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転生前夜

 蛍光灯の白い光が、がらんとしたオフィスを無機質に照らしている。

 午後十一時。フロアに残っているのは、佐藤結月ただひとりだった。

 パソコンのモニターには未完成のプレゼン資料が映し出されていて、右下の時計表示が無慈悲に分を刻んでいく。カタカタとキーボードを叩く音だけが、しんと静まり返ったフロアに響いていた。


 ——あれ、わたし、今日何回「お願い」って言われたっけ。


 結月はふと手を止めて、今日一日を振り返った。

 朝九時。出社した瞬間、隣の席の高橋が申し訳なさそうな顔で近寄ってきた。


「佐藤さん、ごめんね。今日午後イチの営業会議の議事録なんだけど、急な外回りが入っちゃって……」

「あ、はい。大丈夫ですよ」


 大丈夫じゃないんですけど。わたしにも午前中の締め切り案件があるんですけど。


 でも、高橋の困り顔を見ると、口が勝手に「大丈夫」と言ってしまう。これはもう反射だ。膝を叩くと足が跳ねるのと同じ。条件反射的「大丈夫」。

 お昼前には、経理の山本さんがやってきた。


「佐藤さん、ちょっとお願いがあるんだけど……この精算書類、今日中にまとめてもらえないかな。わたし、どうしても外せない用事があって」

「あ、えっと……はい、わかりました」


 わかってないんですけど。精算書類って経理の仕事じゃないんですか。わたし、総務ですけど。


 そして午後三時。とどめは課長の一言だった。


「佐藤、明後日のプレゼン資料だけどさ、田中が風邪で休んじゃってさ。悪いけど代わりに仕上げといてくれる? 佐藤ならできるだろ」

「……はい、承知しました」


 承知しましたって言ったけど、全然承知してないからね? 田中さんのプレゼン資料って、わたしが担当してるプロジェクトとまったく関係ないんですけど?


 ……ということが、今日だけで三件。

 いや、正直に言えば、今日だけの話じゃない。先週も、先々週も、ずっとこうだ。

 

 結月は小さくため息をついて、ぬるくなったコーヒーに口をつけた。缶コーヒーの苦味が舌に広がる。自販機の安いやつだ。もう何本目かわからない。


 ——断ればいいのに。


 わかってる。わかってるんだけど。

 高橋の困った顔を見ると「しょうがないな」って思うし、山本さんの申し訳なさそうな声を聞くと「まあ、わたしでよければ」って思うし、課長に頼まれたら「上司だし」って思ってしまう。


 お人好しと言えば聞こえはいい。

 でも本当は——ただ断るのが怖いだけだ。


 断って嫌われるのが怖い。断って空気が悪くなるのが怖い。断って「使えないやつ」と思われるのが怖い。

 だから笑顔で「大丈夫ですよ」と引き受けて、自分の仕事を後回しにして、こうやって誰もいないオフィスに一人残る。


 結月は椅子の背にもたれて天井を見上げた。

 蛍光灯がちかちかと瞬いている。そろそろ替え時だ。でもきっと、それを総務のわたしに頼んでくる人がいるんだろうな——いや、蛍光灯の交換は本当に総務の仕事か。


 自嘲気味に笑って、結月は再びキーボードに手を伸ばした。


 モニターの中の資料は、田中が途中まで作ったものだ。構成はめちゃくちゃで、グラフのデータは古いまま。正直、一から作り直したほうが早い。


「……作り直しますか、はい」


 誰に言うでもなく呟いて、結月はカタカタとキーを叩き始めた。

 

