっくり煮込んだ旨味と、ほのかなハーブの香り。前世で食べたどんな高級レストランの料理より——いや、比べるのは失礼だ。これはこれで、唯一無二のおいしさ。


「そりゃよかった! あたし特製のスープだよ。まだおかわりあるからね」


 マルタさんが嬉しそうに腰に手を当てた。

 パンをスープに浸して食べると、これがまた絶品で。思わず夢中で頬張っていると、ぽたり、と一滴——スープの中に、涙が落ちた。


「——あ」


 えっ。なんで。

 自分でも驚いた。涙なんて——別に悲しいわけじゃないのに。


「あらあら」


 マルタさんが優しい目でこちらを見ている。


「泣きながらスープ飲む子は初めてだよ。でもね、泣けるってことは、それだけ頑張ってたってことさ」


 その言葉が、胸に刺さった。

 違う。前世でもたまにこういうことがあった。疲れ果てた深夜に、コンビニ弁当の一口目で涙が出るやつ。誰かの温かさに触れた瞬間、張り詰めていたものが一気に緩むやつ。


「す、すみません、なんでもないんです」


 慌てて涙を拭うわたしの頭に、大きな手のひらがぽん、と乗った。


「泣きたいときは泣きな。あたしは気にしないからさ」


 ——ずるい。この人、ずるい。


 なんでこんなに優しいんだろう。見ず知らずの子供に、ご飯を出して、涙を許して、頭を撫でてくれるなんて。前世の会社の人たちが見たら「お人好し」とか「甘い」とか言うんだろう。

