幼馴染とのフラグだけ立たないんですけど?
――好きな人に好きになってもらうのって、どうしてこんなに難しいんだろう?
教室の窓際の席に座ったまま、俺――竹宮一途は物憂い視線を放課後のグラウンドに向けた。
グラウンドでは運動部がすでに活動を始めようとしている。サッカー部のクラスメイトが手を振ってきたので軽く振り返すと、近くにいた女子マネが黄色い歓声を上げた。
苦い思いでグラウンドから視線を外し、俺は見るともなしに教室内を見回す。
教室内には、俺と同様に帰宅部と思しき女子達が十人近く残っていた。彼女らは数人単位でまとまって雑談をしながら、ちらちらとこちらに視線を送ってきていた。
針のむしろにいるような居心地の悪さに耐えながら、俺は小さく嘆息する。
自意識過剰ではないはずだが、どうやら俺はモテるらしい。
自覚したのは、中学に上がった頃だろうか。当時は一年でサッカー部のレギュラーに選ばれたり、勉強では学年一位を維持したりと、ひたすら努力を重ねたことも原因のひとつだったのだろう。更に言えば、当時人気のあったイケメン俳優の見た目を真似して、ファッションや髪型を真似したことも影響していると思う。
だが――俺はこんな風に不特定多数にモテたくて、そんな努力をしたわけではなかった。
たった一人の女の子を振り向かせるための努力だったのだが、当の本人には届かず、無関係の他人にばかり効果があるとは……正直なところ、俺にとってはあまりに皮肉な結果だった。
向けられる好意や好奇の視線には、正直ありがたみよりも居たたまれなさのほうが勝つ。
視線に追い立てられるように席を立とうとすると、教室のドアが勢いよく開け放たれた。
「カズト!」
凛とした芯の強さを感じる声に、俺は反射的に胸が高鳴るのを感じた。
教室の入り口に視線を向けると、ポニーテールの少女が教室に入ってくるところだった。
すらりとした長身を包んだ制服のブレザーには、ネクタイひとつ着崩した様子がない。細くしなやかな手足をしているが、その実、女子柔道で全国大会に出場するほどの実力者だ。整った顔立ちの中で目だけがどこか鋭さを帯び、美少女ではなく美形と形容したくなる迫力を生んでいる。
教室中の視線が彼女に集まるが、その視線に嫉妬の色はなく、どちらかと言えば羨望や憧憬の色が強い。実際、バレンタインデーに女子から大量のチョコをもらうくらい、彼女は女子の中でも特殊な立ち位置を形成していた。
彼女――幼馴染の有馬恋は真っ直ぐに俺の机まで歩み寄ってくると、申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「突然すまない、カズト。また君に頼みたいことがあるのだが……」
いつも通りの話の切り出し方に、俺は小さく苦笑を漏らした。
レンは男女問わず人望があるらしく、人から頼み事をされる機会が非常に多い。その上、頼み事を無下にできない性格なので、依頼を受けるといつも俺に協力を仰ぎにくるのだ。
そういうお人好しなところも好きだなあと思ってしまうので、惚れた弱みというやつは厄介だな。
それに……彼女が真っ先に頼るのが自分だということも、俺にとってはたまらなく嬉しいのだった。
「で、今日は頼まれたんだ? レン」
◆
レンに連れてこられたのは特別棟の三階、図書室の隣にある文芸部の部室だった。
本棚と長机、パイプ椅子だけが置かれた簡素な部室には、すでに三人の部員が集まっていた。
一人は眼鏡をかけた神経質そうな男子だ。ネクタイの色を見る限り、どうやら一学年上の三年生のようだ。部室に部外者が二人もいるせいか、妙に落ち着かない様子でやたらと眼鏡の位置を直している。
もう一人は長い茶髪にパーマをかけた女子だった。こちらも三年生で、かなり制服を着崩していることもあって、文芸部員というより渋谷にいるギャルといった印象だ。物怖じしない性格なのか、部外者である俺にじろじろと値踏みするような視線を向けている。
最後の一人が、今回レンに依頼を持ち込んだ同学年の女子だった。折り目正しく制服を着た三つ編みの女生徒で、いかにも文芸部員といった雰囲気だ。俺達を連れてきたことを申し訳なく思っているのか、部室の隅のほうで背を丸めて縮こまっている。