 二十八年間、ずっとこうだった。

 学生時代は委員会の雑務を押し付けられ、バイト先ではシフトの穴埋めを頼まれ、社会人になってからは——言わずもがな。

 「結月はいい子だね」「佐藤さんは頼りになるね」。

 そういう言葉をもらうたびに、少しだけ報われた気持ちになる。ああ、役に立てたんだ、って。

 でもそのすぐ後に気づく。「いい子」って、つまり「都合のいい子」ってことじゃないの、と。


 ——まあ、いいけど。もう慣れたし。


 そう自分に言い聞かせて、結月は今日も残業を続ける。

 オフィスの窓の外では、東京の夜景がきらきらと瞬いていた。綺麗だな、と思う。でも、それを一緒に見る人はいない。

 パソコンの画面だけが、ぼんやりと結月の顔を照らしていた。


 時間は少し遡る。

 その日の昼休み——結月が唯一ほっとできる時間。


 オフィスから徒歩三分のカフェで、向かい側に座った女性がメニューを覗き込みながら言った。


「結月、また顔色悪くない? ちゃんと寝てる?」


 中村麻衣。大学時代からの唯一の親友。今は別の会社に勤めているけど、週に一度はこうしてランチを一緒に食べる。ショートカットの髪をさらりと揺らしながら、麻衣はいつも真っ直ぐな目でこちらを見る。


「寝てるよ。ちゃんと……四時間くらいは」

「四時間!? それ『ちゃんと』のうちに入らないから!」


 麻衣がテーブルを軽く叩いた。カチャリとカトラリーが鳴る。


「いや、でも、仕事が終わらなくて」

「終わらないんじゃなくて、終わらせてもらえないんでしょ。また誰かの仕事引き受けたんじゃないの?」


 図星だ。この子には昔から隠し事ができない。


「……高橋さんの議事録と、山本さんの精算書類と、田中さんのプレゼン資料」

「三件!? 結月、あんたね——」


 麻衣が呆れたようにため息をついた。でもその目には呆れだけじゃない、心配の色がある。


「ちゃんと断りなよ。断っても死なないから」

「うん……そうだよね」


 結月は曖昧に笑った。わかってる。わかってるんだけど。


「結月はさ、優しいんじゃなくて、自分に厳しすぎるんだよ。他人に優しくする分、自分をすり減らしてる。そのうち本当に倒れるよ?」


 麻衣の言葉は、いつも的確に核心を突いてくる。だからこそ、ちょっと痛い。


「大丈夫だよ、わたしは丈夫だから」

「その『大丈夫』が一番信用ならないってば」


 運ばれてきたパスタを前に、麻衣は「いただきます」と手を合わせてからフォークを手に取った。


「ねえ、結月。たまには自分のために何かしなよ。旅行とか、趣味とか」

「趣味かぁ……最近は残業が趣味みたいになってるかも」

「笑えないからそれ」


 麻衣はぴしゃりと言ってから、少し声のトーンを落とした。


「……結月がそうやって人の仕事引き受けるのは、優しさだってわかってるよ。でもね、自分を大事にしない優しさは、いつか壊れるからね」


 その言葉が、胸にすとんと落ちた。

 壊れる——か。


「……うん。ありがとう、麻衣」

「お礼はいいから、今日こそ定時で帰りなさい」

「善処します」

「善処じゃなくて確約しなさいよ!」


 結局、その日も定時では帰れなかった。

 善処は所詮、善処であった。


 ◇


 午前二時。

 結月はようやくオフィスの電気を消して、ビルの外に出た。


 十二月の夜風が頬を刺す。コートの前をかき合わせながら、結月は駅へと向かって歩き始めた。

 終電はとっくに終わっている。タクシーを拾うか、それとも始発まで待つか。財布の中身と相談した結果、歩いて帰ることにした。自宅まで徒歩四十分。大した距離じゃない——体力があれば。


 街灯に照らされた歩道を、結月はとぼとぼと歩く。

 真冬の深夜。人通りはほとんどない。自分の靴音だけが、アスファルトに小さく響いていた。


 ——わたしの人生って、何なんだろう。


 ふと、そんなことを思った。

 二十八歳。独身。恋人なし。趣味なし。特技は——残業?