 でも、今のわたしには——この優しさが、何よりもありがたかった。


 ◇


 スープとパンを平らげると(おかわりまでした)、マルタさんが切り出した。


「で、あんた。これからどうするんだい? 帰る場所は?」


「……ないです」


 正直に答えた。帰る場所は、文字通りない。前世の東京のワンルームマンションはもう関係ないし。


「そうかい。じゃあ、うちに泊まっていきな」


 あまりにもあっさり言うので、一瞬聞き間違いかと思った。


「え、でも、お金が——」

「お金の話はいいって言ったろ。元気になったら手伝ってくれればいいよ。掃除でも洗い物でも、できることがあるだろ?」


 マルタさんは当然のことのように言う。


「あたしね、困ってる人を放っておけないタチでさ。損な性格だってよく言われるけどね」


 ——え。

 それ。

 それ、わたしも前世でさんざん言われたやつなんですけど。


「あ、あの、でも、ご迷惑じゃ——」

「迷惑もへったくれもないよ。困ったときはお互い様さ」


 にかっ、と笑うマルタさんの笑顔は、有無を言わせない迫力があった。これは断れない。断れないし——断りたくなかった。


 マルタさんに案内されて、二階の小さな部屋に通された。

 木のベッド、小さな窓、白いカーテン。シンプルだけど清潔で、窓からは夕焼けに染まったハルモニアの町並みが見えた。


「ここを好きに使いな。布団もちゃんと干してあるからね」

「ありがとうございます。本当に……ありがとう、ございます」


 何度も頭を下げるわたしに、マルタさんは「大げさだねぇ」と笑った。さっきのおじいさんと同じセリフだ。この町の人は、みんなこうなんだろうか。


 ◇


 夕食は、一階の食堂でいただいた。

 大鍋にたっぷりのシチュー。ほくほくのジャガイモ、とろとろの人参、柔らかいお肉。それに焼きたてのパンとサラダ。


 テーブルには他の宿泊客もいた。旅の商人らしいおじさん、若い夫婦、それから——冒険者っぽい革鎧の男の人。みんなマルタさんと親しげに話していて、笑い声が絶えない。


「ほら、新入りさんだよ! みんな、よろしくしてやっとくれ」


 マルタさんに紹介されて、思わず背筋が伸びる。


「ユヅキって言います。よ、よろしくお願いします」

「おう、ユヅキちゃんか! 小さいのに一人旅とは大したもんだ」

「可愛い子だねぇ。いくつ?」

「えっと……十歳、です。たぶん」


 たぶん、は余計だった。まあいい。


 食卓を囲んで、みんなで食べるシチュー。誰かが冗談を言って、誰かが笑って、マルタさんが「もっと食べな!」とおかわりを盛る。

 賑やかで、温かくて、柔らかい。


 前世の夕食を思い出す。

 コンビニ弁当。一人きりのワンルーム。テレビの音だけが部屋に響いていて、誰とも言葉を交わさない。あの孤独な食卓とは——何もかもが違う。


 ——ここに、居ていいんだ。


 その実感が、じわりと胸に広がった。

 まだ来たばかり。まだ何も始まっていない。でも——居場所がある。それだけで、こんなにも心が軽い。


 食後、マルタさんが食器を片付けながら何気なく聞いてきた。


「そういえばユヅキ、あんた何かスキルは持ってるのかい?」


 スキル。ああ、この世界ではみんなステータスやスキルを持ってるんだっけ。


「あ、えっと……『お裾分け』っていう——」


 言いかけて、恥ずかしくなった。「お裾分け」って、名前からして地味すぎる。攻撃魔法でもなければ回復魔法でもない。自分の力を分け与えるだけの、損するスキル。


「お裾分け?」


 マルタさんの手が止まった。

 振り返った顔には——驚きがあった。でも、嫌悪とか蔑みじゃない。もっと深い、何かを思い出しているような表情。


「……お裾分け。珍しいスキルだねぇ」


 その声のトーンが、それまでと少しだけ違った。軽口を叩くマルタさんではなく、何かを知っているマルタさんの声。


「やっぱり、変なスキルですよね。自分が弱くなるだけで——」

「変なもんかい」


 マルタさんがぴしゃりと言った。


「あんたね、そのスキルを大切にしなよ」


 まっすぐな目で、こちらを見ている。


「いつか必ず、誰かを救うことになるからさ」


 ——え。


 その言葉には、重みがあった。

 「そうなるといいね」みたいな軽い励ましじゃなくて、「そうなる」と知っているかのような——確信。


「……マルタさんは、このスキルのこと知ってるんですか?」

「あたし? あたしはただの宿屋のおかみだよ」


 からっと笑って、マルタさんは食器を棚にしまった。

 それ以上は何も言わなかった。でも——あの一瞬の真剣な目は、嘘じゃなかった気がする。


 ——いつか必ず、誰かを救う、か。


 神様も似たようなことを言っていた。「使い方次第」「このスキルは君自身の選択の力」。

 まだわからない。このスキルが何の役に立つのか、正直ピンとこない。

 でも——二人の大人が、このスキルに何かを見出している。それだけは、覚えておこう。


 二階の部屋に戻って、ベッドに腰を下ろした。

 干したての布団が、ふかふかで気持ちいい。前世のぺしゃんこのマットレスとは雲泥の差だ。


 窓の外では、夕焼けが夜に変わりつつあった。オレンジから紫に、紫から紺色に。エルステアの空はグラデーションが綺麗で、見ているだけで時間を忘れる。


 ——今日一日で、いろんなことがあったな。


 転生して、草原を歩いて、ハルモニアに着いて、マルタさんに出会って。まだ一日も経っていないのに、もう一週間分くらいの出来事が詰まっている。前世の一週間なんて、残業して寝て残業して寝ての繰り返しだったのに。


 ベッドに横になって、目を閉じた。

 清潔なシーツの感触と、窓から入る夜風。遠くからマルタさんの鼻歌が微かに聞こえてくる。


 ——明日は、何をしよう。


 そんなことを考えながら、ユヅキはいつの間にか眠りに落ちていた。

 異世界での、最初の夜だった。


 翌朝、小鳥のさえずりで目が覚めた。

 目覚まし時計じゃない。スマホのアラームでもない。窓の外の木の枝に止まった小鳥が、ちゅんちゅんと朝を告げている。


 ——こういう目覚め方、人生で初めてかもしれない。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。時刻はたぶん六時くらい。前世なら二度寝確定の時間だけど、不思議と身体が軽い。八時間は寝ただろうか。前世の睡眠時間の倍だ。