話の口火を切ったのは、積極果断なレンだった。
「いきなり押しかけてすまない。昨日この部室で貴重品の紛失があったと聞いて、どうしても話を聞かせてもらいたくてね」
「あー、美穂っちの手帳のことね」
即座に反応したのは、ギャルっぽい見た目の先輩だった。彼女は部室の隅で縮こまっている女子――蝶野美穂に近づいて、後ろから両肩に手を置いた。
「なんだよぉ、美穂っちぃ。言ってくれればあたしらが探すの手伝ったのに」
「す、すみません。鹿嶋先輩」
蝶野が余計に縮こまるが、ギャル先輩は構わず親しげに彼女にじゃれつく。それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。あたし、副部長の鹿嶋瞳。で、あっちの眼鏡が部長の猪原達郎ね。で、君たちは?」
「私は二年の有馬恋です。彼は幼馴染の竹宮一途。レンとカズトと呼んでください」
「へー。レンちゃんに、カズトくんね」
反芻するように言いながら、鹿嶋は再度俺を足の先から頭のてっぺんまで舐めるように見てくる。反射的に愛想笑いを浮かべると、鹿嶋は嬉しそうに目を輝かせた。
「うわぁ〜、めっちゃイケメンじゃん! カズトくんってあれだよね? いつも美穂っちが言ってる学年一のイケメンでしょ?」
「ちょっ、ちょっと! いきなり何言ってるんですか先輩っ!」
「え? あー、これ言っちゃダメ系のやつだった? ごめんごめん。でも気持ちわかるなー。あたしも正直キョーミあるし」
――おいおいおいおい! レンの前で勘弁してくれ!
思わず横目でレンの反応をうかがってみるが、彼女は特にこの話題に反応している様子はなかった。幼馴染だから恋愛対象として見られていないのは覚悟していたが、こんな風にまざまざと実感させられるとめちゃくちゃへこむな……
俺が勝手に落ち込んでいると、部長の猪原が聞こえよがしに咳払いをした。
「……で? 君たちは、蝶野が紛失した手帳を探すためにきたってわけか」
「は、はい。そんな感じです」
猪原が出した助け舟に乗って、俺は危険な話題から脱出して本題に起動修正する。
「蝶野さんが手帳を紛失した時、どういう状況だったのか部員の皆さんにお話をうかがいたいんですが……」
「状況ねえ。そんな大げさなもんでもないが」
猪原はそう前置きしてから、当時の状況を説明してくれた。
手帳紛失が発覚したのは昨日の放課後、部員三人が部室に入った時だった。
蝶野は普段から手帳を部室の長机に置いており、部員全員がそれを把握していた。一昨日の部活で部室を出た時には手帳があったはずなのに、翌日部室を開けたら手帳は長机の上になく、部室中を探しても手帳は見つからなかったようだ。
ちなみに手帳の中身は部誌に載せる詩や小説のアイデアが書かれていたらしく、そのことも部員全員が知っていたようだった。
一連の状況を説明し終えると、猪原は冷静に締めくくった。
「普通に考えたら、一昨日の部活の時に蝶野が手帳を持って帰って、家に置き忘れていったんだと思うが」
「私、絶対に手帳を持って帰ったりしてませんっ!」
部室の隅に縮こまっていたとは思えないほどの声量で、蝶野は猪原の意見を否定した。
猪原や鹿嶋が驚いていると、蝶野は必死な表情で訴える。
「私、中学の時に詩を書いてるのがバレて、クラスの子たちにすごくバカにされて……この文芸部に入るまで、創作の話ができる人なんて一人もいなかったんです。だから、手帳を部室から持ち出すなんてこと、絶対にしませんっ!」
たどたどしい主張だったが、蝶野の言いたいことは俺にも伝わってきた。
蝶野にとって、この文芸部は創作という形で自分の本音をさらけ出せる、初めての場所だったのだろう。だからこそ、彼女は自分の心の内をすべて綴っているに等しい大事な手帳を部室に保管していた。蝶野はそれだけ、文芸部の部員のことを心から信頼していたのだ。
だからこそ、手帳の紛失は蝶野にとってショックだった。