 毎日誰かの仕事を引き受けて、深夜に一人で帰って、コンビニ弁当を食べて寝る。翌朝また同じことの繰り返し。

 

 別に、不幸だとは思わない。

 でも、幸せかと聞かれると——答えに詰まる。


「このままでいいのかな」


 白い息が夜空に溶けていく。

 誰に向けたわけでもない問いかけは、冷たい空気に吸い込まれて消えた。


 信号が青に変わる。

 結月は横断歩道に足を踏み出した。


 ——あ、明日の会議資料、最後のページのグラフ修正してないや。朝イチで直さないと。あと、高橋さんの議事録にもう少し補足を入れて——


 光。

 白い、圧倒的な光。


 耳を裂くようなクラクションが鳴って、でもそれはひどく遠くて、まるで水の中で聞いているみたいで。

 身体が宙に浮いた——ような気がした。次の瞬間、硬い地面に叩きつけられる衝撃。痛い、のかな。よくわからない。


 ——あ。


 視界が暗転する。いや、違う。視界の端から、ゆっくりと闇が侵食してくる。

 夜空が見える。冬の星が、冷たく瞬いている。


 ……ああ、そっか。

 わたし、事故に遭ったんだ。


 不思議と、パニックにはならなかった。

 頭がぼんやりとしていて、痛みも恐怖もどこか遠い。

 その代わりに浮かんできたのは——


 ——明日の会議資料、どうしよう。


 自分でも笑ってしまう。いや、笑う余力もないんだけど。

 死にかけてるのに仕事のことが気になるって、もう完全に末期だな、わたし。


 冷たいアスファルトの感触が、少しずつ遠くなっていく。

 指先から体温が抜けていく。視界がどんどん狭くなる。


 ——ああ、麻衣に謝らなきゃ。「定時で帰る」って言ったのに。


 そんなどうでもいいことを思いながら、結月の意識は薄れていった。


 最後に浮かんだのは、ひとつの想い。

 ちっぽけで、わがままで、二十八年間ずっと言えなかった想い。


 ——もう一度やり直せたら。

  今度は、自分のために生きたいな。


 その願いが叶うなんて、このときの結月は知るよしもなかった。


 ——目を、開けた。


 真っ白だった。

 天井も、床も、壁も——いや、そもそも天井や床や壁という概念が存在するのかどうかすら怪しい。ただ一面、どこまでも続く白い空間。光に満ちているのに眩しくはなく、温度もなく、音もない。


 結月はぱちぱちと瞬きをした。


 ——え?


 身体を起こす。手のひらを見る。動く。痛みはない。

 さっきまでアスファルトに倒れていたはずなのに、身体はどこも痛くない。それどころか、あれほど重かった身体が嘘みたいに軽い。残業疲れも、肩こりも、寝不足の頭痛もない。


 ——わたし、死んだの?


 言葉にならない問いが頭を駆け巡る。

 死んだ。たぶん、死んだ。横断歩道で光に包まれて——あれはヘッドライトだったのだろう。信号は確かに青だったはず。いや、もう記憶が曖昧だ。疲れすぎて信号の色を見間違えた可能性すらある。


 立ち上がろうとして、足元を見た。白い。どこに立っているのかもわからない。でも確かに何かを踏んでいる感触はある。不思議な場所だ。


 ——ていうか、死後の世界ってこんな感じなの? もっとこう、お花畑とか三途の川とか——


「やあ、起きたね」


 声がした。

 穏やかで、どこか楽しげな声。遠くから聞こえたようでもあり、すぐ耳元で囁かれたようでもある。不思議な声だった。


 結月が振り返ると——そこに、人がいた。

 いや、人、と呼んでいいのかどうか。


 柔らかな光を纏った人影。薄紫色の淡い光が周囲にちらちらと舞っていて、まるで春の桜吹雪のようだ。顔立ちは整っているけれど、男性とも女性とも判断がつかない。優雅で、美しくて、どこか現実離れしている。

 見つめていると吸い込まれそうな瞳が、静かにこちらを見つめていた。


「あ、あの……」

「うん?」


 その人——いや、その存在は、にこりと微笑んだ。

 その笑みがあまりに自然で、あまりに優しく、結月は不思議と恐怖を感じなかった。死んだ直後のはずなのに。


「あなたは、どなた……ですか?」

「僕? そうだなあ、この世界の管理者みたいなもの、かな。アマツカミって呼ばれてるよ」


 アマツカミ。

 天津神——神様?