 階下に降りると、マルタさんがもう厨房に立っていた。


「おはよう! よく眠れたかい?」

「はい、ぐっすりです。ありがとうございます」

「そりゃよかった。ほら、朝ごはん食べな」


 焼きたてのパンと目玉焼き、ベーコン、それからフルーツの盛り合わせ。朝からこんなに食べていいんだろうか。前世の朝食はエナジーバーとブラックコーヒーだったのに。


 もぐもぐと朝食を平らげていると、マルタさんが棚から包みをひとつ取り出した。


「ユヅキ、ちょっと頼まれてくれないかい?」

「は、はい。何でもやります!」


 即答した。いや、この即答癖は前世の名残なんですけど。でも今回は——お世話になってる恩返しだから、いいよね。


「町外れにトマスっていう薬草師のじいさんがいるんだけどさ、この薬草の包みを届けてほしいんだよ。あたしが注文してたやつでね」

「トマスさん……薬草師」

「そうそう。ちょっと気難しいところがあるけど、根はいい人だよ。町の東の、森に近い小さな家さ」


 薬草の包みを受け取って、宿を出た。

 朝のハルモニアは昨日の夕方とはまた違った顔を見せていた。通りに面したパン屋から湯気が立ち上り、荷馬車がごとごとと石畳の上を走っていく。おかみさんたちが井戸端で談笑している声が、朝の澄んだ空気に心地よく響いている。


 ——平和だなぁ。


 教えられた道を歩いて、町の東端までやってきた。

 城壁のすぐ内側に、ぽつんと小さな家が建っている。石と木で造られた質素な家で、周囲には色とりどりの薬草が植えられた花壇——いや、薬草畑がある。ラベンダーに似た紫の花、ミントに似た緑の葉、それから名前のわからない赤い実をつけた低木。空気そのものがハーブの香りに満ちている。


「すみませーん。マルタさんからのお届け物で——」


 扉を叩くと、ぎい、と開いて——中から白い煙がもわっと噴き出してきた。


「うおっ!?」

「おお、すまんすまん。少し調合に失敗してのう」


 煙の中からゆっくりと現れたのは、七十代くらいの痩せた老人だった。

 純白の髪を後ろに撫でつけていて、丸い眼鏡の奥に穏やかな瞳が光っている。薄い灰色のローブは薬草の染みがあちこちについていて、いかにも——という雰囲気。部屋の中は所狭しと薬草の束や瓶が並んでいて、まるで魔法使いの研究室みたいだ。


「おや、新しい顔じゃの。マルタの使いかい?」

「は、はい。薬草の包みをお届けに来ました」

「おお、それはありがたい。入りなさい、入りなさい」


 トマスさんは包みを受け取ると、丁寧に中身を確認してから、満足そうに頷いた。


「うむ、良い状態じゃ。マルタめ、相変わらず保管が丁寧じゃのう」


 ——「め」って言った。仲いいんだな、この二人。


「そなた、名は?」

「ユヅキです。昨日ハルモニアに来たばかりで、マルタさんのところでお世話になってます」

「ほう、ユヅキか。そうかそうか」


 トマスさんはしばらくこちらをじっと見つめてから——ふっ、と目を細めた。


「好奇心の強い目をしておるな。薬草に興味はあるかい?」

「薬草……ですか?」


 正直、前世では薬草どころか草花の区別もつかなかった。ベランダのサボテンすら枯らした実績がある。


「まあまあ、そう構えなさんな。基本を少し教えてやろう」


 トマスさんは立ち上がって、壁に掛けてある薬草の標本を指差した。


「これはリコリスの根。解毒に使う。こちらはムーンミント。鎮静効果がある。そしてこの赤い実——セイレーンベリーと言ってな、体力の回復を助ける効果がある」


 ——あ、面白い。


 思わず聞き入ってしまった。異世界の薬草は、前世のハーブとどこか似ているようで全然違う。効能がダイレクトにステータスに影響するらしい。さすがゲーム的世界観。


「セイレーンベリーは特にのう、ポーションの原料にもなるんじゃ。この辺りの森に自生しておるが、最近は少し採れにくくなってきたかのう」

「採れにくく?」

「うむ……」


 トマスさんの表情が、ほんの少し曇った。


「最近、森の奥で妙な気配を感じるんじゃよ。魔物が増えたような、というか……空気が少し、重くなった気がするんじゃ」


 ——魔物が、増えた?