猪原の説明がすべて事実なら、文芸部の中に手帳を盗んだ犯人がいる可能性が高い。それに思い至ったからこそ、蝶野はレンに調査を依頼してきたのだろう。
鹿嶋は感極まったように目を潤ませながら、蝶野に抱きついた。
「あたしらのことそんな風に思ってくれてたんかよ、美穂っちぃ!」
「や、やめてください、鹿嶋先輩っ」
「いいじゃんかよ〜! このこのぉ、愛いやつめぇ」
じゃれ合う二人をよそに、蝶野の過失を疑った猪原は気まずそうに目を伏せていた。
「……その、悪かった。疑うようなことを言って」
「いえ。私こそ、大声出しちゃってすみません」
蝶野が落ち着いたところで、腕組みしたまま黙考していたレンが猪原に問いかける。
「いくつか質問したいのだが、いいだろうか?」
「あ、あぁ。もちろんだ」
「まず、部室の施錠管理はどのように?」
「部活が終わった後に、窓もドアも必ず施錠している。部長の俺と副部長の鹿嶋でダブルチェックしてるから、施錠忘れもないはずだ」
「窓とドア以外から部室に入る方法は?」
「それはないな。出入りできるのはその二つだけだ」
「窓やドアの鍵は、専用の鍵以外で簡単に開けられるものだろうか?」
「いや、どちらも無理なはずだ。窓の鍵はサブロック式のクレセント錠だから、外から糸なんかで開けるのも不可能だ。ドアはピッキングでもしない限り開けられるわけがない。この部室は図書室の隣にあるから、朝も昼も放課後も人通りがある。ピッキングなんかしてたらすぐに気づかれるはずだ」
「ふむ……念のため確認だが、窓ガラスが割られていたなんてことは?」
「ないな」
猪原の回答に、レンは考え込むようにあごに手をやった後、俺に視線を向けてきた。すぐに援護射撃を求められていると気づき、俺は新しい質問を猪原にぶつけた。
「ちなみになんですが、鍵自体の管理はどうされてるんですか?」
「部室の鍵はすべて、職員室で一括管理されている。鍵の返却がされてない場合、教師にバレて部長が呼び出される。鍵の貸出と返却の際には、必ず時間と貸出人を帳簿に記録する必要があるし、教師の立ち合いもある。鍵自体も職員室の中央に配置されているから、教師の目を盗んで鍵を持ち出すことは不可能だな」
そこまで管理が厳重となると、やはり部外者が手帳を盗んだという線はなさそうだ。
となると、文芸部の内部犯行に絞られる。あまり目の前にいる人間を疑いたくないが、俺は犯人を特定できる情報を聞き出そうと試みる。
「一昨日の鍵の返却と、昨日の鍵の貸出の時の状況を教えてもらえますか?」
「一昨日は職員室までは部員全員で行って、鍵の返却は俺が一人でやった。その後、雑談しながら三人で校門まで歩いて、鹿嶋と蝶野とはそこで別れたな」
「タツローは徒歩通学だけど、あたしと美穂っちは電車だから、方向が逆なんだよね」
「昨日の鍵の貸出時はどうでした?」
「鍵は俺が一人で受け取ってきた。部室の前に着いたら鹿嶋と蝶野が待っていて、三人一緒に部室に入って……手帳がなくなってるのに気づいたんだ」
「念のため確認なんですが、他の誰かが鍵を受け取った可能性はありますか?」
「いや、それはないだろうな。昨日、三人で鍵の管理簿を見せてもらったが、俺以外に部室の鍵を使った履歴はなかった。当然だが、俺が一日に何度も鍵を使った履歴もなかった」
猪原の回答を吟味していると、やりとりを黙って聞いていたレンが唐突に口を開いた。
「つまり、こういうことだろうか? 一昨日の部活終了後から昨日の部活開始まで、部室は完全に施錠された密室状態で、誰も中に入ることはできなかった、と」
レンの何気ない一言で、部室内に重い沈黙が降りた。
密室からの消失事件なんてミステリならありがちな出来事だが、まさか現実に出くわすとは……
被害者である蝶野も、思った以上に不気味な事件に巻き込まれていると自覚したのか、青ざめた顔をしている。
部室が不穏な静けさに包まれる中、俺は一つの結論を導き出していた。
――俺の考えが正しければ、犯人はあの人だ。
だが、まだ決定的な証拠が足りない。
俺は少し考えてから、最後のピースを埋めるために猪原に提案する。
「猪原先輩。職員室の鍵の管理簿を見たいんですが、お付き合いいただけますか?」