「かっ……神様!?」

「ああ、そんなに驚かなくてもいいよ。僕はただの——まあ、神様だね。うん、神様で合ってるかな」


 全然「ただの」じゃないんですけど。


 結月は目を白黒させた。白い空間、光を纏った存在、自称神様。これはもう、あれだ。死後の世界とか、あの世の入口とか、そういうやつだ。


「えっと……じゃあ、わたしはやっぱり……」

「うん」


 神様はふわりと微笑んだまま、穏やかに——あまりにも穏やかに告げた。


「君は死んだよ、佐藤結月さん」


 死んだ。

 やっぱり。

 わかってはいた。わかってはいたけど、こうはっきり言われると、なんというか——


「……え、ちょっと待ってください。死んだって——待って、明日の会議の資料、まだ途中なんですけど!?」


 口から出た第一声がそれだった。

 自分でも信じられない。死の宣告を受けた直後のリアクションが「会議資料の心配」って何なの、わたし。


 でも神様は怒るでもなく呆れるでもなく——くすっと笑った。


「あはは。君らしいね」


 知らない人に「君らしい」って言われるのも変な話なんですけど。いや、神様だから知ってるのか。全知全能的な?


「あ、いえ、すみません。変なこと言って……」

「ううん、変じゃないよ。むしろ君が最初に自分のことを心配しなかったのは——とても君らしいと思っただけ」


 神様の声には、温かさがあった。でもその奥に——少しだけ、切なさのようなものが混じっているような気がした。気のせいかもしれないけれど。


「……それで、わたし。これからどうなるんですか? 天国とか、地獄とか——」

「ああ、そういうのじゃないんだよ。少なくとも、僕が管理してるのはそういう場所じゃなくてね」


 神様はひとつ手を振った。すると白い空間の一角に、ゆらりと映像が浮かび上がった。

 見たことのない風景。どこまでも続く緑の大地、青く澄んだ空、遠くに連なる雄大な山脈。中世ヨーロッパのような石造りの町並みがところどころに見える。


 ——え、何これ。綺麗……。


「これはエルステアという世界だよ。僕が管理している、いくつかある世界のひとつ」


 エルステア。

 聞いたことのない名前。当然だ。この世界の地名じゃない。


「僕のところでは、こういう世界をいくつか見守っているんだ。で、ね——」


 神様が結月に向き直った。

 その瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。


「佐藤結月さん。君に提案があるんだ」


 ——提案?


「君、第二の人生に興味ある?」


 第二の人生。

 その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


「……え? 第二の、人生?」

「うん。異世界転生って言ったほうが伝わりやすいかな。君の世界にも、そういうフィクションはあるでしょう?」


 異世界転生。

 あるある。ネットで読んだことがある。トラックに撥ねられて異世界に行くやつ。勇者になって魔王を倒すやつ。チート能力で無双するやつ。

 

 ……いや、わたしの場合トラックじゃなくて普通乗用車だった気がするけど、そこは重要じゃない。


「ちょっと待ってください。それって——わたしがあの世界に生まれ変わるってことですか?」


 浮かんだ映像を指差す。緑の大地と青い空。ファンタジーの世界そのもの。


「そういうこと。この世界——エルステアに、新しい命として転生する。前世の記憶はそのまま持っていけるよ」

「はあ……」


 正直、実感がわかない。だってつい数分前まで——いや、体感では数分前まで——残業してたんだから。現実のオフィスから、死を経て、白い空間に来て、今度は異世界転生。情報量が渋滞しすぎている。