「大丈夫なんですか、それ」

「まあ、町に近い場所は問題ないじゃろう。森の奥の、ずっと深いところの話じゃからな。ただ……」


 トマスさんは丸い眼鏡を指で押し上げて、窓の外——森のある方角を見つめた。


「気にはなっておる。もう何十年もこの町に住んでおるが、こういう感覚は初めてじゃ」


 その言葉には、長年の経験に裏打ちされた不安が滲んでいた。ただの老人の杞憂——とは思えなかった。


「……でも、すぐに問題にはならんじゃろう。すまんな、年寄りの取り越し苦労かもしれん」


 トマスさんは急に表情を和らげて、からからと笑った。


「それよりユヅキ、薬草に興味があるなら、いつでもおいで。この老いぼれの相手をしてくれると助かるのでな」

「ぜひ! お願いします」


 思わず食いついてしまった。薬草の知識は——なんとなく、この世界で役に立ちそうな気がする。少なくとも攻撃力3のわたしが戦闘で活躍するよりは現実的だ。


 トマスさんのところを後にして、宿に戻る道すがら。

 町の東側に広がる森が目に入った。


 ハルモニアの森。

 トマスさんが言っていた、薬草が自生する森。町に近い部分は安全だと言っていたし——ちょっと散歩くらいなら、大丈夫だろうか。


 宿に戻ってマルタさんに報告すると、「午後は好きにしていいよ」と言ってもらえた。午前中は言葉通りお手伝い——食器洗いと掃除をして、お昼ご飯をいただいてから、ユヅキは森へと足を向けた。


 ◇


 森の入口に立った瞬間、空気が変わった。

 町の空気とは違う、もっと濃くて、湿っていて、生命力に満ちた空気。木漏れ日が地面にまだら模様を描いていて、頭上では枝と枝の間から青い空が覗いている。


「わぁ……」


 思わず声が漏れた。

 前世で見た「森」と言えば、修学旅行で行った軽井沢の整備された遊歩道くらいだ。あれとはまるで違う。ここは——森が生きている。


 足元には苔むした石。頭上では鳥が鳴き交わし、どこかでリスのような小動物がかさかさと走り回っている。巨木が空に向かって腕を広げるように枝を伸ばし、木漏れ日がきらきらと揺れている。


 ——綺麗。


 前世では、こんな場所に来る暇がなかった。休日は疲れて寝てるか、溜まった洗濯物を片付けるか。自然の中を散歩するなんて、夢のまた夢だった。


 でも今は違う。

 空は青くて、風は優しくて、足元は柔らかい。誰にも急かされない。締め切りもない。上司の「佐藤、あれ頼めるか?」もない。


 ゆっくりと森の小道を歩いていく。

 道沿いにはトマスさんに教えてもらった薬草がちらほら見える。あの紫の花はリコリス。あっちの緑の葉はムーンミント。覚えたばかりの知識が、目の前の風景と結びついていく。


 ——ああ、こういうの、楽しい。


 誰かのために走り回るのではなく、自分のために歩いている。自分の足で、自分のペースで。それだけのことが、こんなにも嬉しい。


 しばらく歩くと、小さな川に出た。澄んだ水が苔むした岩の上を滑るように流れていて、水面に木漏れ日が反射してきらきら光っている。

 川の向こうは森がさらに深くなっていて、木々の密度が増している。トマスさんが言っていた「森の奥」はあっちのことだろう。


 ——これ以上は行かないほうがいいかな。


 そう思って引き返そうとした、その時だった。


 かすかに——本当にかすかに、何かの声が聞こえた。


「…………ぅ」


 鳴き声? いや、呻き声——?


 風に混じって消えそうなほど小さな音。でも、確かに聞こえた。

 川の向こう、少し奥まった茂みの中から。


 ——気のせい?


 立ち止まって耳を澄ませる。


「…………う、ぅ」


 気のせいじゃない。

 何かがいる。何かが——苦しんでいる。


 頭では「危ないかもしれない」と思っている。

 レベル1。HP15。攻撃力3。こんなステータスで森の奥に踏み込んだら、スライム一匹にだって負ける可能性がある。いや、この世界にスライムがいるのかは知らないけど。


 でも——足が動いていた。


 川を渡る。浅瀬だったから靴を濡らすだけで済んだ。茂みを掻き分けて、声のする方向に進む。


 ——大丈夫、まだ町に近い場所だし。トマスさんも「町の近くは問題ない」って言ってたし。


 自分に言い聞かせながら、茂みの奥を覗き込んだ。


 ——あ。


 そこに、いたのは。

 小さな——本当に小さな生き物だった。

 手のひらに乗るくらいのサイズ。ふわふわとした銀色の毛並みが、木漏れ日を受けてかすかに光っている。猫とうさぎを足して割ったような姿で、背中には小さな翼が萎れるように畳まれていて、しっぽの先端がぼんやりと、弱々しく明滅している。


 美しい生き物だった。

 でも——左の前足から、赤い血が流れていた。


「……っ」


 息を呑んだ。

 銀色の毛並みの一部が赤く染まっている。呼吸は浅く、ぐったりと横たわったまま微かに震えている。目は閉じていて——苦しそうに眉を寄せていた。


 反射的にステータス画面を開く。対象に意識を向ければ、相手の情報が見えるはず——


 ***


 名前:???