◆
俺とレンと猪原の三人で、職員室に向かって廊下を歩いていた。
日が暮れ始めた廊下には、すでに学生や教師の姿はなく、時折グラウンドから部活動の声が響く以外は人の気配がない。
ここならいいだろうと判断し、俺は足を止めて本題を切り出すことにした。
「猪原先輩、キーホルダーを見せてもらえますか?」
「……何?」
「キーホルダーです。自宅の鍵とか持っていませんか?」
「持ってるが、どうしてそんなものを見せなきゃならないんだ?」
猪原が警戒心を剥き出しにするので、俺は緊迫感で声が震えないように気をつけながら応じる。
「それは……あなたを、蝶野さんの手帳を盗んだ犯人だと思ってるからです」
隣でレンが息を呑む気配を感じる。
だが、猪原はその言葉を予想していたのだろう。特に驚いた様子も見せず、鋭い眼差しを俺に向けてきた。
「そこまで言うからには、密室の謎も解けたんだろうな」
俺は小さくうなずきを返してから、自分の考えを説明する。
「ミステリではよく密室殺人や密室内の消失事件について書かれますが、現場が本当に密室だったってパターンは稀ですよね。論理的に考えれば、密室に一人でいる人間が死ぬなんて、自殺以外にはありえませんから。消失事件の場合、対象物が密室から勝手に消えるなんてまずありえない。つまり、文芸部の部室は密室ではなかった、というのが僕の考えです」
「それは、俺が施錠を忘れていたということか?」
「いえ。鹿嶋先輩がダブルチェックしたのであれば、鍵を開けたままにしておくのは難しいでしょう。二人が共犯という可能性もありますが、いずれにしても図書室の隣という人通りの多い部室で、鍵を開けっぱなしにしていたら、嫌でも誰かの目についてしまったはずです」
「なら、どうやったって言うんだ?」
「最初は色んな可能性を考えてました。例えば、蝶野さん本人が手帳を隠していて、紛失事態が狂言だったんじゃないかとか。でも冷静に考えて、彼女にそんなことをするメリットはないですよね。むやみに注目を集めたいタイプにも見えまえんでしたし」
「それは……確かにそうだが」
「もうひとつ考えたのは、もっと突拍子もない方法です。深夜に窓ガラスを叩き割って侵入し、窓ガラスを丸ごと差し替えた。言うまでもないですが、これも不可能ですね。窓ガラスを割るような大きな音を出せば、宿直の先生に気づかれないわけがない。それに、たかが手帳を盗むためだけにそこまでするのは、どう考えても割りに合わないです」
ざっと話して一息ついてから、俺は人差し指を立てて最後に残った結論を口にした。
「狂言ではない。窓から侵入したわけでもない。ならば残った侵入口は正面突破、ドアの鍵を開けるしかありません」
「それで、鍵を管理してた俺があやしいって? 安直な推理だな」
猪原は軽蔑の滲んだ視線で俺を睨むと、反論してくる。
「部室でも説明した通り、一昨日の部活終了後は全員で部室を出て、俺が鍵を返却するところを鹿嶋と蝶野も目撃している。翌日の部活でも、俺が鍵を取ってくる前に鹿嶋と蝶野が部室の前で待っていた。その二回を除いて、部室の鍵が移動した記録は管理簿に残されていない。論理的に考えれば、俺にも犯行は不可能なはずだ」
「普通に考えたらそうなりますね。ですが、俺の考えは少し違います」
猪原の反論を受け流してから、俺は持論を展開する。
「部室の鍵を開けなければ、絶対に手帳を盗むことはできない。でも管理簿の記録に照らせば、部室の鍵を使うことはできなかった。……なら、間違っているのは鍵の管理簿のほうです」
「……どういうことだ」
「犯人はなんらかの手段で、管理簿の記録をちょろまかした。それによって管理簿に記録されていない空白の時間が生まれ、その時間を利用して部室に侵入した。そうすればすべてに説明がつくし、密室という前提も崩壊します」
猪原の表情が徐々に蒼白になっていく。焦りのためか額に汗が浮いているが、構わず俺は畳み掛ける。
「当然ですが、鍵の管理簿をちょろまかすなんて、口で言うほど簡単なことじゃありません。部室での話を踏まえると、管理簿にまったく記録を残さずに鍵を持ち出すことは不可能でしょう。では、犯人はどうやって管理簿をちょろまかしたのか。そこで重要なのが――先輩、あなたのキーホルダーです」