「あ、でも安心していいよ。別に無理強いはしないから。このまま消えるのも選択肢のひとつだし」


 消える。

 つまり、完全に「終わる」ということ。

 二十八年間の人生が、ここで本当にピリオドを打つ。


 結月は少しだけ黙った。

 前世の風景がちらちらと思い浮かぶ。蛍光灯の下の残業。ぬるい缶コーヒー。麻衣の心配そうな顔。「自分を大事にしない優しさは、いつか壊れるからね」——あの言葉。


 そして、最後の瞬間に思ったこと。

 もう一度やり直せたら。今度は、自分のために生きたい。


「……行きます」


 気がつけば、口が動いていた。


「行きます。転生、します」


 神様が少しだけ目を丸くして、そしてふわりと微笑んだ。


「早いね。もう少し悩むかと思ったんだけどね」

「悩んでもしょうがないですし。それに——」


 結月は一度言葉を切って、ちいさく息を吐いた。


「わたし、最後に思ったんです。もう一度やり直せたらって。だから——たぶん、これは、わたしが望んだことなんだと思います」


 自分で言って、ちょっと恥ずかしくなった。ポエムか? 今の。


 でも神様は茶化さなかった。ただ穏やかに頷いて、嬉しそうに——でもどこか安堵したように言った。


「そう。……よかった」


 よかった、のひと言に、妙な重みを感じた。まるで、結月がこの選択をすることを切望していたかのような。

 でも、深く考える暇はなかった。神様が手をぱん、と叩いたからだ。


「じゃあ、転生の準備をしようか。いくつか説明することがあるんだよ」

「はい」

「まず——君の役割について」


 役割。

 異世界転生ものなら、ここで「勇者」とか「救世主」とか言われるパターンだ。期待半分、不安半分で神様の次の言葉を待つ。


「君は、勇者じゃないよ」


 ……は?


「勇者じゃない?」

「うん。エルステアにはちゃんと勇者がいるんだよ。別の誰かがね。だから君に勇者をやってもらう必要はないんだ」


 なるほど。つまり勇者枠はもう埋まっていると。


「じゃあ、わたしは何になるんですか? 魔法使い? 僧侶? それとも——」

「うーん、あえて言うなら……脇役、かな」


 ——脇役?


「わ、脇役ってことでいいんですか? モブってこと?」

「モブとはちょっと違うかな。でも主役じゃない。表舞台の中心に立つのは、君じゃなくて勇者だよ」


 えーっと。

 つまり。

 転生はさせてもらえるけど、主人公ではなく、あくまで脇役として生きるということ?


「……それ、なんか損してませんか? せっかく異世界に転生するのに脇役って」

「損かな? 僕は——勇者は大変だと思うんだよね」


 神様が小首を傾げた。いや、そう言われればそうだけど。


「世界を救う使命、背負う責任、周囲からの期待。すごく重いよ。君にそんな重荷を背負わせたくないんだよ」


 結月は目を瞬かせた。


「君には君のペースで、自由に生きてほしい。前の人生でさんざん他人の重荷を背負ってきたんだから、今度くらいは——ね?」


 その言葉が、じんわりと胸に沁みた。

 神様にはお見通しなんだ。あの二十八年間の、誰にも言えなかった疲弊が。


「……ありがとう、ございます」

「お礼は早いよ。まだ説明の途中だから」


 神様がくすりと笑って、ぱちんと指を弾いた。

 白い空間に、半透明のウィンドウのようなものが出現した。そこには文字が並んでいる。


 ——ステータス?


「エルステアには『ステータス』というシステムがあってね。住んでいる人全員が持っているんだよ。レベルとか、体力とか、攻撃力とか——まあ、ゲームのパラメータみたいなものだと思って」


 ゲーム脳に優しい世界だ。


「で、転生にあたって、君にひとつスキルを授けようと思うんだよ」

「スキル!」


 来た。これぞ異世界転生の醍醐味。チートスキルとか、万能魔法とか、時間停止とか——


「名前は『お裾分け』」


 ——お裾分け?