 種族:???

 レベル:?

 HP:5/50

 状態:瀕死


 ***


 HP5。最大値50に対して、たったの5。


 ——このままじゃ、死んじゃう。


 心臓がどくんと跳ねた。

 前世のわたしなら——いや、前世のわたしだって、こういう場面では動いていたはずだ。道端で倒れている人を見たら、会社に遅刻してでも救急車を呼んでいた。

 困っている人——いや、困っている「存在」を放っておけない。それはもう、性格とかお人好しとかいう次元じゃなくて——生き方だ。


 でも。

 どうすればいい?


 薬草の知識はさっき仕入れたばかりだし、治癒魔法なんて持っていない。ポーションもない。この子を抱えて町に戻る間に——間に合うのか?


 HP5。あとひとつ何かあったら、ゼロになる。


 ——待って。


 ふと、頭の中に閃いたものがあった。


 スキル。

 お裾分け。

 自分のステータスを、他者に分け与えるスキル。


 ——HPを、分けられる?


 スキルの説明文を慌てて開く。


 【お裾分け】

 自身のステータスを対象に分配する。分配した数値分、自身のステータスは減少する。

 ※対象に触れた状態で発動可能


 HPを分配——つまり、わたしのHPをこの子に分け与えれば、回復できる?


 でも。

 わたしのHPは15。

 この子のHPは5/50。まともに回復させるなら——


 計算する。10分けたら、この子は15になる。でもわたしのHPは5になる。

 5分けたら、この子は10。わたしは10。

 どっちにしろ——わたし自身が危なくなる。


 森の中だ。魔物がいるかもしれない場所。HP一桁の状態で残されたら——


 手が震えた。

 怖い。正直に言えば、怖い。


 前世では、自分を削って人を助けるのが日常だった。でもそれは——体力の話じゃなくて、時間とか気力の話だ。HPを分けるって、もっと直接的で、もっとリアルだ。


 数秒の逡巡。


 銀色の生き物が、かすかに呻いた。

 閉じた瞼の下で、苦しそうに——まるで夢の中で何かから逃げているように。


 ——前世のわたしなら。


 脳裏に、麻衣の声が蘇った。

 「自分を大事にしない優しさは、いつか壊れるからね」。


 そうだ。前世では、断れなかった。頼まれるままに差し出していた。自分の意志じゃなくて、断れないから。嫌われたくないから。


 でも、今は違う。


 今、わたしの目の前で苦しんでいる小さな命がある。

 誰にも頼まれていない。誰の目もない。断っても、誰にも嫌われない。


 それでも——助けたいと、思う。


 これは義務じゃない。反射でもない。

 わたし自身の、選択だ。


 ——神様。あなたが言ってた「選択の力」って、こういうことですか。


 震える手で——でも、確かな意志を持って。

 わたしは銀色の生き物にそっと手を伸ばした。


 触れた瞬間、ふわりと温かい感触が指先に伝わった。

 銀色の毛並みは見た目通りにふわふわで、触るとかすかに光を帯びる。体温は低い。冷たくなりかけている。


 ——急がなきゃ。


 スキルを発動する。頭の中で、強く念じる。


 ——お裾分け。HP、10を、この子に。


 瞬間、胸の奥から何かが引っ張られるような感覚があった。

 痛みとは違う。でも確かに「何かが減っている」という実感。自分の中にあったエネルギーの一部が、指先を通じて銀色の生き物へと流れていく。


 温かい光が手のひらと銀色の毛並みの間に灯った。

 淡い——星の光みたいな、柔らかな金色の光。それがゆっくりと生き物の全身を包んでいく。


 ステータスウィンドウが更新される。


 ***


 ユヅキ HP:15 → 5


 ??? HP:5/50 → 15/50


 ***


 ——あ。


 ふらり、と視界が揺れた。

 膝から力が抜けて、思わず地面に手をついた。HPが5になった瞬間、身体が一気に重くなった。まるで徹夜明けの月曜日みたいな——いや、それよりひどい。全身がだるくて、視界の端がぼやけている。