俺が指を突きつけても、猪原は苦虫を噛みつぶしたような顔で黙っている。
「俺の考えはこうです。一昨日の放課後、あなたは部室の鍵を返すために職員室に入った。教師の付き添いのもと管理簿に記録をつけて鍵を返却するが、それは部室の鍵ではなかった。部室の鍵と同じキーホルダーをつけて、部室の鍵と同じくらいのサイズの鍵を事前に用意して、部室の鍵を返すフリをして偽物の鍵を返却したんです。そうして部室の鍵を持ったまま職員室を出て、校門で鹿嶋先輩や蝶野と別れたあと、二人がいなくなったタイミングを見計らってすぐに学校に戻った。部室の鍵を開けて手帳を盗んでから再度施錠し、職員室に行って家の鍵と部室の鍵を間違えたと言って鍵の交換をした。本来なら管理簿に返却の記録をつけなければならないところですが、おそらく一連の行動を終えるまでに、かかっても十分程度の時差しかない。十分程度の誤差なら、教師もわざわざ二回返却の記録をつけろとは言わなかったでしょうね」
「……そんなの、君の推測でしかないだろ。大体、もし記録をつけろと言われてたらどうするんだ」
「忘れ物を思い出したとでも言って、部室に戻って手帳を戻しておけばいいだけのことです。それを何度か繰り返せば、いつかは当たりの教師にぶつかって、手帳を持ち出せる日が来るはずです」
猪原が反論できずにいるのを見て、俺は猟犬のように追い立てる。
「先輩の潔白を証明する方法は、たった二つです。一昨日鍵の返却に立ち会った教師のところに行って、今の推理の可能性について否定してもらうか。もしくは――先輩の持ってるキーホルダーを見せてもらって、部室の鍵とサイズが似た鍵を持っていないと証明するか、です」
言って、俺は猪原に右手を差し出す。
猪原の表情からは、すでに見せかけの余裕も消え失せていた。獣のように歯を剥き出しにし、怒りに染まった顔でこちらを睨んでくる。
「……よりにもよって、なんでお前なんかに」
「? 一体どういう――」
「全部、お前のせいだって言ってるんだっ!」
叫ぶと同時に、猪原が俺に向かって猛然と襲い掛かってくる。
反射的に身をすくめて防御体制を取ろうとするが、視界の隅で動く人影を見て、俺は瞬時に体から力を抜いた。
――これは、俺の出る幕じゃないな。
猪原が俺にたどり着く前に、レンが二人の間に割って入ってきた。猪原が俺につかみかかろうとして伸ばした腕をつかむと、素早く反転して猪原に背負い投げを決める。
さすがにレンは投げの威力を加減していたらしく、床に叩きつけられた猪原は、痛みよりも驚きのほうが勝っている様子だった。呆然としたまま床に倒れる猪原を、レンは静かな眼差しで見下ろした。
「あなたがカズトをどう思おうが勝手だが、カズトを傷つけることは私が許さない」
…………俺の幼馴染、あまりにもカッコ良すぎないか?
思わず女子のように胸キュンしてしまったが、そんな場合ではない。俺はレンを守るように前に出て、猪原に語りかけた。
「猪原先輩。あなたはなぜ、蝶野さんの手帳を盗んだんですか? それに……俺のせいって一体どういうことですか?」
「……まだわからないのか?」
俺の問いかけに、猪原は今度は呆れたような視線を向けてきた。後ろに立っていたレンも、なぜか嘆息を漏らしながら横に並んできた。
「カズト。君は頭がいいのに、そういうところはすごくニブいな」
「えっ。レンにはもうわかってるのか?」
「猪原先輩が見せた怒りと、部室での蝶野さんの様子を考えれば、大体察しはついたよ」
どういうことだかさっぱりわからずに首を傾げていると、レンは再び嘆息をついた。
「人の気持ちに関わることだから、あまり安易に説明したくはないが……つまり、蝶野さんはカズトのことが好きなんだよ」
「えっ!?」
俺が本気で驚いていると、レンだけでなく猪原にまで哀れみに眼差しを向けられた。
いや、確かに部室で俺の話題が出るって話はしていたが……だからって、俺のことを好きかなんてわかるわけないじゃないか!