「お、お裾分け……ですか」

「うん。自分のステータスを、他の人に分け与えることができるスキルだよ」


 自分のステータスを、他人に、分け与える。

 つまり——自分が弱くなる代わりに、相手が強くなる?


「えっと、すみません。確認なんですけど——それ、自分のステータスが減るってことですよね?」

「うん、減るよ」

「で、相手のステータスが上がると」

「そうだね」

「…………それ、損するだけじゃないですか!?」


 思わず声が大きくなった。

 いやいやいや。チートスキルとか絶対攻撃魔法とか期待してたのに、蓋を開けたら「自分を削って他人を強化する」って。それ完全に前世と同じ構図じゃないですか。人の仕事引き受けて自分がすり減るのと何が違うの。


 でも神様は悪びれもせず、にこにこと笑っている。


「使い方次第だよ。君ならきっと、このスキルの本当の価値に気づける」

「いや、だから具体的にどう使えば——」

「それは、自分で見つけてほしいかな」


 はぐらかされた。完全にはぐらかされた。

 この神様、飄々としてるくせに肝心なところは教えてくれない。


「……ていうか、なんでよりによってこのスキルなんですか。もっとこう、攻撃力アップとか、回復魔法とか——」

「だって、このスキルが一番君らしいと思ったんだよ」


 また「君らしい」だ。

 結月は何か言い返そうとして——でも、言葉が出なかった。


 君らしい。

 確かに、そうかもしれない。

 自分のものを分け与える。自分を削って、誰かのためになる。

 前世の二十八年間で、結月がずっとやってきたことそのものだ。


 ——でも。それじゃ、前と同じじゃないの。


 その不安が顔に出ていたのだろう。神様が少しだけ真剣な表情になった。


「佐藤結月さん。ひとつだけ覚えておいてほしいことがあるんだよ」

「……はい」

「前の世界で、君は誰かに頼まれるままに自分を差し出していた。でもこのスキルは——自分の意志で使うものだよ」


 自分の意志で。


「誰に分けるか、いつ分けるか、どれだけ分けるか。全部、君が決めていい。断ったっていい。このスキルは——君自身の選択の力なんだよ」


 選択の、力。

 その言葉が、白い空間に静かに響いた。


 断れなかった前世とは違う。自分で選べる。自分の意志で、誰かに手を差し伸べる。

 同じ「分け与える」でも——意味がまるで違う。


「……なるほど」


 結月は小さく呟いた。まだ完全に納得したわけじゃない。でも——不思議と、嫌ではなかった。


「わかりました。使ってみないとわからないってことですよね」

「そういうこと。僕は君を信じてるよ」


 神様が微笑んだ。いつもの穏やかな微笑み。

 でもその直後——ほんの一瞬だけ、その表情に影が落ちた。


 柔らかな光の中に、ほんのわずかな翳り。目元がふっと細められて、唇の端がかすかに下がる。それは笑顔の仮面がほんの一枚だけ剥がれたような——寂しさだった。


「……神様?」


 結月が声をかけると、神様はすぐにいつもの笑みに戻った。あまりに自然に。まるで今の表情が最初から存在しなかったかのように。


「ああ、ごめんね。なんでもないよ」


 なんでもない、の一言では片付けられない何かがあった気がする。でも——


「ひとつだけ、言っておきたいことがあるんだよ」


 神様の声のトーンが、ほんのすこし変わった。穏やかさはそのまま。でもその奥に、何か切実なものが宿ったような。


「君みたいな人が、あの世界には必要なんだよ」


 ——え?