 ——きっつ……。


 でも。

 銀色の生き物を見ると——傷口から流れていた血が、止まっていた。

 呼吸が安定している。震えが収まっている。冷たかった体温が、少しだけ戻っている。


「……良かった」


 その言葉が、自然と口から零れた。

 膝はがくがくしている。身体は鉛みたいに重い。HPが5しかない状態で森の中にいるのは、客観的に見てかなりまずい。


 でも——後悔はなかった。


 これは自分で選んだことだ。

 誰かに頼まれたんじゃない。断れなかったからでもない。

 この小さな命を、助けたいと思ったから。自分の意志で。


 ——ああ、これが。


 「お裾分け」の使い方。

 神様が言っていた、「選択の力」。


 損するスキル? まあ、確かに損はしている。HPが三分の一になった。身体はぼろぼろだ。

 でも——この子が生きている。それだけで、十分だった。


 ユヅキは銀色の生き物の隣に座り込んで、荒い息を吐いた。

 木漏れ日が二つの影を柔らかく照らしている。

 あとはこの子が目を覚ますのを——待つだけだ。


 どのくらい時間が経っただろう。

 十分か、三十分か。太陽の位置が少し動いた気がする。


 ユヅキは木の幹に背を預けて、隣の銀色の生き物を見守っていた。HP5の身体はだるくて仕方ないけど、不思議と眠気はない。心臓がまだどきどきしているせいかもしれない。


 と——銀色の生き物の耳が、ぴくり、と動いた。


「……っ」


 ユヅキは思わず身を乗り出した。

 小さな身体がもぞもぞと動いて——ゆっくりと、瞼が開いた。


 金色の瞳。

 鋭くて、深くて、星の輝きを凝縮したような、美しい金色。

 その瞳がぼんやりと焦点を結び——ユヅキの顔を捉えた。


 一瞬の沈黙。

 銀色の生き物が、ユヅキを見上げている。ユヅキが、銀色の生き物を見下ろしている。

 木漏れ日がふたりの間をきらきらと舞っている。


「……き、君が」


 声がした。

 小さいけれど凛とした声。間違いなく——この生き物の口から。


「君が、ボクを……助けて、くれたのか……?」


 ——しゃべった!?


「え、えっ!? しゃべ——言葉、話せるんですか!?」


 驚きすぎて声が裏返った。いやいやいや。猫とうさぎのハイブリッドみたいな見た目の生き物が、流暢に人語を。異世界だからアリなのか? アリなんだろうなこういう世界は。


 銀色の生き物は身体を起こそうとして、ふらりとよろめいた。まだ本調子じゃないらしい。


「無理しないで。まだ傷が——」

「……大丈夫なのだ。おかげで、だいぶ楽になったのだ」


 なのだ。語尾に「なのだ」がつく。可愛い。


 金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。


「君は……ボクに、何をしてくれたのだ? 身体の中に、温かいものが流れ込んできたのだ」

「えっと……わたしのスキルで、HPを分けました」

「HPを……? 自分の力を、ボクに……?」


 銀色の生き物が目を丸くした。小さな身体に似合わず、その表情は明らかに驚愕だった。


「君、自分のHPを分けたのか? それは——自分が危なくなるのだ。なぜそんなことを」

「だって、放っておけなかったから」


 自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。


「あなたが苦しそうだったから。それだけです」


 銀色の生き物が——ふっ、と何かを噛みしめるように目を伏せた。

 金色の瞳に、微かな光が揺れている。感情の光だ。


「……そうか」


 小さな声。でもそこには、深い——深い感謝が込められていた。


「ボクの名前はルーノなのだ。ここで魔獣に追われて、傷ついて倒れていたのだ」

「魔獣に……」


 やっぱり。トマスさんが言っていた「森の奥の妙な気配」は、本当だったんだ。


「ルーノ……可愛い名前ですね」

「か、可愛いとか言うな! ボクだって昔は……」


 ルーノが何か言いかけて——ぴたり、と止まった。金色だった瞳が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。