俺がそう考えてるのがわかったのだろう。レンは困ったように苦笑した。
「確かに、部室での様子だけではわからなかったがね。蝶野さんの手帳を盗んだ猪原先輩が、君に怒りを向けたということを考え合わせれば、そう考えるのが自然だよ。蝶野さんはカズトが好きで、その蝶野さんを猪原先輩は好きなんだと思う。だからこそ、猪原先輩は蝶野さんの手帳を盗んだんだ」
「だから、って言われても……全然わからないんだが、一体どういう理屈なんだ?」
「蝶野さんは手帳に詩を書き留めていたんだろう? 文芸部の部誌発行のために、書いた詩を部内で共有する機会も多かったはずだ。詩というのは題材は色々あるらしいが、当然色恋をテーマに書かれることも多いんだろう。そして色恋をテーマに詩を書くとなれば、当然カズト、君が詩の中に出てくるということだ」
「……なるほど」
言われてようやく理解した。
自分に当てはめて考えてみる。俺はレンのことが好きだが、仮にレンが俺以外の男を好きになったとする。そんなことを想像するだけで胸が引き裂かれるほど苦しいが、その上レンと顔を合わせる度に好きな男の話題が飛び出してくるのだ。そんなことが続いたら、さすがにつらすぎてレンと一緒にいることはもちろん、学校に行くことすら嫌になるかもしれない。
「つまり、こういうことか。猪原先輩は部活での蝶野さんとの時間は大事にしたかったが、片思いの詩を読まされるのはきつかった。だから部活中に詩を読まれないように手帳を盗んだ、と」
「付け加えるなら、蝶野さんは部室にいても隅に陣取るくらい気の弱い子だ。中学時代に詩をバカにされたという過去を知らなくても、彼女が実名とともに自作の詩が流出するのを嫌がるタイプなのは想像できる。手帳を紛失したとなれば、彼女がしばらく創作活動を自粛すると考えたんだろう」
確かに、筆名や匿名が使える部誌と違って、手帳は創作と実名が紐づけられてしまう。過去の一件も踏まえると、蝶野が活動を自粛するのは自然に思えた。
レンの話を聞いて経緯は理解できたが……やはり、俺には猪原の心情を完全には理解できなかった。いまだに廊下に倒れている彼を見下ろし、問いただす。
「理由はわかりました。でも、自分がつらい思いをしたくないからって、好きな子をつらい目に合わせるなんて、やっぱり俺には理解できません」
「……お前に何がわかる」
廊下に倒れたまま、いつの間にか彼は目元を腕で覆っていた。彼なりの意地で隠したいようだったが、目元から涙が伝い落ちるのが見えてしまった。
「お前はいいよな。顔もいいし頭もいいし、その上性格だっていいんだろうよ。そんなやつに、俺みたいな惨めなやつの気持ちがわかるか? 好きな子がいるのに告白もできず、毎日毎日劣等感にさらされて生きていくやつの気持ちが」
そんな気持ち、俺だって毎日感じている。
誰よりも好きで、憧れている女の子がいつもそばにいるから、釣り合う男になるために必死で努力してきたんだ。
そうぶちまけてやりたいところだったが、すぐそばにレンがいるので、俺は黙って口をつぐむことしかできなかった。
代わりに、レンが猪原に告げる。
「猪原先輩の気持ちはわかりません。ですが、あなたが本当に蝶野さんのことを想っているのであれば、もう一度彼女に誠実に向き合ってもらいたいです。蝶野さんが誰を好きだとしても、彼女があなたのいる文芸部を大事に想っていることも事実なんですから。その信頼まで、裏切らないであげてください」
◆
帰路に着く頃には、完全に日は没していた。
結局、事後の処理は猪原にすべて任せることにした。後日蝶野からレンに解決の知らせが届くだろうが、きっと猪原はすべて打ち明けてきちんと蝶野に向き合ってくれるだろう。
…………しかし、今回の一件で色々考えさせられた。
俺が蝶野に好かれているって話にはいまだに実感はないが、女子からの好意が集まることで、間接的に面倒事を引き起こしてしまうとは。猪原が一番悪いのは間違いないと思うが、俺自身にも責任がないとは言えないだろう。