「それは、どういう……」


 問いかけると、神様はふわりと笑った。はぐらかすように。でも寂しそうに。


「いつかわかるよ。きっとね」


 それ以上は何も言ってくれなかった。

 

 結月にはわからなかった。神様がなぜそんなことを言ったのか。「必要」とは何の意味なのか。そして——あの一瞬の寂しげな表情が、何を物語っていたのか。


 でも不思議と、不安は感じなかった。

 この神様は、悪い人——いや、悪い神様じゃない。それだけは確信が持てた。根拠はない。ただ、あの温かい声と、穏やかな瞳を信じたいと思った。


 ——まあ、前世でもわたし、人を信じてばっかりだったしね。今さらか。


 自嘲混じりにそう思いながら、結月は小さく頷いた。


「わかりました。全部はわからないですけど——行ってみます、エルステア」


 神様が、ふわりと——今度は心の底から嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、行こうか」


 神様がそっと手を差し出した。

 結月はその手を見つめた。光を纏った、温かそうな手。


「行ってらっしゃい、佐藤結月さん」


 結月は一瞬迷って——でも、その手を取った。


「……いえ。結月、でいいです。佐藤結月はもう——前の世界の名前ですから」


 神様が少しだけ驚いた顔をして、それから穏やかに頷いた。


「そう。じゃあ——行ってらっしゃい、ユヅキ。君の新しい人生が、幸せなものでありますように」


 その言葉と同時に、白い空間が光に包まれた。

 眩い、けれど温かい光。目を閉じなくても痛くない。全身が柔らかく溶けていくような感覚。


 意識が遠のいていく。

 でもそれは、あの横断歩道での暗転とは違った。恐怖はない。冷たくもない。ただ穏やかに、優しく、光の中に吸い込まれていく。


 脳裏に、前世の記憶が走馬灯のように流れた。

 蛍光灯の下の残業。ぬるい缶コーヒー。高橋の困り顔。山本さんの申し訳なさそうな声。課長の無茶振り。

 麻衣の笑顔。「自分を大事にしない優しさは、いつか壊れるからね」。

 深夜のオフィスから見た東京の夜景。一人きりの横断歩道。冬の星空。


 ——ありがとう、前の世界。


 そして。


 ——今度こそ、自分の意志で生きてみせる。


 光が全てを包み込んで——意識が、途絶えた。


 ◇


 ——風が、気持ちいい。


 それが最初の感覚だった。

 肌を撫でる柔らかな風。温かくて、でもさわやかで、草の匂いがする。


 瞼の裏が明るい。赤ではなく、オレンジでもなく——澄んだ白。太陽の光。


 結月は——いや、ユヅキはゆっくりと目を開けた。


 青い空が、あった。

 

 蛍光灯ではない、本物の空。

 どこまでも高く、どこまでも青い。綿菓子みたいな白い雲がゆっくりと流れている。オフィスの窓から見る空とは全然違う。鮮やかで、生きていて、息をしている空だ。


 身体を起こす。

 草の上に寝転がっていたらしい。見渡す限りの緑の草原が広がっている。遠くには青みがかった山脈が連なり、手前には小さな川がきらきらと光を反射しながら流れていた。


 ——うわ。


 思わず声を失った。

 綺麗だ。言葉にならないくらい、綺麗だ。

 これが、エルステア。これが、わたしの新しい世界。


 感動に浸っていると——ふと、違和感に気づいた。

 手。自分の手を見る。


 小さい。

 

 明らかに二十八歳の手ではない。指が短くて、肉付きがよくて、まるで——子供?


 慌てて近くの川に駆け寄った。水面を覗き込む。


 そこに映っていたのは、見知らぬ少女だった。

 ふんわりとした茶色のセミロングヘア。大きくてきらきらした瞳。ほっぺたがふっくらとした、十歳くらいの女の子。白と青のシンプルなワンピースドレスを着ている。


「……え」


 口が動く。水面の少女も同じように口を動かす。


「えぇぇっ!?」


 川面に映った顔が、見事に驚愕の表情を浮かべていた。


 子供!? わたし、子供になってる!?