「……昔は、もっと大きかったんだけどな」


 その声のトーンが、それまでと違っていた。甘えた感じの語尾が消えて、どこか——寂しそうな、懐かしそうな響き。


「大きかった?」

「いや、何でもないのだ」


 ルーノは首を振って、すぐにいつもの(たぶんいつもの)調子に戻った。


「それよりも——君。名前を教えてほしいのだ」

「ユヅキです」

「ユヅキ……」


 ルーノがその名前を噛みしめるように呟いた。そして——


「ユヅキ。ボクと従魔契約を結んでくれないか」


 ——え。


「じゅ、従魔契約?」

「ボクは従魔——人と絆を結べる種族なのだ。契約を結べば、ボクは君の力になれる。命を救ってもらった恩を返したいのだ」


 従魔契約。この世界にそういう仕組みがあるのは、なんとなく知っている。ステータス画面でちらっと見た気がする。でも——


「で、でも、わたしなんて弱いですよ? レベル1だし、攻撃力3だし、スキルは自分が弱くなるやつだし——」

「弱い?」


 ルーノがきょとん、とした顔をした。そしてすぐに——真剣な表情になった。


「君は自分のHPを分け与えたのだ。自分が危なくなることをわかっていて。それは——弱さじゃないのだ」


 小さな身体が、まっすぐにこちらを見上げている。


「本当の強さなのだ」


 ——本当の、強さ。


 その言葉が胸に刺さった。

 前世で、そんなことを言ってくれた人は——いなかった。「お人好し」「断れない子」「都合のいい人」。そういうレッテルばかりで。


 でもこの小さな生き物は——わたしの選択を「強さ」だと言ってくれた。


「……ルーノ」


 声が震えそうになる。でも、ぐっとこらえた。ここで泣いたら今日二回目だ。さすがに泣きすぎだ。


「わたしでよければ——お願いしてもいいですか」


 ルーノの瞳が、ぱあっと輝いた。金色が、さらに眩しく。


「もちろんなのだ!」


 しっぽがぶんぶんと揺れている。ついさっきまで瀕死だったとは思えない元気の良さだ。


「契約は簡単なのだ。手を出してほしいのだ」


 ユヅキがおずおずと手を差し出すと、ルーノがちょこちょこと歩いてきて——小さな額を、その手のひらに押し当てた。


 ぷにっ、という柔らかい感触。そして——


 温かい光が、二人を包んだ。


 金色の、柔らかな光。スキルを使った時とは違う、もっと穏やかで、もっと深い光。胸の奥から湧き上がるような温かさ。手のひらとルーノの額が触れ合う場所から、光の紋様がふわりと浮かび上がった。