だからこそ、俺はいい加減覚悟を決めることにした。
夜道で隣を歩くレンに視線を向ける。彼女は真っ直ぐ前だけを見て、こちらを振り返ることなく前進し続けている。油断するとすぐに置いていかれ、背中を追うしかなくなるほどに、彼女の歩みは速く力強い。彼女の横顔を見ていられるよう――そして、彼女が助けを求めた時にいつも隣にいれるよう必死に努力を重ねてきたが、いまだに自分が彼女に釣り合う男になれたという自信はない。
それでも、やるしかない。
口を開くタイミングを見計らったまま歩いていると、気づけば家の前に着いてしまった。俺の家の隣にレンの家があり、レンは自宅の玄関先まで歩いてから俺のほうを振り返った。
「カズト、今日は手伝ってくれてありがとう。君のおかげで助かったよ」
「いや……こっちも猪原先輩に襲われた時に助けてもらったし、お互い様だよ」
「カズトは優しいな」
そう言って、レンはくすりと小さく笑う。めったに見れない笑顔にどきまぎしながら、俺はレンに一歩歩み寄った。
レンにバレないように何回か深呼吸して呼吸を整えたあと、彼女の瞳を真っ直ぐにのぞき込む。
「それにさ。俺は……レンの困ってる人を見捨てられない優しさとか、間違ってることを間違ってるってはっきり言えるところ、カッコいいと思ってるし……め、めっちゃ好きだからっ!」
緊張のあまり声がうわずってしまう。そんな自分が情けなくて、俺は思わずレンから視線を逸らしてしまった。
今、彼女はどんな顔をしているだろう? 親友だと思っていた幼馴染から告白されて、がっかりしてないだろうか。嬉しいと思ってくれているだろうか。とてつもなく気になるけれど、顔を上げて彼女の表情を正視する勇気はなかった。
実際には数秒だったのだろうが、沈黙が数分にも思える。その静けさに耐えられず、俺は弁明するように続けた。
「だっ、だから、俺に手伝えることがあるんなら、なんでも言ってくれよなっ! レンの頼みなら、いつでも飛んで行くから!」
「……ありがとう、カズト」
返ってきた声があまりに優しかったので、俺は期待と不安で胸がぐちゃぐちゃになった。
ゆっくりと顔を上げてレンを見ると、彼女はグータッチをするように拳をこちらに突き出していた。
「やっぱり、君は最高の相棒だ」
……………………え?
バタン、という音を立てて目の前のドアが閉まる。絶望的な思いでそれを聞きながら、俺はその場にへたり込んだ。
もしかして俺、今、フラれた?
いやいやいやいや! まだそうと決まったわけじゃない! 単に周りくど過ぎて、レンに伝わらなかっただけの可能性もある! いやそうだ、絶対そうに違いない! こちとら十年も片思いやってんだ! あんな曖昧な返事くらいで諦めてたまるかっ!
地面にへたり込んだまま、俺は夜空を見上げる。
眩しいほどに美しく輝く月を見上げながら、俺は盛大に嘆息を漏らした。
「……幼馴染の恋愛って、無理ゲー過ぎないか?」
◆
私――有馬恋は家に入ると同時に、その場にへたり込んだ。
――今、カズトが私を好きだと言ってくれたのか!?
嬉しさのあまり心臓が今でもバクバク鳴っている。顔が熱くなっているのを自覚し、赤くなった顔をカズトに見られていないか無性に不安になった。
ダメだダメだ。浮かれてはいけない。カズトは決して、そんなつもりで言ったのではないのだから。
カズトはほとんど学校中の女子から好意を持たれているし、私みたいな堅苦しい女はきっと眼中にない。
だから一緒にいる時は、カズトのことが好きだという気持ちを絶対に隠さなくてはいけない。
私みたいな堅物でつまらない女に異性として好かれていると知ったら、カズトが私から距離を取ってしまうかもしれないから。
せめて相棒として恥ずかしくない幼馴染でいるために、「カズトを独り占めしたい」などというワガママな気持ちは絶対に抑えなければ。
私は玄関にへたり込んだまま、盛大に嘆息を漏らした。
「……幼馴染の恋愛って、無理ゲー過ぎないか?」