 いや、転生って言ってたから年齢がリセットされるのは当然かもしれないけど——十歳!? 十歳って、小学校四年生くらい?


 自分の身体を見下ろす。うん、小さい。身長は一三〇センチくらいだろうか。前世のグレーのスーツじゃなくて、白と青のワンピースドレスを着ている。それは可愛いけども。


「にしても十歳か……OL生活二十八年の記憶を持った十歳児って、冷静に考えると結構カオスなんですけど」


 誰もいない草原に、ユヅキのツッコミが虚しく響いた。


 ——と。

 

 その瞬間、視界の端にふわりと何かが浮かび上がった。

 半透明の、淡い光を放つウィンドウ。神様が見せてくれたのと同じような——ステータス画面だ。


 ***


 名前:ユヅキ

 レベル:1

 HP:15

 MP:10

 攻撃力:3

 防御力:4

 素早さ:5

 幸運:8

 

 スキル:【お裾分け】


 ***


「…………」


 ユヅキは長い沈黙の後、盛大にため息をついた。


「レベル1。HP15。攻撃力3。……うん、弱いですね。めちゃくちゃ弱いですね」


 いや、まあレベル1だからしょうがないんだろうけど。問題はスキル欄だ。


 【お裾分け】


 この地味な名前のスキルがひとつだけ。ぽつん、と寂しく佇んでいる。


「本当に損するスキルじゃないですか……」


 苦笑が漏れる。

 でも——不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。

 

 神様の言葉を思い出す。

 「このスキルは——君自身の選択の力なんだよ」。

 使うのも使わないのも、わたしが決める。誰かに頼まれるからじゃない。自分の意志で、自分で選んで使うスキル。


 前世なら、こんなスキルを渡されたら途方に暮れていただろう。

 でも今は——少しだけワクワクしている自分がいた。

 どう使うかはわからない。何の役に立つのかもわからない。でも、自分で選べるという事実が——それだけで、前の人生とは決定的に違う。


 ステータスウィンドウをそっと閉じて、ユヅキは立ち上がった。

 草原の向こうに、小さな町並みが見える。レンガ色の屋根が並び、背の高い時計塔がひとつ。石造りの城壁に囲まれた、こじんまりとした町。


 ——あれが、わたしの新しい町かな。


 風が草原を渡って、茶色い髪をさらりと揺らした。

 ユヅキは深く息を吸い込んだ。草と土と、ほんのり甘い花の匂い。排気ガスでもなく、コピー機のトナーでもない、生きた世界の匂い。


 胸の奥に、じわりと温かいものが広がる。

 怖くないと言えば嘘になる。知らない世界で、知り合いは誰もいなくて、チートスキルもなくて、レベル1で、脇役。

 普通に考えたら不安だらけだ。


 でも。

 

 あの蛍光灯の下で一人きり残業していた夜を思えば——空が青いだけで、風が気持ちいいだけで、もう十分だった。


 ユヅキは一歩、草を踏みしめた。


 前世では歩きたくない道ばかり歩いてきた。

 終電を逃した深夜のアスファルト。誰もいないオフィスの廊下。溜まった仕事と一緒に歩く、終わりの見えない残業の道。


 でもこの道は違う。

 草原が広がり、空が高く、風が吹いている。行き先はわからないけれど——自分で選んだ道だ。


 もう一歩。そしてもう一歩。

 小さな足が、柔らかい草の上を歩いていく。


「さて」


 ユヅキは軽く伸びをして——前世のオフィスで何百回もやったのと同じ仕草で、でもまったく違う気持ちで——町に向かって歩き出した。


「脇役の人生、始めますか」


 それは独り言だった。

 でもその声には、前世の疲れ切ったモノローグにはなかった、ちいさな——でも確かな明るさがあった。


 背の低い少女の影が、緑の草原にゆらゆらと伸びている。

 エルステアの空は、どこまでも青かった。

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