 ユヅキの手の甲に、小さな銀色の紋様が刻まれる。ルーノの額にも、同じ色の紋様。

 それは刺青のようでも焼印のようでもなく——光そのものが肌に宿ったような、不思議な印だった。


 半透明のウィンドウが現れる。


 ***


 【従魔契約成立】

 ユヅキとルーノの絆が結ばれました。


 ***


 光が収まると——不思議な感覚が残っていた。

 胸の奥に、もうひとつの鼓動があるような。自分のものとは違う、小さくて温かい命の鼓動。ルーノの存在を、心で感じ取れる。


「……感じるのだ。ユヅキの心が、温かいのだ」


 ルーノが目を閉じて、しみじみと呟いた。


「よろしくね、ルーノ」


 ユヅキはそっとルーノを持ち上げた。手のひらサイズのふわふわが、きゅっと指に抱きついてくる。


「よろしくなのだ、ユヅキ!」


 ルーノが満面の笑みで——いや、動物に笑みがあるのかわからないけど、明らかに嬉しそうな顔で答えた。しっぽの先端が、さっきよりもずっと明るく光っている。


 ——最初のパートナー。最初の仲間。


 前世では——本当の意味での「仲間」はいなかった気がする。同僚はいた。友人は麻衣がいた。でも「一緒に歩いてくれる存在」は——いなかった。


 今は、いる。

 手のひらの上に、ちょこんと。


 ◇


 夕暮れ時。

 ルーノを肩に乗せて、ユヅキは宿への道を歩いていた。

 HPは5のままだから身体はふらふらだけど、ルーノが肩の上で「大丈夫か? 大丈夫なのだ?」とずっと心配してくれるので、不思議と足取りは軽い。


「おかえり! 遅かったね、心配したよ——って、あら?」


 宿の扉を開けた瞬間、マルタさんが目を丸くした。


「その肩の上にいるのは……」

「えっと……従魔、です。ルーノっていいます」

「ルーノなのだ! よろしくなのだ!」


 ルーノが元気よく挨拶した。マルタさんは一瞬きょとんとして——それから、ぱぁっと顔を輝かせた。


「まぁ! 従魔契約だなんて、すごいじゃないか!」


 マルタさんがカウンターから飛び出してきて、ルーノをまじまじと見つめる。


「あらぁ、可愛い子だねぇ。ふわふわ! この毛並み、銀色なのかい? 珍しいねぇ」

「え、えへへ……褒められたのだ」


 ルーノが照れている。耳がぺたんと寝ていて、しっぽがゆらゆら揺れている。


「でもユヅキ、あんた顔色悪いよ? まさかHPを——」

「……ちょっと、お裾分けで」

「やっぱりかい!」


 マルタさんが呆れたように——でもどこか嬉しそうに笑った。


「まったく。あんたは本当に——まあいいさ。とりあえず座りな。ご飯食べれば少しは回復するだろ」


 その夜の食卓は、いつもより賑やかだった。

 マルタさんはルーノ用にも小さな皿を用意してくれて、ミルクとパンの欠片と、柔らかく煮たお肉。ルーノは「おいしいのだ! おいしいのだ!」と大騒ぎしながら頬張っていて、その姿を見た他の宿泊客たちも「可愛いなぁ!」と目を細めている。


「ユヅキちゃん、従魔契約したの!? すごいわね!」

「いやー、この子可愛いなぁ。触ってもいい?」

「わー! ふわふわなのだ! でもそんなに撫でたら毛並みが乱れるのだ!」


 笑い声が食堂に響いている。

 温かい。


 ユヅキはシチューを口に運びながら、その光景を眺めていた。

 隣ではルーノが自分のお皿を必死に守りながら食べていて、マルタさんが「おかわりあるからね!」と笑っている。


 ——ああ、これが「居場所」ってやつなんだ。


 ◇


 夜。

 二階の部屋のベッドに横になって、窓の外を見上げる。


 星空だった。

 東京じゃ絶対に見られない、満天の星空。無数の光の粒が、夜空いっぱいに散りばめられている。天の川みたいな光の帯が空を横切っていて、あまりの美しさに息が詰まる。


 枕元では、ルーノがまるくなって眠っている。

 小さな寝息が「すぅ、すぅ」と規則正しく聞こえてくる。しっぽの先端がぼんやりと光っていて、まるで小さな常夜灯みたいだ。


「……この世界に来て、まだ二日なんだよね」


 小さく呟いた。

 まだ二日。たった二日。

 でもその二日で——マルタさんと出会って、トマスさんと出会って、ルーノと出会った。


 前世の二日間なんて、残業して寝るだけだった。

 でもこの二日間は——こんなにも濃くて、こんなにも温かかった。


 手の甲の銀色の紋様が、星明かりを受けてほのかに光っている。従魔契約の証。ルーノとの絆の証。


 ——自分で選んだんだ。


 HPを分けることも、ルーノを助けることも、従魔契約を結ぶことも。

 誰にも強制されていない。誰にもお願いされていない。

 全部、わたしが、自分の意志で選んだこと。


 前世では——いつも誰かに頼まれて動いていた。「佐藤さん、これお願い」「結月、これやっといて」。断れなくて、流されて、気づいたら深夜のオフィスにひとりぼっち。


 でも今は違う。

 わたしは——自分の意志で、自分の選択で生きている。


 脇役でもいい。チートスキルがなくてもいい。レベル1でもいい。

 大切なのは——自分で選ぶこと。自分の足で歩くこと。


 神様が言ってた。「君には君のペースで、自由に生きてほしい」って。

 マルタさんが言ってた。「いつか必ず、誰かを救うことになるからさ」って。


 まだわからないことだらけだ。この世界のことも、お裾分けスキルの可能性も、ルーノの正体も——トマスさんが感じている「森の奥の妙な気配」のことも。


 でも——不思議と、怖くなかった。

 だって、もうひとりじゃない。


 枕元のルーノが、寝返りを打って——小さな手でユヅキの指をきゅっと握った。


「……ん、ユヅキぃ……おいしいのだ……」


 寝言だ。しかも食べ物の夢を見ている。


 ユヅキは小さく笑って——そっとルーノの頭を撫でた。銀色の毛並みが、指の間をふわりと滑る。


「おやすみ、ルーノ」


 窓の外の星空に、静かに語りかけた。


「明日から——わたしたちの冒険が、始まるんだね」


 小さな銀色の光と、銀色の紋様。

 ふたつの光が、穏やかに瞬いている。


 エルステアの夜は深く、星空はどこまでも遠くて、優しかった。

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